きっと世界は美しい

木原あざみ

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 壁がトントンと三回叩かれたら、ベランダに出てこいの合図。この部屋に引っ越してきて、三ヶ月。夜の風もじんわりと汗ばむようになったころ、気が付けば、そんな習慣ができあがっていた。

「悠生ー」

 自分と違って基本的に暇だと思っているからか、遠慮のない声がベランダから催促するように呼ぶ。本来であれば絶対に許容しない距離感であるはずなのに、笹原のペースに流されるがままだ。
 それなのに、不愉快と言うわけではないのだから、不思議だ。近いけれど、不用意に心の内側に踏み込んではこない、ただ傍で座っているだけのような、言葉では言い表しがたい絶妙な立ち位置。笹原は距離感の取り方がきっと抜群に巧いのだろう。そう結論付けて、悠生は殊更ゆっくりと、打ち込んでいた文章を確認してから上書き保存をしてパソコンを閉じた。レポートの提出期限は来週だが、早めに仕上げておきたくて、課題が出た直後に手を付けていた。そのおかげで、今日中には仕上がりそうだった。

「悠生?」

 二度目の呼びかけに、悠生は立ち上がって、煙草の箱を掴む。ひと段落着いたから休憩に出ただけですよ、なんて。そんなポーズを取りたがる自身に苦笑を噛み殺しながら。
 網戸を開けて外に出ると、虫の声が僅かに大きくなったような気がした。
 あまり背の高くない隔板は、ちょうど悠生の目線のあたりまでしかない。そのおかげと言うのはおかしいかもしれないが、部屋を行き来しなくともベランダに出るだけで、顔を合わせて話をすることができる環境になっていた。

「勉強でもしてた?」

 邪魔しちゃったんだったら、ごめんね。謝っているが、本気で自分が邪魔をしたとは思っていなさそうで、悠生は俯いて煙草に火を点けた。
 大学で逢うときよりもずっとラフで気の抜けた格好をしているが、悠生にはこの姿の方がなんとなく落ち着く。今日も変わらず、悠生にはおしゃれなのかなんなのか判別の付かないイラストの描かれたティーシャツを着ているけれど。

「一段落着いた。というか」
「うん。なに?」
「それはなんなわけ? 猫? ふぐ?」

 突っ込んだら負けだと分かっているのに、つい突っ込んでしまった。案の定、笹原が嬉しそうに破顔した。誇示するようにティーシャツを引っ張る。

「かわいくない? このあいだ見つけて即買いしちゃった」

 哺乳類か魚類かすら識別できないフォルムの生き物だが、「かわいい」らしい。満面の笑みを否定する気も起きず、とりあえず目下の疑問を問いかける。

「かわいいのは分かったけど。それでなんなの」
「ゴマアザラシって実花さんは言ってたけど」
「実花さんって、それの作者?」
「そう、そう。このつぶらな眼が良いよね。癒される」

 つぶらどころか、どの線が眼なのかすらも分からないが、気に入っているらしいことは疑いようがない。未確認物体から視線を外して、天に紫煙を吐いた。今日は雲が厚い。

 ――そういや、日曜にまた良く分からないフェスに行ったって言ってたな。

「そんなに好きなら、普段もそういう恰好してりゃ良いのに」

 大学に向かうとき、笹原は、世間一般的に言うところのお洒落な服を着ている。それもべつに、嫌いだと言うわけではなさそうだけれど。

「これは部屋で一人でリラックスするときに着るからこそ意味があるの」
「俺と会ってるじゃねぇかよ」
「それはそれ。悠生は良いの」

 まぁ、俺が相手だったら見た目に気を遣う必要はないだろうなと悠生は思った。格好に気を巡らそうと考えたことはない。

「なんて言うのかな、悠生は楽なんだよね」
「あっそ」
「あっそ、って冷たいなぁ」

 笑って笹原がゴマアザラシに眼を落とす。まさに今、癒されているのかもしれない。いつからか、ベランダに出ても笹原は煙草を吸わなくなっていた。まるで自分と喋ることを目的に顔を出しているとも勘繰れてしまいそうで、悠生は立ち上る紫煙に意識を移した。星を数える代わりだ。

