上 下
18 / 37
第六回 手紙、脅迫、堕ちた先。

六の三(殺人現場と謎の遺体、皇族の城、激しい獣のような男)

しおりを挟む
 /三


「雷横。出会って五秒で喧嘩は、良くない。誰だって良くない。反省しろ」
「だって! だってなぁ! ……あのガキ! 今度あったらタダじゃおかねえぞ!」

 見回りを終えた夜遅く。朱仝と雷横のもとに、晁蓋の遣いを名乗る少年が現れた。
 赤毛の血気盛んな若者・劉唐のことを、雷横は忘れたことはない。すぐさま殺し合いに発展。朱仝がいなかったら大騒ぎで済まなかったかもしれなかった。
 何とか朱仝が間に入り、大事な手紙と金塊を受け取り、さっさと帰した。
 興奮する雷横を宥め、手紙を燃やすと、ようやっと宋江宅へ見舞いに行けるようになった。

「しかし大金か。困ったな。こんなの使うに使えないぞ。雷横はどうする?」
「博打にでも使う」
「よし、今すぐみんな宋江に預かってもらおう。貸せ」
「なんでだよ。俺が貰った金だぞ? 貰った物は仕方ないし、いつも出来ないことに使うべきじゃないか」
「あのなぁ、思い切って使いまくったら『その金はどうした』って怪しまれるよ。せめてお袋さんの為に取っておけ……」

 突然の劉唐来襲により、既に真夜中を過ぎていた。
 ただの見舞いなら翌日にするが、劉唐および晁蓋の件は早めに宋江と打ち合わせをしておくべきである。
 そう判断した朱仝は、雷横を引っ張りながら宋江宅を訪れた。
 夜も遅いが宋江は顔を出してくれるだろうか。危惧しながら朱仝は門前に立つ。
 三つある鍵のうち、一つも掛けられていないことに気付いた。

 宋江は来客があるとき、鍵を掛けない。
 戸の鍵はどれも特注で開けるたびに人を待たせてしまうため、客人が行き来する間だけは鍵を外すと話していた。
 つまり来客があり、この時間になっても帰っていないことを意味している。
 とりあえず声だけでも掛けようと門の中へ、家屋へと進んでいく。
 そして血の匂いを感じた二人は、一斉に駆け出した。


 階段の下が、血まみれだった。

 女が目を見開いて死んでいた。頭から血を流し、首が人間ではない方向に曲がっている。
 二階から落下し、打ち所が悪くて死んだのだと朱仝には一目で判った。
 家主である宋江も、女と同じく階段の下に蹲っていた。明らかに死んでいる女と違い、血の海の中で呻きながら体を抱いている。
 雷横がすぐさま宋江へ駆け寄った。
 激しく嗚咽しているが、生きている。死体と隣り合わせで転がっていたので万が一を考えたが、安堵して応急手当にかかった。

 一方で朱仝は、警察官としてこの状況を見渡した。
 宋江の肌蹴た下半身は血で濡れている。
 返り血ではなく、宋江自身が流しているものだ。
 最初は腹や足を刺されたのかと思ったが、殺傷痕はない。血尿・血便のような症状を疑ったが、なら他に散らかっている物がある筈だ。おそらく違う。
 妊婦の出産現場を連想したが、男である宋江には考えられないと、頭を振るった。

 死んでいる女を見る。
 先日三人で舞台を観に行った、閻婆惜という歌芸者だ。
 有名人だが最初は誰か判らないほど、死に顔が歪んでいた。
 傷付けられてはいないのだが、まるで恐ろしいものを見たかのように恐怖で凍りついた顔をしている。

(可哀想に……。でも何を見れば、これほど皺くちゃな顔になる?)

 年相応に可愛らしく、妖艶な唇で、若者が好む恋の歌を唄っていた美少女はどこにいったというのか。
 ふと閻婆惜が指に挟んでいる物に気付き、朱仝は渾身の力で引き抜いた。
 晁蓋が宋江へ宛てた手紙だった。

 先ほど、朱仝と雷横は手紙を読み終えると同時に処分した。
 何故宋江はしなかったのか。それは、短い文でも親しみがこもった言葉の数々を見れば、一目瞭然だった。
 大事な手紙を捨てられなかったのは判る。だがそれを女に読まれて……?

