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「はぁ…」


ミシェルは窓辺に腰掛け、物思いに耽っていた。
読もうと思って蔵書室から持ってきた「女神神話」は一頁目から進んでいない。


「やっちゃった…やっちゃったよぉ~…」


数日前にパートナーとしての必要な交流とやらをする為、我が家へやって来たレナルド殿下。
そんな尊き御方に私は、号泣しながら愚痴を零し泣きすぎて目の前で意識を飛ばすという失態を起こした。

分かってた。いつかやらかすとは。
でも今はダメじゃん!いや後からもダメだけどっ!

あの日、目が覚めたら既に殿下は帰っていて、新しい侍女だというエマが私の面倒を見てくれていた。

どうして突然新しい侍女が?おバカさんはどうしたんだろう?そういえば最近見てないな?と思ったものの、それよりも、淑女としてあるまじき醜態を晒してしまったというミシェルの思いと推しに幻滅されたかもという葵の思いの方が強く、終始羞恥心に悶えていたら気にならなくなっていた。

昔からの専属であったかのように私の事を熟知しているエマは、先を見据えて行動するよく出来た侍女だった。特に何を言わなくても「済んでおります」と返ってくる優秀さ。おバカさんのように、嘲笑い虐めてくることもない。平和。実に平和である。

ひとつを除いて。


「ねぇ、エマ。殿下はあとどのくらいでいらっしゃるの?」

「およそ十分後かと。」


十分なんてあっという間じゃないか。

そう、今日が三日に一度のパートナーとしての必要な交流日なのだ。

いまなら逃げてもバレないかもしれない。いっそのこと体調が悪いから~って言ったら帰ってくれるかも!


「逃亡は不可です。仮病も不可です。到着されるまで今暫くこちらでお待ち下さい。」

「…はい」


毎度、心を読んでいるのでは?と疑う程的確な返しをしてくるエマは凄いを通り越して寧ろ怖いと言っていい。そういう魔法をつかっているんだったら納得できるんだけど心の声を読む魔法は本に記されてなかった。


「あ、そだ!お菓子!食べたいから取ってきて~!」

「なりません。昼食の3時間後と決まっています。あと20分は我慢して下さい。おそらく殿下とご一緒に召し上がれるかと。」

「…はい」


ほんと、エマには一生勝てない気がする。

マナーを身につけたいって言ったからお父様が漸く見本となる人を雇ってくれたんだろうけど、ここまで頭が固いとむしろ疲れちゃう。能力的には全然問題ないんだけど、ね。


「お嬢様。お出迎えはされますか?今ホールに向かえば間に合いますよ。」

「そ、うだね。…腹括るしかないかぁ」

「ご立派でございます。」


長い長い廊下を歩きながら、これからレオ様へどう接するか考える。

とりあえず謝罪は必須よね。倒れたあと色々指示して私の面倒を見てくれてたみたいだし、お抱えのお医者様まで呼んで下さったんだから。
本来だったらハラキリ案件だけど、私には愛しい推し達に最高の幸せをお届けするという使命がある。だからまだ死ねない。

別の手…よし、ここは精一杯の謝罪と将来の奥さんの情報で手を打ってもらおう!

心を決め、緊張しながらもホールで待ち構える。
するとエマの予告通り、数秒もしない内に彼はやってきた。


「ごきげんよう。殿下におかれましては」

「いいよ、シェリー。簡単で。公式の場では必要だけどプライベートなんだから今後も楽にして。」

「…かしこまりました」


やっぱり遮ってくる彼は今日も今日とて美しい。
背後から差し込む日差しと相まって、現実離れしている。
暫し見惚れていると、固まった私に疑問を抱いたのか、彼が首を横にコテっと倒し私の名前を呼んだ。


「ッ!!」


かっっっっっっっっっっっわ!!!!!!!!!!!!!
え、殺す気???!!!!!!!やめて?????
ほんとに私あなたの顔大好きだからちょっとした言動で死んじゃうからね?!!!その辺理解してもらわないと困りますから!!!!今は死にたくないので!!!!!!

咄嗟に押さえた鼻と口から手を離しチラッと確認する。

どうやら血は出ていないようだ。良かった。


「ど、どうかした?!体調悪い?!」

「いえ、発作のようなものです。お気になさらず。ではご案内致します。」

「そ、そう。シェリーが言うなら…」

「こちらへどうぞ」


これ以上変質者を見るような目で見られたくない。心に刺さる…



先頭が私、その後ろをレオ様、最後尾にエマとレオ様の従者のお菓子くれる君と続く。並んで向かう先は、私の部屋。

一般的にお客様は応接室に案内するのが普通だと思う。もちろん私もそう思った。でも、何故かエマが私の部屋の方がいいって引かなかったのだ。
理由は教えてくれなかったから知らない。なんかやけに真剣に自室にするべきだと言ってきて、そういうパターンもありなのか?とか考える暇も与えられないまま気付いたら承諾してた。
そう、エマの口車に乗せられたのだ。まぁ自分の部屋の方がなにかと都合が良いから別にいいんだけどね。