「勉強って、もしかして教育言論のレポート?」
「そうだけど」
「あれ期限、まだまだ先なのに。えらいね」
「べつに」

 笹原はさらりと人を褒める。これといった他意もないのだろうが、慣れていない悠生はどう対応すれば良いのか分からなくて、ついぶっきらぼうな調子になってしまう。

「早めに終わらせないと落ち着かないってだけ」
「それはちょっと分かる気もする。前日ギリギリにやろうって思ってても、なにがあるか分からないもんね」
「……そんなとこ。手ぇ付けたの早かったから、今日中には終わると思う」
「あ、じゃあ、今日は無理か」
「なにが?」

 残念そうな声に、悠生は首を傾げた。星を見上げるほどではないが、それでも長身の笹原と視線を合わせようと思うと、上向くことになる。だからなのか、とふと思った。高いところにあるものは、みんなきらきらして見えるから、眩しいのだろうか。

「バイト先でさ、余るから持って帰って良いよってお惣菜貰ったんだけど。結構な量だったから、一緒につまみながら飲まないかなーと思って」
「おまえ、俺が未成年だって覚えてる?」
「煙草吸いながら言う台詞じゃないよね、それ」

 笑われて、吸われないまま煙ばかりをたゆたわせている煙草に視線を落とす。

 ――そういえば、初めてこのベランダで顔を合わせたときにも言われたな。

「まぁでも気にしないで。明日でも良いし」
「行く」
「え? 良いの?」

 嬉しそうな声に、悠生は自分が無意識の内に口走っていたことを知る。けれど、今更、「やっぱり、無理」だなんて言えるわけがない。灰皿代わりの空き缶に、まだ残っている吸いさしを放り込んだ。

「べつに、今日中にどうしても終わらせなきゃいけないもんでもないし」
「うん」
「余らせるのも勿体ないし」
「うん」
「それだけだからな」
「うん」
「……なんだよ、その顔は」

 にやにやとした顔で頷いている笹原に、思わず身構える。

「え? リアルでツンデレって初めて見たなと思って」
「……」
「あ、それをかわいいと思う気持ちも分かるなって思って見てただけで、べつに馬鹿にしてたとかじゃないからね?」

 焦ったようにして付け加えられたそれに、悠生は渋々頷いた。

「知ってる」

 たった三ヶ月しか一緒に過ごしていないのに、この男がそういうことを思う人間でも言う人間でもないと知ってしまっている。

「なら良かった」

 にこと微笑む顔に、なんだかんだと抵抗したところで自分が絆されるのだということも、知ってしまった。得な性格だよな、とは思うけれど。

「じゃあ、待ってるから。玄関からね」
「おまえじゃあるまいし、乗り越えねぇよ」

 つい一週間ほど前、いきなりベランダから入って来られたときは、さすがにぎょっとした。

「あれは、あの、その。何回呼んでもいるはずなのに返事がないから、体調でも悪いのかなと心配になって」
「まずは電話鳴らせよ、そこは」

 転寝していて、壁を叩く音に気が付かなかっただけだ。スマートフォンが鳴れば気が付いたはずだ。

「そうだけど。直接行った方が早いじゃん。……いや、ごめんなさい」
「べつに怒ってはないけど」

 不思議なほど腹が立たなかったのは、純粋に案じてくれていたと伝わってきたからなのかもしれない。気恥ずかしくて、不機嫌な応答をしてしまっていただろうけれど。

「悠生は、そのあたり、本当に懐が広いよね」

 室内に戻ろうとしたタイミングでかけられた声に、悠生は特に反応はせず網戸を閉めた。部屋の中はじんわりと蒸している。もっと暑くなったら、とふと思った。真夏になれば、ベランダで話すこともなくなるだろうか。でも、そうなればどちらかの部屋に行けば良いだけだ。冷房代も節約できる。
 そこまで考えて、悠生は自身に笑った。三ヶ月前、自分は思っていたはずだ。どうせ、いつかその笑顔は向けられなくなる、と。だったら、早いうちに離れて欲しいと漠然と願っていたはずだ。
 それなのに、当たり前の顔で隣にいる男が離れていくことはありえないと思ってしまっていた。そんなこと、あるわけがないのに。
 今まで、自分に失望しなかった人間なんて、いなかった。誰一人として。
 だから、最初から砂粒ほどの期待も抱かれないように、隠れて生きてきていたのに。
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