「この娘が晁保正の手紙を見た……宋江に見つかり、押し問答になり、二人とも二階から落ちてしまった……?」

 だとしても、出血をしすぎではないか。
 困惑する二人を前に、雷横に抱き起こされていた宋江が、目をうっすらと開けた。
 二人がかりで声を掛ける。弱い動きで自分の腹を撫でる宋江は、何度も腹部を摩ると、涙を溢れさせた。
 涙と痛みに耐えるように声を殺し、身を抱き始める。

「……私は……殺した……」

 何があったのか。雷横と朱仝は問い質そうとした。
 けれどその一言以上、求める気にならなかった。
 この場に起きたことが事故か事件か判らない。だが宋江自身が「殺した」と言っている以上、殺人罪として宋江を捕らえることができる。
 そして宋江の性格を知る二人は、『もし宋江が殺人を犯したなら』『私を裁けと言い張るに違いない』『たとえ犯人でなくても』『この女を庇うだろう』と、察した。

「朱仝。逃がそう」
「ああ。逃がすぞ」

 宋江が女を殺した事件か、事故で女を殺してしまったのか、関係無い。

『この男を生かさなければならない』

 宋江の血の匂いが充満した家に立つ二人は、まるで誰かに操られたように迅速に、迷いなく動き出すのだった。


 ――暗闇の中にいる。

 目を開いても暗い色、それしか覚えていない。
 寝ても覚めても闇の中。周りの物を確かめたくて手で探ろうとする。
 すると腕に巻きつく拘束で、自分が雁字搦めに捕らわれていることに気付く。
 体が重い。香りがきつい。獣の匂いで溢れている。押し潰されそうだ。
 この重みは何か。全身に巻かれた拘束のせいではない。
 体の中に『自分以外の』無数の何かが入り込んでいて、だから身動きができなかった。
 手を伸ばし、「誰か、助けて」と声を放つ。何も返ってこない。
 後々知ったがそこは地下に封印された場所で、私を囚えるため道士達が――。


 違う。
 私を治療するという名目で作られた地下室は、父の知り合いの大工によって造られたもの。一人で過ごすあの家も彼らのおかげ。
 家を造るのは大工の仕事。そんなの当たり前だ。何故そこに『道士』などという言葉が出てくるのか。

 見知らぬ天井を見上げながら、宋江は収拾のつかない感情に胸を抑えた。
 そして体験したことないような柔らかい心地に、目をぱちくりさせる。
 信じられない柔らかさの毛布に包まれ、豪華な寝台の上、煌びやかな家具に囲まれていた。

 知らない部屋に、覚えのない格好のまま寝かされていた。
 贅沢で高級品ばかりが並ぶ寝室なんて使ったことがない宋江は、途端にざわめき、逃げるように立ち上がる。
 体が軽い。なんだか、腹がへこんでいる気がした。

「あらら。宋江殿、お目覚めです?」

 人を呼ぶべきなのか迷っていた宋江のもとへ、気品ある優雅な貴婦人が、何人もの従者の女達を引き連れて現れた。
 何者か名前が出てこない。だが、高貴な装いができる者など、世界に有数。
 自分が考えられる中で、縁がある身分の人物。宋江は巡り巡らせ、ある人物に行きついた。

「……柴進さいしん様、でしょうか」
「いかにも。宋家の跡取りの坊ちゃんと顔がよく似ておられますね。ああ、貴方の方がお兄様だったかしら?」
「……お、弟の宋清が、いつもお世話になっております」

 前代の王朝である後周の皇帝・世宗の子である柴世祖の末裔。
 天子の子孫・柴進。
 宋王朝に禅譲した経緯から、子孫である柴一族には現朝廷からも滄州横海郡に広大な土地を持つことを許されている。
 かつて世を収め、現政権に帝位を譲ったことから今の皇帝から丹書鉄券おすみつきを与えられており、柴家の大邸宅には、一種の治外法権まで認められていた。

 富豪というにもおこがましいほどの大貴族。宋という国の中に、また一つの国を持つ王。
 生まれながらにして高貴な顔つきを備え、見た者を圧倒させる威厳を持つという噂は、本当だった。
 遅れながら宋江は伏して拝礼をする。

