41 / 53
第41話 遠征軍の退却
しおりを挟む
9月11日。
カーリス半島の根元であるサーバ港を中心に展開しているスカリー帝国軍の部隊は、度重なるルンテ陸軍の攻撃を受け続けていたがなんとか持ち堪えていた。
なぜなら、王国軍は4ヶ月経った今でも制空権を握れていなかったからである。貴族出身の無能指揮官の振り下ろされる腕によって、いたずらに損害を増やし、屍を積み上げていただけであった。
さらにスカリーご自慢の爆撃隊が、昼夜問わず本土から空襲を仕掛けてくるので、おちおち眠ることすら出来ずにいるという有様だ。
もっとも、彼我の戦力差がかなりあるせいで帝国軍は攻めるという選択肢を捨てて防御に徹していた。
そんな膠着戦線に1ヶ月前に朗報が飛び込んできた。
“中央オストメニア海の掃海作業大方完了。爆撃隊をもって援護を行う。全軍退却の準備をされたし”
この報せに侵攻作戦総司令官であるオイゲン・フォン・シルベルト大将は喜びの言葉を述べず、呆れた顔で「やっとか」と言ったのみだった。
〈1ヶ月前・サーバ港〉
「これでやっとこの地獄から抜け出せる」
傷ついたサーバ港の臨時執務室とした部屋で渡された電報を受け取ったシルベルトはそう言った。
「3ヶ月。3ヶ月もの間我々は敵の砲撃にさらされ、夜襲に悩まされ、いつ来るかも分からない援軍や補給物資にどれだけ心を削られたと思っているのだ……。シッキラーの野郎!」
怒鳴ると同時に、泥に塗れた軍靴でボロボロの木椅子を蹴り倒す。
「すぐに潜水艦の脅威を排除して、退却用の輸送船を向かわせると言われてから何回寝て起きてを繰り返したか……」
いくら本土から爆撃隊が援護射撃をしてくれていても、今まで逃げ場がないことには変わりなかった。
しかも約束を履行しなかったことも腹立たしい。しかし今はそんな個人の感情は優先してはならない。
シルベルトは憤懣の思いを胸にしまい、急いで全軍に退却準備命令を下した。
〈カーリス海スカリー帝国海軍第1艦隊旗艦〉
同日午前2時50分。
ゲールッツ上級大将率いる第1艦隊はカーリス海の制海権を確保すべくあらゆる手段を用いて偵察を行った。
平和大橋が崩落した現在も、巡洋艦や駆逐艦は中央オストメニア海とカーリス海の行き来が可能である。
輸送船などは防御が貧弱な為、護衛がいても駆逐艦の砲撃や雷撃で沈みかねない。
中央オストメニア海のルンテ潜水艦が壊滅したとはいえ、外洋から帝国遠征軍の退却を邪魔する艦艇を決して通すわけにはいかない。
死守命令を受けたゲールッツは潜水艦と、陸軍の航空機も投入して偵察網を張りに張った。
「来ますかね、奴ら」
いつにも無く真剣な表情のゲールッツに対してフラットに話しかけてきたのは、参謀長のラハルト・フォン・アメルハウザー(44歳)少将だ。その左目には眼帯が付けられている。
「わしらの防衛網の厚さを知っていれば、来んだろう」
「知っていなければ?」
「死、あるのみ」
片目だけを自身に向けた愛弟子に対し、ゲールッツは淡々と言い放った。すると艦橋に急報が飛び込んできた。
「上級大将閣下、潜水艦隊からの入電です!”今晩は焼き魚”……以上です!」
「……ネーミングふざけてませんか?」
副官のキュリスタが敵艦隊発見の暗号名を決めた隻眼男に問うと、件の男は大笑いでこれに応じた。
「何を言う。良きセンスと思いませんか、先生…失礼、閣下」
「………そうだな」
