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<< ボストン旅行記 >>

12、桜子 (1)

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 夢を見た。

 秋のボストン。
 お姫様抱っこ。
 アパートの寝室。
 髪を撫でる優しい手。
 唇の輪郭をなぞる細い指先。
 唇にそっと触れた……柔らかい唇。

『愛してる』

 ひそやかに耳元で囁いたのは、大好きで大切な人の声だった。





 今回の新婚旅行は4泊5日の強行軍で、最初の2泊をメアリーの家、3泊目をボストンのホテル、そして最後の夜はニューヨークで過ごして翌日の午後に飛行機に乗るという、なかなか慌ただしい日程になっている。

 せっかく遠路はるばるアメリカ東海岸まで来たのだから、せめて1週間はゆっくり過ごしたいところだけれど、夫が法律事務所の経営者で現役弁護士ともなると、そうはいかないのだ。

 冬馬さんの留守中は、水口さんと弁護士の北川さんが事務所を守ってくれている。

 北川さんは、以前冬馬さんが働いていた事務所で先輩だった56歳のベテラン弁護士で、8月から一緒に働いている。
『日野法律事務所』が弁護士を探していると知り、冬馬さんに連絡をくれたのだ。

 なんでも、定年を迎える歳が近くなり、お金儲けを考えずにクライアントとじっくり向き合える仕事がしたくなったのだという。
 もちろん彼は60歳を過ぎても現役で働くつもりだ。
 弁護士には定年が無いから、やる気と体力さえあれば一生続けられる仕事なのだ。

 経験豊富で信用できる弁護士を迎え、冬馬さんはとても嬉しそうだった。
 やはり1人で事務所を切り盛りするのは大変な重圧だったのだろう。

 北川さんが来てくれたお陰で引き受けられる依頼の幅が広がり、気持ち的にも余裕が出来た。
 そこで冬馬さんから新婚旅行に行こうと提案され、どうにかスケジュールをやり繰りして6日間の休みを作ったのだ。

 帰国翌日に1日お休みの日を設けてあるけれど、冬馬さんはきっと事務所に行くに違いない……と思う。真面目で責任感の強い人だから。

 彼のそんなところを尊敬しているし、素敵だな……と思う。
 
 

 ボストン3泊目となる昨晩は、海沿いの高級ホテルに宿泊した。

 メアリーの家で朝食をいただいてからジョンの車でホテルまで送ってもらい、2人とハグをしてお別れをした。

 彼らには本当に良くしてもらったし、素敵な思い出が沢山出来た。
 なかなか会う機会は無いけれど、彼らとは国籍を越えた親友として一生お付き合いが続いていくのだと思う。
 冬馬さんも私の想像以上にジョンと親しくなっていた。出会ったその夜に2人で飲み明かし、翌日も2人だけで食事に行くほどだ。よほど相性が良かったのだろう。

 
 ホテルの部屋は海と街の両方が見える角部屋のスイートルームで、海側の窓からは遠く対岸を見渡すことが出来た。
 空港から離発着する飛行機が、真っ青な空に白い線を描いて行く。


 その夜、冬馬さんは私を抱かなかった。
と言うか、その夜……だ。

 ボストンに来てから3日間、私たちはそういう行為をしていない。
 そして私もそれを不満に思っていないし、むしろそれで良かったとさえ思っている。

 メアリーの家ではなんとなくそう言う気にならなかったのは分かる。
 だけどホテルに入っても、不思議とそうしたいと思わなかったのは何故だろう……。

 たぶんボストンが兄との思い出の場所だからじゃないかと思う。

 兄との思い出が沢山詰まったこの地では、性欲よりも感傷の方が強くなるのだろう。
 兄との美しく楽しかった時間を懐かしみ、その思い出に浸りたい。
 そのためにはセックスはむしろ邪魔でさえあった。
 そしてきっと……冬馬さんも私と同じように感じていたんじゃないかな……と思う。

 だから私たちはキスをしてから手を繋いで眠った。
 愛情表現はそれだけでも十分に出来るし、それで満足だった。



 朝の微睡まどろみの中、夢を見た。

『夢を思い出した』と言った方が正しいのかも知れない。

 昔一度見た事がある夢。
 誰にも語った事がない、秘めやかでみだらな幻想。

 そう、あれは忘れもしない、1年前のボストンの夜だった。








*・゜゚・*:.。..。.・**・゜゚・*:. .。.:*・゜゚・*

1年前の『あの夜』の桜子サイド、前後編です。
ある意味、大志の救済話みたいな内容になっております。
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