「その……柴進様が女性とは知らず、ご挨拶が遅れました。申し訳ございません。私が宋江でございます。鄆城県宋家村の宋江で……」

 頭を下げた宋江のもとへゆったりと足取りで近づく女は、片手を静かに振るうと従者達を外へ追い出した。
 室内には二人きり。一人立つ柴進は頭を下げたままの宋江の間近に寄ると、傷一つ無い白い指で宋江の耳朶みみたぶをひょいと摘んだ。

「ひゃっ」
「うふふ。寝ているときから思ってましたの。お耳が大きくて、縁起が良いわ」
「えっと……はい、よく言われます……」
「まずは宋江殿にご説明しなければなりませんね。二日前、お出かけをしていた私の馬車と、馬二頭が衝突しかける事件が発生しました」
「なっ……。さ、柴進様、ご無事でしたかっ?」
「衝突する前に護衛が二頭を止めましたから無傷です。聞けば二人の男が急病人を運んでいる最中で、宋家村の保正の家へ急ぎたいから通してくれと大慌ての様子」

 柴進が、穏やかに暖かい声色で語る。
 その間も宋江は下を向いたまま、ただただ耳朶をフニフニと摘まれ続けていた。

「大きな街から来たというのに、何故わざわざ外れの村へ、医者のもとではなく、何故保正のもとへ、不思議だなぁと思いまして、わたくし、顔を出しちゃいましたの。そしたら貴方の香りがしまして」

 フニフニ、ひたすらに揉まれ続けていた耳元へ、女性の唇が近づく。
 口付けられる僅かの距離まで詰め寄り、柴進はそのまま、すんと鼻を動かした。

「甘い、オメガの素敵な香りが」

 うっとりとした声で囁き、両腕を伏したままの宋江の首へと回した。
 頭を両腕で抱えられ、宋江は間近に女性の柔らかさに包まれる。
 淑やかで高潔な装いばかり目についていたが、抱きつかれて初めて、乳房は頭ほどに大きいことに気付く。
 ここまで大きな胸の女性は初めてだった宋江は、本当にそれが人間の体の付いているものなのか、目を白黒させてしまった。

「我々アルファを惑わす、淫靡な香り。そうしたら、思い出したのです。ああ、宋家村にはオメガがいるって話を。珍しい取引を持ちかけてきた一族がいたなぁって」
「……は、はい。それが私です。私がその……病の一人でして。ありがとうございます、私は貴方様に何度命を救われているか……」

 ――十数年前。父は病を治す手段を探した。治す手段は、見つからなかった。
 だが悪化させずにすむ薬を発見した。その薬を売買しているのが、柴一族だったという。
 以後、宋家は柴家と付き合い始めた。
 宋江も実際に会って礼を言いたかったのだが、本来なら直接会うことすら叶わない高貴な御方である。
 後継者である宋清に全てを任せるようにと言われていたため、今日まで言葉を交わすことができずにいた。

「柴進様は……アルファ、なのですね」
「ええ。わたくし、下に生えておりますの」
「はえ、て」
「あら、宋江殿はあまり驚かれないのね? 覚悟しないで聞いた人は『化け物だ!』と喚くのですけど」

 公孫勝という前例ケースが無ければ、驚愕して更に伏していたかもしれない。
 だが柴進の、聖母のような慈愛に満ちた瞳、美しい髪に、豊満な肢体を目にしては『有能種』という言葉を前にしたような感覚になり、何もかも納得してしまう。

「ふふ。……本当に、良い香り。品が無いことを言いますけど、お連れしている最中も、宋江殿が眠っている間も、ずっと『食べちゃいたい』って思っていたのですよ。涎が溢れて大変だったのですから」

 聖母のよう。柔らかく、暖かく、心地良く全身を包み込もうとする女性。
 しかし同時に、まるで大蛇に全身を拘束されているような感覚に襲われた。
 もしくは、弾力がある胸や二の腕は蜘蛛の巣で、彼女はそこの主――つまり蜘蛛そのものだと言った方が相応しいか。