それに、自室と応接室の差なんて無いに等しい。むしろ、これから私主催の一大イベントが待っているんだからそっちを気にするべきだ。それさえ乗り切れられるんだったら部屋なんてどっちだっていい。

誰に言い訳しているのか分からないがミシェルがうんうんと頷きながら歩いていると、後ろから可愛いらしい声に呼び止められた。


「ねぇ、シェリー。聞きたいことがあるんだけど…」


レナルドだ。
ミシェルはまだ声変わりをしていない高めのソプラノボイスに耳を傾ける。聞いてるだけで浄化されそう…と頬が緩んでいくのが止められない

ゲームでは幼少期の声優はついておらず、文字の羅列だけだった。まさかこんなに美声だったなんて。
あの腰に響くテノールボイスを知っている身としてはこの高い声に違和感を抱いていたけど、なんせレオ様は天使と言っても過言ではない御方。感じていた違和感はとうの昔に消え失せている。

でも、【公式未発表の幼少期ボイスを一声でいいから録音したい】という衝動は、出会った時からずっと駆られ続けている。正直、いつまで抑えられるか私にもちょっと分からない。

レオ様は関わりたくないランキング1位の攻略対象者だけど、綺麗なソプラノから心地よいテノールに変わるその過程を傍で聞けるのは婚約者の特権なので、その点だけは役得だ。寧ろ無料で聞いていいんですかと問いたい。


「何でしょうか?」

「ずっと思ってたんだけど、どうして隣へ来ないの?僕達は婚約しているよね?」


うっ、痛いところを…
突っ込まれるかなぁ~とは思っていた。だけど、これはどうしようも無いのだ。だって隣って!肩と肩が触れ合う距離に推しが…!レオ様がいるとか正直心臓が持たん…!

この前薔薇園を一緒に歩いてたよね?と意見する自分がいるけどそうじゃない。今とあの時とでは状況が違うし私のHPも違う。

だから今日は無理。そう言いたい。
だけどそんなことレオ様に言えるはずもない。


「えっと、恐れ多いので隣はちょっと…遠慮しておきます…」

「遠慮しちゃ駄目だよ。夜会や公式行事では隣に並ばないといけないのだから。今から慣れておいても損は無いんじゃないかな?ほら、こっちにおいで。」

「ふぁ!?」


お、お、お、おいでだと…!?まってまってありがとうございます…!ありがとうございますっ!今日はなんて最高の日なんだ!まさか発売5分で売り切れたレオ様の【苦手な朝は僕に任せて☆ラブラブ♡目覚ましボイス】に収録されていた『おはよう。どうしたの?悪い夢でも見たのかい?ほら、おいで。』の昇天必須台詞、『おいで』が生で聞けるなんて…!あっ…無理…好き…テノールの寝起きっぽい掠れた声ももちろん良かったけどソプラノの可愛さ満点母性くすぐる甘えボイスもイイッ…!めちゃくちゃ好きですっ…!あぁほしい!!絶対買うから是非とも商品化を…!ぼったくりでもいいです!喜んでぼったくられるのでできれば最低十個!!下さい!!枕元に並べて四方八方からレオ様のお声で起こされるためにも…!!(一息)

ぐへぐへと思わぬファンサに悶えていると、視界の端でレオ様がこちらを不審げに見つめているのが見えた。


「やっべ」


慌てて顔面を手で覆って訝しげに見つめてくる視線から隠す。
くそぉ…推しの破壊力を見誤っていた…ッ


「シェリー?」


突然顔を覆ったまま微動だにしなくなったミシェルをレナルドは心配そうに覗き込む。その気配にミシェルは硬直する。

近い!近いって!無理!死ぬ!推しの過剰摂取で死ぬ!!!!

真っ赤になって挙動不審な様を披露するミシェルは余計に表情筋が崩壊していくのを感じていた。
今絶対気持ち悪い顔してる自信ある!!


「ち、ちょっと今非常事態でして!暫くお待ちいただけますか?!すぐ!すぐにでも戻したいんですが戻せる気がしなくて!待ってもらえ…ひぇっ、むりっ…近っ、でっ出来れば離れて貰えます、か…?ぐっ…う…心臓への負荷が半端じゃないっ…!」


さっきから一向にオタクモードが引っ込まない。
葵としての感情がモロ、全身に出ている。

落ち着かせるために徒然草を口の中でボソボソと呟く。
無心になるにはこれが一番効くのだ。

4週目を過ぎたあたりで漸く通常モードという名の無表情に戻ったミシェルは指の隙間からチラリと彼の様子をうかがう。
すると彼は、さも当然のように右手を差し出しこちらを見つめていた。
え?私が見てない間もずっとその体勢でいたの?可愛いなッ

その手が、エスコートを意味するものだと貴族令嬢であるミシェルが冷静に納得すると、オタクである葵は握手という追い討ちファンサに脳内で奇声をあげた。

もうこれ以上はっ!お金を払わせてくださいっ!

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