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第3章 過去編 side 拓巳

42、他人の家

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 十蔵さんが予定を1日繰り上げて帰って来たのはその日の午後8時頃で、彼はテーブルの上の手紙を読むなり1階の寝室に駆け込んで行った。

 俺と朝美も続いて部屋に入ったら、開け放たれたクローゼットからは母さんが好んで着ていた服が綺麗さっぱり無くなっていて、普段あまり着ないようなドレス類や派手なワンピースなどが、歯の抜けた櫛のように垂れ下がっている。

 ドレッサーの上には、愛用していた化粧品の代わりに、折り畳まれた離婚届と、俺の通帳と印鑑が無造作に置かれていた。
 いい加減な母さんらしい。こんな重要書類まで石ころみたいにポイッと置いて行くんだ。


 十蔵さんはその場にヘナヘナとへたり込んで茫然自失の状態で、俺の隣では朝美がそんな父親を冷んやりした目で見下ろしていた。

「拓巳くん……穂華さんは、僕のことを何か言っていたかい?」
「いえ、何も……俺が学校から帰って来たら、もういなくて……」

「穂華さんが行きそうな場所に心当たりは?」
「……ごめんなさい、分かりません。俺が知ってるのは祖母の家くらいで……」

「祖母?!穂華さんには、拓巳くんが生まれた時に実家から勘当されて御両親とは縁を切ってるって聞いてたんだが……君は穂華さんのご両親に会ったことがあるのかっ?!」

ーー最低だな、母さん……。

 アンタは結婚する相手にまで嘘をついてたのか。

「十蔵さん、母さんのことは諦めた方がいいですよ。たぶんあの人は新しい男でも出来て、そいつと出てったんだ」
「新しい男だって?!」

「ええ、そういうひとなんです、俺の母親は」

 自分で言いながら、喉の奥から苦いものが込み上げてくる。

「そんな筈は無い!拓巳くん、頼むから穂華さんのご実家に電話してくれないか?そこに行ってるかも知れない!」

 横須賀を離れた顛末てんまつを知っている俺は、絶対にいないだろうと思いながら、鞄の中からスマホを取り出してお祖母ちゃんの離れの電話番号を押した。

 3回目のコールで受話器が上がる音がして、スマホの通話口から懐かしい声が聞こえてきた。
 その途端に涙が出そうになったけれど、グッと堪えて声を出す。

「お祖母ちゃん久し振り、拓巳だよ」
『まあ、拓巳くん、元気にしてた?今はどこにいるの?お母さんは元気にしてる?』

 矢継ぎ早な質問のどれにも上手く答えられそうにない。

ーーお祖母ちゃん、俺は今日、母さんに捨てられたばかりで、住んでる場所は母さんの結婚相手だった、もう他人になった男の家なんだ。

「……お祖母ちゃん、そっちに母さんが行ってないかな?」
『いいえ……あの子、こっちに来るって言ってたの?……拓巳くん、何かあったの?!』

 電話の向こうでお祖母ちゃんが慌ててるのが分かった。

 そりゃそうだよな。娘は不倫の末に男を追いかけて出てったはずなのに、まさかその息子から居場所を尋ねられるなんて思わないよな。
俺だってビックリだよ。

「お祖母ちゃん……俺、どうしたらいいのか……」

 そのとき急にスマホを取り上げられてハッと見たら、十蔵さんがお祖母ちゃんと話し出していた。

「もしもし、初めまして。わたくし、和倉十蔵と申します。この春に穂華さんと入籍致しまして……」

 十蔵さんは母さんと結婚したことを手短に説明した後で、夫婦喧嘩して母さんが出て行ったのだと伝えた。

「……はい、拓巳くんは私の息子として責任を持ってお世話させていただきますので……はい、もしも穂華さんがそちらに行くような事があったら、私は怒っていないから帰って来るようにとお伝え下さい」

 十蔵さんは通話の終わったスマホを俺に手渡しながら、
「拓巳くん、穂華さんはきっと帰ってくるよ」
 と俺の両肩に手を置いた。

「えっ?」

「大丈夫だ、穂華さんは一時の気の迷いで出て行っただけに決まってる。拓巳くんがここにいる限り、いつか戻って来てくれるさ」

「ここにって……俺は他人なのに……」

 母さんは十蔵さんと結婚して家族になったけれど、俺はこの家では他人だ。
 苗字の変更のために戸籍の移動はしたけれど、 十蔵さんと養子縁組をしていないから、 俺はただの『母親の連れ子』で『同居人』。

 養子縁組しなかったのは、自分が1つの場所に留まれないフラついた人間だって母さん自身が自覚してて、また離婚する時のことを想定してたのかも知れない。

 実際、 離婚はしなくても失踪しちゃったわけだから、母さんの読みは当たっていたんだろう。

 そんなことを考えていたら、十蔵さんが肩に置いた手に力を込めて、「頼む!」と頭を下げてきた。

ーーえっ?!

「頼むよ。お願いだからここに居てくれ!もう君だけが頼りなんだ!今の僕と穂華さんを繋ぐものは拓巳くんしか無いんだ。この家に残って僕と一緒にお母さんの帰りを待とう!」

ーー母さんは大馬鹿ヤロウだけど、この人も相当な馬鹿だ……。

 あんなに尽くした挙句、母さんに呆気なく捨てられたのに、怒るどころか未練たらたらで、他人の俺を世話しようって?

 だけど俺はその大馬鹿ヤロウの息子で、こんな時でさえ自分ではどこにも行けなくて、他人に頼ることしか出来なくて……。

 だから俺は、十蔵さんに向かって頭を下げた。

「母のせいですいません。よろしくお願いします」
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