「傷ついた貴方を運んでいた雷都頭と朱都頭から、事情を伺っております」
「……二人から……」
「実はわたくし、ずっと気に掛けていた宋家村の貴方のことが、前々から心配で心配で。貴方を奪われる訳にはいかないと思いまして。だからそのまま、わたくしの敷地へお連れしましたの。……お二人は、とても心配なされていました。良いお友達ですね。後で、宋江殿がお目覚めになったと遣いをやっておきましょう。きっと喜ばれますよ」
「……何から何まで、ありがとうございます」
「気にしないで。貴方が眠っているうちにわたくしの医者に診せて、何の問題も無いようにしておきました。だから思う存分お休みになって」

 抑制剤を処方できる者を抱えているという。その者がいる場所で体を休める、これほど心強いものはない。
 どうしてこれほど良くしてくれるのか。
 尋ねようとすると、そんな宋江の顔色を察してか、柴進は相変わらず微笑み、唇に指を置く。

「宋江殿。わたくしは貴方の存在、気に入ってますの」
「私の、存在を?」
「アルファの優秀な子を孕む、その器。興味深いですよ」

 明言する柴進の表情は、優しく笑っていた。
 そしてそれ以上の感情を秘めていることを察し、抑えられようとした動悸がかえって表に出てしまう。

「宋江殿が芸者の女を殺した大罪を犯されても、わたくしの屋敷においでになった以上、心配はございません。自慢する訳ではありませんが、強盗捕縛の官軍でも、この屋敷をまともに見ることなどありません。たとえ朝廷から任命された役人を殺そうがお上の財物を奪おうが、この柴進が宋江殿を匿います」

 親しみを込めて抱擁し、眼前で幼い子供のような満面の笑みを浮かべる女性は、恐ろしいほど清々しく宣言した。
 無償で無情な優しさに、感謝の言葉を述べようとする。
 だが、柴進が言い放ったある一言に、微睡みの中で忘れかけていたものを取り戻してしまう。

「……閻婆惜は、なぜ死んだのですか?」
「あら? 宋江殿が殺したのではなくて?」


 二日、三日と過ごしているうちに、体の不調は消えていった。
 何より喜ばしいのは、下腹部の膨らみが消えたことだった。
 あれは妊娠ではなく、体調不良によるもので、要は腹に屁が溜まっていたに過ぎない。
 全て考え過ぎの産物。少しずつ平たくなっていく腹に、安堵した。

(……安堵はしている。けれど、何とも言えない胸の苦しさが抜けない……)

 体調が整うと同時に、宋江は発情期の前触れを感じた。
 穏やかな寝床で体を休め、栄養のある食事を摂り、使用人に毎日体を洗われ、髪まで梳かされた。
 おかげで順調に時期が来たのだ。

「わたくしは、人をもてなすことが大好きなのです!」

 まさか天子の末裔に食事を「あーん」されるとは思わず、大声で畏れ多いと逃げたが匿ってもらっている以上、強くは言えず。
 弄ばれる三日を過ごした。

(人をもてなすのが好き。話すのが好き。……私と、晁蓋殿と同じだ)

 柴家の城は屋敷が大きいだけはない。大きな門で囲っている中で庭園という名の森があり、泉があり、館がいくつもある。
 体調が良いなら運動をすべきと言われ、宋江は館を歩いた。
 始めは庭に出ることも考えたが、もう雪がちらつく季節になっていたことに気付いた。
 ならば長い廊下が続く館で準備運動をしようと、目的もなく歩き始める。
 どこまでも続く廊下。至る所に繋がる大邸宅。
 そこには柴一族や仕える使用人だけでなく、柴進の趣味で集められた客人が何人も住んでいるという。
 宋家村の実家や東渓村の晁蓋の大屋敷とは比べ物にならない広さだ。
 だが彼女がしていることは、晁蓋と全く同じである。

(晁蓋殿にとって呉用や公孫勝、劉唐のように、何人も好漢を住まわせているのか)

 懐かしい顔を思い出して、宋江は胸が苦しくなる。
 手紙を、もう一度読みたかった。読んでおけば良かった。
 一度、目を通しただけで終わってしまった。
 早く捨てるべきだと判っていても、それでも晁蓋の心が書かれた手紙を、胸に抱いておきたかった。

(閻婆惜。どうしてあんなことを。……どうして、死んだ?)

