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<< 外伝 水口麻耶への手紙 >>

13、突風

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『八神法律事務所』の代表が戦線離脱する。
 それは即ち事務所自体の存続の危機を意味している。
 だけど八神先生は、「絶対に事務所を潰したりはしない」と宣言し、日野先生も「大志が戻るまで絶対に事務所を守る」と言い切った。
 2人の頭の中には、事務所を閉鎖するということも、日野先生が他の事務所に移るという選択肢も最初から無いようだった。


 それからの事務所は突風が吹き荒れたような勢いで、全てがバタバタと大きく様変わりする事になった。
 八神先生は自分が抱えている案件を物凄い勢いでどんどん片付けて行き、同時に日野先生への顧客の移行を進めて行った。

 急に倍以上のクライアントを抱えることになった日野先生はもちろん、それに伴う挨拶状や事務処理に追われることになった私も残業を余儀なくされ、時計を見ては、時間が過ぎるのがこんなに速いものなのかと驚くという、めまぐるしい日々を過ごした。

 この頃はあまりにも忙し過ぎて八神先生の体調を気遣う余裕さえ無かったのだけれど、2週間程して最低限の移行業務が終わると、今度は不安と悲しみが襲って来た。
 私でさえこんなに辛くて悲しいのだ。
 親友である日野先生、ましてや八神先生本人の苦しみは如何程のものか……。

 後で分かったことだけど、八神先生はこの期間に財産目録や遺言状の準備を始めていた。
 事務員の私でさえ多忙さに根を上げそうになっていたのに、彼は弁護士としての仕事や引き継ぎ業務に加え、自分の死後の準備まで始めていたのだ。

 まさに『命を削って』働き続けていた、その強靭な精神力と行動力には感服するしかなかった……と同時に、まだ30歳という若さで既に死を覚悟している彼が不憫で悲しかった。

 人に暴力を振るい心にまで深い傷を負わせるような人間が元気に街を闊歩し、他人の悩みを聞き救い続ける八神先生のような貴重な人間が病に苦しむ。
 その理不尽さと不平等さに怒りを覚え、あまりの悔しさに涙が溢れた。

 だけど私が彼の前で泣いたのは、あの応接室での病気の告白の時だけだ。

 3人でテーブルを囲んで今後についての打ち合わせをしたあの日、桜子さんには知らせないと聞いて、私は泣きながら「絶対に知らせるべきだ」と主張した。
 私が彼女の立場だったら絶対に教えて欲しいと思うから。

「桜子は俺と働くことを目標に海外生活を頑張ってるんだ。あいつの希望を失うことは、俺の希望を失うことなんだよ。俺を少しでも可哀想だと思うなら、桜子の笑顔を守るために、どうか協力して欲しい」

 そんな風に言われたら、もう頷く以外にない。
 私に出来ることは、八神先生と日野先生をしっかり支え、八神先生の希望である桜子さんのためにも、この事務所を守る事だけだ。


「悪いね……彬くんのお迎えが遅くなってしまう。本当は『もう帰っていいよ』って言ってあげたいところだけど……」

 あの頃、夜7時を過ぎてもまだ作業を続けていた私に、八神先生はそう声を掛けてくれた。

「いいんですよ。私だってこの事務所が大切ですから。それに私よりも八神先生の方が……」

 そこまで言って給湯室に駆け込むと、八神先生も日野先生もそこには絶対に入って来なかった。
 本当に辛い人たちが涙を堪えて働き続けているのに、第三者の私だけが堂々と泣くわけにはいかない。1人で泣ける場所があるのが幸いだった。

 八神先生は益々痩せて行き、しょっちゅう胃の辺りを押さえて顔をしかめるようになった。
 目の下には隈ができ、顔色が日に日に悪くなって行く。

「もう桜子とFaceTimeは出来ないな」

 冗談みたいに呟いたその言葉を聞いて、私はまた給湯室に駆け込んだ。

 逃げ場所があって良かった……と思った。
 八神先生にはどこにも逃げ場所なんて無いのに。

 私は弱くて無力だ。
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