苦笑を隠せずにいるゲールッツを見たアメルハウザーは少し不満気な表情になり、キュリスタは戦闘が始まるということに緊張している様だ。
「さぁ、全艦隊へ通達。漁を始めよう」
これまた参謀長のネーミングセンスが問われる作戦開始命令に、全艦隊の水兵は首を傾げた。
〈カーリス海・南東〉
「全艦、ついてきているな?」
第4艦隊司令ターデップ中将は副官に確認を取る。
問題無し、という返事に頷き、霧の深いカーリス海を慎重に西進する。
「しかし、なんだってたった1個艦隊で平和大橋を超えなきゃならんのです?このままじゃ敵の待ち伏せにあって全滅ですよ」
副官の諦めと呆れが半々ぐらいの愚痴に、ターデップは2週間前を思い起こす。
〈2週間前、カーリス半島〉
「わずか1個艦隊で平和大橋を突破しろですって!?」
ターデップの驚いた声に、電話越しのドクトラは力なく頷いた。
「わしも断固反対したし、首脳作戦本部長も反対した。もちろん陸軍本部長もだ。……だが、国王陛下と軍務大臣が頑強に抵抗なされてな…。ついには勅令で黙らせられた」
「そんな……」
いつもより覇気のない声に心配を寄せたターデップだったが、そんな暴挙を強行するほどの事があったのだろうかと聞いてみた。
「うむ…あるにはある」
「それは?」
「……カーリス半島に侵攻してきた帝国軍が、本土へ撤退するという情報が軍務大臣の手に入ったのだ。貴官も中央オストメニア海の潜水戦隊がほぼ壊滅したことは知っておろう」
もちろんです。と答えたが、合点がいかない。
続きを促すと、海軍本部長は疲れた声で言った。
「その侵攻軍を陸軍が本来仕留めるはずだったが、敵の空襲で思うように追撃が出来ない。そこで、海軍を用いて平和大橋付近を占領して、逃げる帝国陸軍を潰せと仰られたのだ」
「はぁ…?」
確かにせっかく閉じ込めた敵軍をみすみす逃すのは惜しい。その気持ちはわかる。
だがなぜ制海権も制空権も取られっぱなしの平和大橋付近の海域へ1個艦隊だけなのか。
ターデップは思わず天を仰いだ。
「本当に申し訳ないと思っておる。航空支援も陸海軍全力で行う。こんな無駄死に作戦で貴官を死なせたりはせん!」
怒りに震えるドクトラにターデップは頬を緩めた。
「助かります、閣下。甥御のライン中将の分まで働いてきます」
「気をつけてな…中将……」
時は帝国第1艦隊に発見される少し前、同日午前2時30分。
無謀な決死の作戦が開始された。
作戦名は、「トルダ・ジルベス(勇敢なる将兵)」
そして、「トルダ・ジルベス」作戦に従事する将兵の間で非公式に付けられた名は、「ゼスト(地獄)」作戦だった。
カーリス半島の根元であるサーバ港を中心に展開しているスカリー帝国軍の部隊は、度重なるルンテ陸軍の攻撃を受け続けていたがなんとか持ち堪えていた。
なぜなら、王国軍は4ヶ月経った今でも制空権を握れていなかったからである。貴族出身の無能指揮官の振り下ろされる腕によって、いたずらに損害を増やし、屍を積み上げていただけであった。
さらにスカリーご自慢の爆撃隊が、昼夜問わず本土から空襲を仕掛けてくるので、おちおち眠ることすら出来ずにいるという有様だ。
もっとも、彼我の戦力差がかなりあるせいで帝国軍は攻めるという選択肢を捨てて防御に徹していた。
そんな膠着戦線に1ヶ月前に朗報が飛び込んできた。
“中央オストメニア海の掃海作業大方完了。爆撃隊をもって援護を行う。全軍退却の準備をされたし”
この報せに侵攻作戦総司令官であるオイゲン・フォン・シルベルト大将は喜びの言葉を述べず、呆れた顔で「やっとか」と言ったのみだった。