 強い酒を飲んだせいか、『閻婆惜が金を要求したこと』しか、記憶に無い。
 黄金百両を渡して手紙を返してもらうことも考えたが、それよりも罪人として名乗り上げて、閻婆惜に脅迫なんてやめてもらうことも思案していた。
 閻婆惜は、未来ある若者だった。
 美しい歌声を持ち、誰もが目を惹く華やかな顔つきで、いずれ良い男性と結婚できただろう。
 彼女の将来のためにも脅迫という悪行ではなく、役所にそのまま罪人を突き出すことで得られる報奨金を得た方がいい、そう説得しようとしていた。

(なのに酔った私は、途中で激昂したのか? ……すまない、閻婆惜、すまない……ああ、私は彼女に、詫びるべきだ……)

 柴進は自分を救うと優しい宣言をしてくれた。
 だが閻婆惜を殺した罪は認めなければならないことである。
 おそらく宋家村の実家にも捜査が入っているだろう。世間ではもう宋江は、殺人犯と逃亡犯として、罪を重ねているのだ。

(雷横くんと朱仝くんは、私を生かすために、逃がしてくれた。けれどそれで父達に迷惑が掛かっては……ああ、違う! 二人を責めたい訳じゃない! すまない、二人は私の為にしてくれたのに……)

 皆に、会わせる顔が無い。
 自分は親不孝者。そして、友人達を責めてしまう薄情者だ。
 考えるたびに涙が滲み、零れ落ちた。

 迷走し、ぼうっとしながら歩いていると、足元に小さな火鉢があることに気付かず蹴り倒してしまった。
 廊下に座り込んで暖を取っている男がいるとは気付かず、火鉢がひっくり返る。
 幸い、蹴り飛ばした火鉢は右へ、蹲っていた男は左に居たため、怪我は無い。
 ほっとしながらも謝罪の言葉を掛けようと、近寄る。
 すると大きな掌が伸び、結んでいた髪を掴んで奥へと引き寄せられた。


 男の寝床らしき汚れた部屋に、転がされた。
 暖を取って寛いでいた男の邪魔をした、だから彼は怒っているのだろう。
 無礼な奴を殴るために部屋に引きずり込んだのだ。怒らせてしまったのだから殴られても仕方ない、仕方ないのだと、宋江は目を瞑って衝撃を待つ。
 しかし一向に拳は来ない。
 おそるおそる目を開けると、逞しい体つきの男が、間近で睨んでいた。

 鋭い目の男だった。
 二十代半ばぐらいの、若く凛々しい顔立ち。
 ボロの着物姿だが格好を改めれば振り向かない女性もいないほど、端整な顔をしている。
 だがそんな印象を全て打ち払うような厳しい目つきが、宋江に突き刺さった。

「――お前。柴進の新しい玩具か」

 尋ねるでもなく呟きのような声に、宋江は呆気に取られて頷くこともできない。

「わ、私は……んんんっ!」

 答えるよりも先に、寝床へ転がされた宋江の着物の裾を、男が大きく捲り上げる。
 慌てて着物を抑えるが、男の手は一気に肌の上まで到達した。

(まさか、発情期が早まった……?)

 健康になったことで正常に体が動き始めた。
 普段とは違う生活で計算が狂ったのではないか。訪れるとは思わなかった症状に、どっと汗が噴き出す。
 その現象がまた男を狂わせるというのに体は言うことを聞かない。
 振り払って逃げ出そうにも、屈強な体つきの男の大きな掌が、胸を、腹の上を摩っていく。
 それだけで切ない痺れを感じた。

「んあっ……! あ、あの……君!」

 しかし男は、まだ正気のようだった。
 赤面や発汗など狂気に陥った様子はない。
 異香に呑まれていないならば。
 一途の望みをかけて、声を張る。

「すまない、よく前を見ていなくて、申し訳無い……! 謝罪をさせてくれ、一度、離れよう。落ち着いて、謝らせてほしい……!」

 このままでは彼は、通りすがりの男に欲情し、強姦してしまう。
 そんなことは本人だってしたくないだろう。
 どうしてそうなったのか説明をしても、理解してくれるものでもない。
 なら少しでも距離を取り、興奮を収めるしかない。
 身を起こし、誠実な謝罪をし、すぐにここを去ろう。

