煉獄の歌 

文月 沙織

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 たしかに手酷てひどいはずかしめを受けたが、ヤスの思っているようなことはなかった。口に出して言うと、かえって屈辱的な気持ちになるので、それを言うわけにはいかないが。
「まったく冗談じゃないぜ。まぁ、たしかに木藤の奴らとはつまらないことで揉めたけれどな」
 自分は今、せいいっぱいの虚勢をはっているのだと敬は自覚していたが、ここで虚勢をはらないわけにはいかない。
「へぇー」
 ヤスはよこしまで汚れた目線で、舐めまわすように敬を見る。
「それじゃ、敬が瀬津さんに尻たたかれて泣きべそかいたっていうのも、ちがうのかよ?」
 視界が怒りと屈辱で真っ赤になった。
 まるで映画の場面のように、あのときはずかしめられていた自分のみっともない姿が浮かぶ。
 次の瞬間、敬は拳にかすかな痛みを感じていた。
 ヤスがのけぞって床に倒れているのが見える。顔から鼻血をふりまきながら。
 周囲で人が騒ぐ。
「坊ちゃん、いけません!」
 敬の足は倒れたヤスの頭に向かっていた。周囲で人が騒ぐ。女性の悲鳴も聞こえる。
 だが、敬は自分を止められなかった。
「もういっぺん、言ってみろよ! え! おい!」
 敬は容赦なくヤスの顔を、頭を、腹を蹴っていた。床に鼻血が飛び散る。その血がひどく不潔で汚らしく思えて、忌々し気に舌打ちした。
「こら、何しているんだ!」
 駆けつけてきた二人の警備員を見て、嶋が敬の腕を引っ張った。
「坊ちゃん、こっちへ!」
「放せよ!」
「いけません。今は揉め事起こすなと若頭、いえ組長に言われています」
 兄の名を出され、さすがに敬は正気付く。
「ちっ!」
 止められなかったら、敬はヤスを蹴り殺していたかもしれない。床上ではヤスは殴られた顔を両手で覆いながらうずくまっている。
「おい、おまえら、何しているんだ!」
 駆けつけてきた警備員が二人に目を止め、声を投げつけてくる。
「やばい。坊ちゃん、早く!」
「くそ!」
 まだおさまらぬ怒りを抱きながら、敬は嶋にせかされて逃げざるを得ない。

 走って、走って、二人は新宿の街を通りぬけていた。他でも何か事件が起きたのか、サイレンが聞こえる。
 ひとしきり走って、落ち着いてくると、あらためて敬の胸に怒りと屈辱がわいてくる。
 もう数ヶ月も前のことだというのに……。いや、数ヶ月たったからこそ、噂となって街の不良少年たちの耳にも届いてしまったのかもしれない。
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