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<< 番外編 >>

兄と弟の話 (2)

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 兄は俺のヒーローだった。

 頭が良くて勉強が出来て、穏やかで物知りで。

 植物図鑑や動物図鑑よりも、兄の説明の方が分かりやすかった。
 忙しかった親の代わりに家政婦や秘書に連れられて出かけた動物園や水族館。
 目の前の生きものを指差しながら兄が面白おかしく話してくれるそれは、俺の中に楽しい記憶として染み込んで、そのまま知識となった。

 テストで100点を取れば、「頑張ったな」と頭を撫でて褒めてくれた。
 両親も「良くやった」と褒めてはくれたけれど、そこにはいつも、『黒瀬家の息子』、『クインパスグループの御曹司』として、成績が優秀なのは当たり前だという前提が見え隠れしていたから、おざなりの言葉に素直に喜ぶことが出来なかった。

 兄の前では本音を吐けた。会社も跡取りも関係なく、兄と弟としてはしゃいだり、ふざけたり、怒ったり泣いたり笑ったり出来た。

 大好きだった。
 尊敬していた。
 その背中を追いかけていれば間違いないと思った。

 クインパスの後継者として重責を担う兄を支えたい。
 自分が右腕となって、2人で会社を大きくして行く。
 そういう人生が待っているものだと、それが正しい道なのだと、ずっと思っていた。

 だから……。
 
 自分が兄を追い抜く日が来るなんて思ってもみなかった。
 ましてや彼を差し置いて自分が会社のトップだなんて……そんな事があってはならない。

 ずっとずっと、そう思っていたんだ。
 重責を担う覚悟からも、現実に向き合うことからも目を背け、逃げ続けていたんだ……。

 雛子、お前を愛する、その時までは。





「それじゃあ、朝哉が後継者になったのはやっぱり私のためだった……って事よね。私のことさえ無ければ……」

 雛子の表情が翳ったのを見て、朝哉が慌てて否定する。

「違う、勘違いしないでくれ。俺は自分の意思でこの道を選んだんだし、こうなった事を後悔してる訳でも無いんだ。ただ……」
「ただ?」

 問いかける瞳に一つ頷いてから、朝哉は「兄への申し訳なさ……みたいなのはずっとあってさ」

 ボソリと呟くと、彼女を安心させたくて、柔らかい頬を指先でサラリと撫でた。

「気付けば兄の背を追い越していた。兄が得意だったピアノやヴァイオリンは俺は苦手ですぐに辞めたけれど、代わりに習った水泳や空手で入賞して褒められると、嬉しさよりも気まずさの方がまさってさ、素直に喜べなかったんだ」


 家の方針で、成績に支障が無ければ習い事は何でもさせてくれた。
 興味があることはとにかくチャレンジしてみて、自分が得意な物を見つければいい……と言う考えのようだった。

 中学校に入るとバスケを始め、ポイントガードとして活躍した。
 学校では中1で生徒会副会長、中2で生徒会長に就任した。
 この辺りで、両親の間で『クインパスを継ぐのは透ではなく朝哉』と決まったのがなんとなく分かった。

 たぶん兄も気付いていたのだろう。その頃からお互いに会社についての話題を口にしなくなった。それを言ったら兄弟の関係が変わってしまうような気がして恐ろしかった。

 朝哉が中3になってしばらくした頃、予感は確信に変わる。


「父さんの付き合いで連れ出されてたゴルフにさ、兄さんが来なかったんだ」

 元々ゴルフはそんなに好きではなかったけれど、兄と一緒だったから我慢出来ていた。
 どうして自分だけなのだと口を尖らせた朝哉に、時宗がサラリと告げた。

『アイツはもういいんだ。家でコンピューターをいじってる方がいいらしい』

 だったら俺だって……と反発すると、

『お前には必要なことだ。ゴルフ場でのマナーをしっかり身につけて、せめてスコアがコンスタントに100を切れるまでの実力をつけなくては』

 これで自分が『選ばれてしまった』のだと分かった。

『兄さんが行かないのなら、俺だって行かないよ』

 だけど2階の踊り場から顔を出して、透が言った。

『朝哉、お前はゴルフに行って来い。俺は1人でコンピューターの組み立てをしたいから、家にいられると気が散る』

 そこで黙って父親について家を出た。
 それ以上渋るのは、なんだか逆に兄に申し訳ないような気がしたのだ。

 ゴルフ場に行く前に店に寄り、父親が新しいドライバーを1本買ってくれた。
 真新しいポロシャツに白いメッシュキャップ。
 青空の下で新品のドライバーを振りながら、心は全く躍っていなかった。




「その頃から俺はことあるごとに、『俺は会社を継がないよ』って口にするようになって、両親とは益々口をきかなくなって……高校では生徒会に入らず、バスケばかりしてたな」

 その合間にも家庭教師が来て英会話や中国語を習っていたけれど、それは自分が好きなことだったから続けられただけのことで……。

「見合いだって、どうやってぶち壊してやろうかって考えてたのに……それで運命の出会いをしちゃったんだから、今では親に感謝だよな」

 フッと苦笑してみせると、雛子が枕に腕をついて身体を起こした。

「私にはお兄様の気持ちは分からないけれど……」

 ずっと黙って聞いていた雛子が口を開いたので、朝哉が「んっ?」と視線を向ける。

「朝哉が会社のトップに立つに相応しい人物だって言うことは私にも分かるわ。そして、私は何があろうともあなたを支えるわ。それだけは絶対に変わらない」

「うん……ありがとう」

 なんだか胸が震えて仕方がない。

 自分はきっと、この言葉を聞きたかったんだろうな……と思う。
 雛子ならそう言ってくれるだろうと思って、実際その通りの言葉が聞けて、嬉しくて仕方がないんだ。

 彼女を胸に抱き寄せて、その髪に顔を埋める。
 朝哉がどんな人間であろうとも、これから何が起ころうとも、絶対に隣にいてくれる大切な家族。

 彼女さえいてくれたら、自分はどんな苦労も重圧も、力に変えて進んで行けるだろう。


「兄さんとはあの頃の事をちゃんと話したことが無いんだ。でもいつか、ゆっくり話せたらいいな……って思ってる」
「ええ、私もお兄様とゆっくりお話してみたいわ」

「うん、そうだな。ニューヨークに来たら前よりも会う機会が増えるだろうしな」
「家に御招来して一緒にお食事しましょうよ」

「そういえば、兄さんって彼女はいないのかな」
「それもまた、ゆっくりと聞けるといいわね」

 フワッと微笑む雛子にキスをして、首筋に鼻を擦り付ける。


 ニューヨークにいられるのは3年か5年か……いずれは本社に帰らなくてはいけないだろう。

 だけどせめてそれまでは……ここにいる間だけは……地上50階の楽園で、喧騒から逃れて思う存分愛し合いたい。

ーーそれくらいは……いいだろう?

 朝哉は時差ボケ覚悟で、これから夜明けまで雛子を抱き潰そうと、口づけを深くした。
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