「これ以上は、いけない。君を後悔させてしまう……」

 すぐに去れば一瞬の気の迷いで済む。
 謎の衝動に翻弄されることもなく、何も判らぬ彼に汚名をきせることもない。
 彼の為にも、この場を去らなければ。

「どうか、落ち着いて……。私は、君を後悔させたくない。君の未来の為にも……」
「うるさい。どうせ俺は、後は死ぬだけなんだ」

 しかし睨んだものを凍りつかせるような瞳は、未だに変わらない。

「好き勝手暴れて、くたばるだけだ。……もう、何をしたって、もう」

 獣のようだと恐れていた彼は、悲しい人間の言葉を、淡々と綴った。
 獲物を食らおうと狙いを定めた目――鋭いだけと思っていた目を、見つめる。
 その色は、まるで暗闇の中にいるかのようだった。

「……君は……?」

 どうしてそんなことを言うのか。覆い被さる男へ、尋ねる。男の体が寄った。
 太い腕が今にも宋江を食らおうと引き寄せると、体臭が薫った。

 限界は、あっさりやってくる。
 男の臭いを嗅いでしまった途端、いつもの熱がぶり返した。『この男は、激しく犯してくれる』 思った途端、猛烈な幸福感に包まれ、激情が抑えきれなくなった。

 自分を失くす瞬間はいつだって怖い。つらい。
 そして他人を狂わす瞬間も、同じぐらい、いいやそれ以上に胸が張り裂けそうになる。
 あまりの苦しさに再び目を瞑った。

 そのとき低く唸るように発せられた「武松ぶしょう」という音が、彼の名前であると判ると、宋江はもう一度瞼を開けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?──自称ノンケな欲望担当天使のつがわせお仕事日記

スイセイ
BL
「死ぬ前に一度だけ、セックスしたい人はいますか?」 時は西暦20××年、日本。元来シャイな国民性を持ち、性愛に対する禁忌感情が色濃く残るこの国では、 死んだ人間がカケラとして残す「一度でいいからあの人とセックスしたかった」という欲望が大地を汚し、深刻な社会問題となっておりました。 事態を重く見た神様が創設したのは、「天使庁・欲望担当課」。 時間と空間を縦横無尽に駆け巡り、「あの日、あの時、あの人とセックスしたかった」という欲望を解消して回る、大事な大事なお仕事です。 病気の自分をずっとそばで励ましてくれた幼なじみ。 高嶺の花気取りのいけすかないあいつ。 もしかしたら、たぶん、いや絶対に、自分のことを好きになってくれたはずの彼。 未練の相手は様々でも、想いの強さは誰しも同じ。 これは、そんな欲望担当課にて、なんの因果か男性同士の性行為専門担当に任命されてしまった自称ノンケの青年天使ユージンと、 彼のパートナーであり、うっかりワンナイトの相手であり、そしてまた再び彼とのあわよくばを狙っているらしい軽薄天使ミゴーとの、 汗と涙とセイシをかけたお仕事日記です。 …という感じの、いわゆる「セックスしないと出られない部屋」の亜種詰め合わせみたいなお話です。章ごとの関連性は(主人公カップリング以外)ないので、お好きな章からどうぞ。 お話上性行為を見たり見られたりする表現もありますが、カップリング相手以外に触れられることはありません。 2022/10/01 完結済み ☆お品書き 【第一章】病に倒れたおれをいつも隣で励ましてくれた、幼なじみのあいつと。 ・鈍感大らか×病に倒れた元気少年、幼なじみ、死ネタあり 【第二章】喪われし魂の救済を求めて、最期まで心を焦がしてやまなかった彼と。 ・陽キャへたれ×厨二陰キャ、一部襲い受け、自殺未遂の描写あり 【第三章】せっくすの仕方がわからないぼくたちが、神の思し召しで遣わされた天使様方に教わって。 ・純真敬語×無口素直、無知×無知、主人公カプあり 【第四章】生涯で唯一一度もお相手願えなかった、気位の高い猫みたいな男と。 ・中性的ドS×両刀攻め専タラシ、調教、快楽堕ち、♡喘ぎ、濁点喘ぎ、攻めフェラあり 【第五章】きっとこの手の中に戻ってきてくれるはずの、今はまだ遠いお前と。 ・いざと言うとき頼りになる地味系×メンタル弱めガラ悪系、デスゲーム風、ヤンデレ、執着攻め 【第六章】壊れてしまった物語を美しく終わらせるために、あの図書室で物語を分け合った先生と。 ・自らの性癖に苦悩する堅物教師×浮世離れした美少年、死ネタあり 【第七章】死ぬ前に一度だけ、セックスをしたかったあの人と。 ・最終章前編、死ネタあり 【第八章】そして死ぬ前にただ一度だけ、セックスをしたあの人と。 ・最終章後編

【R-18】何度だって君の所に行くよ【BL完結済】

今野ひなた
BL
美大四年生の黒川肇は親友の緑谷時乃が相手の淫夢に悩まされていた。ある日、時乃と居酒屋で飲んでいると彼から「過去に戻れる」と言う時計を譲られるが、彼はその直後、時乃は自殺してしまう。遺書には「ずっと好きだった」と時乃の本心が書かれていた。ショックで精神を病んでしまった肇は「時乃が自殺する直前に戻りたい」と半信半疑で時計に願う。そうして気が付けば、大学一年の時まで時間が戻っていた。時乃には自殺してほしくない、でも自分は相応しくない。肇は他に良い人がいると紹介し、交際寸前まで持ち込ませるが、ひょんなことから時乃と関係を持ってしまい…!? 公募落ち供養なので完結保障(全十五話)です。しょっぱなからエロ(エロシーンは★マークがついています) 小説家になろうさんでも公開中。

博愛主義の成れの果て

135
BL
子宮持ちで子供が産める侯爵家嫡男の俺の婚約者は、博愛主義者だ。 俺と同じように子宮持ちの令息にだって優しくしてしまう男。 そんな婚約を白紙にしたところ、元婚約者がおかしくなりはじめた……。

眺めるほうが好きなんだ

チョコキラー
BL
何事も見るからこそおもしろい。がモットーの主人公は、常におもしろいことの傍観者でありたいと願う。でも、彼からは周りを虜にする謎の色気がムンムンです!w 顔はクマがあり、前髪が長くて顔は見えにくいが、中々美形…! そんな彼は王道をみて楽しむ側だったのに、気づけば自分が中心に!? てな感じの巻き込まれくんでーす♪

転生したら。囲われた

nomiso
BL
主人公中山玲は、転生してしまった!!!!!どうする?!!!!     ってゆうようなお話です! なんだかんだで総愛されされちゃいます! 一応R-18です。 たまーに投稿します めっちゃ初心者です!!

【完】僕の弟と僕の護衛騎士は、赤い糸で繋がっている

たまとら
BL
赤い糸が見えるキリルは、自分には糸が無いのでやさぐれ気味です

婚約破棄されて捨てられた精霊の愛し子は二度目の人生を謳歌する

135
BL
春波湯江には前世の記憶がある。といっても、日本とはまったく違う異世界の記憶。そこで湯江はその国の王子である婚約者を救世主の少女に奪われ捨てられた。 現代日本に転生した湯江は日々を謳歌して過ごしていた。しかし、ハロウィンの日、ゾンビの仮装をしていた湯江の足元に見覚えのある魔法陣が現れ、見覚えのある世界に召喚されてしまった。ゾンビの格好をした自分と、救世主の少女が隣に居て―…。 最後まで書き終わっているので、確認ができ次第更新していきます。7万字程の読み物です。

魔王になんてぜったいなりません!!

135
BL
僕の名前はニール。王宮魔術師の一人だ。 第三騎士団長のケルヴィン様に一途な愛を捧げる十六歳。 僕の住むラント国に異世界からの渡り人がやってきて、僕の世界は変わった。 予知夢のようなものを見た時、僕はこの世界を亡ぼす魔王として君臨していた。 魔王になんてぜったいなりません!! 僕は、ラント国から逃げ出した。 渡り人はスパイス程度で物語には絡んできません。 攻め(→→→→→)←←受けみたいな勘違い話です。 完成しているので、確認でき次第上げていきます。二万五千字程です。

処理中です...