〈1ヶ月前・サーバ港〉
「これでやっとこの地獄から抜け出せる」
傷ついたサーバ港の臨時執務室とした部屋で渡された電報を受け取ったシルベルトはそう言った。
「3ヶ月。3ヶ月もの間我々は敵の砲撃にさらされ、夜襲に悩まされ、いつ来るかも分からない援軍や補給物資にどれだけ心を削られたと思っているのだ……。シッキラーの野郎!」
怒鳴ると同時に、泥に塗れた軍靴でボロボロの木椅子を蹴り倒す。
「すぐに潜水艦の脅威を排除して、退却用の輸送船を向かわせると言われてから何回寝て起きてを繰り返したか……」
いくら本土から爆撃隊が援護射撃をしてくれていても、今まで逃げ場がないことには変わりなかった。
しかも約束を履行しなかったことも腹立たしい。しかし今はそんな個人の感情は優先してはならない。
シルベルトは憤懣の思いを胸にしまい、急いで全軍に退却準備命令を下した。
〈カーリス海スカリー帝国海軍第1艦隊旗艦〉
同日午前2時50分。
ゲールッツ上級大将率いる第1艦隊はカーリス海の制海権を確保すべくあらゆる手段を用いて偵察を行った。
平和大橋が崩落した現在も、巡洋艦や駆逐艦は中央オストメニア海とカーリス海の行き来が可能である。
輸送船などは防御が貧弱な為、護衛がいても駆逐艦の砲撃や雷撃で沈みかねない。
中央オストメニア海のルンテ潜水艦が壊滅したとはいえ、外洋から帝国遠征軍の退却を邪魔する艦艇を決して通すわけにはいかない。
死守命令を受けたゲールッツは潜水艦と、陸軍の航空機も投入して偵察網を張りに張った。
「来ますかね、奴ら」
いつにも無く真剣な表情のゲールッツに対してフラットに話しかけてきたのは、参謀長のラハルト・フォン・アメルハウザー(44歳)少将だ。その左目には眼帯が付けられている。
「わしらの防衛網の厚さを知っていれば、来んだろう」
「知っていなければ?」
「死、あるのみ」
片目だけを自身に向けた愛弟子に対し、ゲールッツは淡々と言い放った。すると艦橋に急報が飛び込んできた。
「上級大将閣下、潜水艦隊からの入電です!”今晩は焼き魚”……以上です!」
「……ネーミングふざけてませんか?」
副官のキュリスタが敵艦隊発見の暗号名を決めた隻眼男に問うと、件の男は大笑いでこれに応じた。
「何を言う。良きセンスと思いませんか、先生…失礼、閣下」
「………そうだな」
苦笑を隠せずにいるゲールッツを見たアメルハウザーは少し不満気な表情になり、キュリスタは戦闘が始まるということに緊張している様だ。
「さぁ、全艦隊へ通達。漁を始めよう」
これまた参謀長のネーミングセンスが問われる作戦開始命令に、全艦隊の水兵は首を傾げた。
〈カーリス海・南東〉
「全艦、ついてきているな?」
第4艦隊司令ターデップ中将は副官に確認を取る。
問題無し、という返事に頷き、霧の深いカーリス海を慎重に西進する。
「しかし、なんだってたった1個艦隊で平和大橋を超えなきゃならんのです?このままじゃ敵の待ち伏せにあって全滅ですよ」
副官の諦めと呆れが半々ぐらいの愚痴に、ターデップは2週間前を思い起こす。
〈2週間前、カーリス半島〉
「わずか1個艦隊で平和大橋を突破しろですって!?」
ターデップの驚いた声に、電話越しのドクトラは力なく頷いた。
「わしも断固反対したし、首脳作戦本部長も反対した。もちろん陸軍本部長もだ。……だが、国王陛下と軍務大臣が頑強に抵抗なされてな…。ついには勅令で黙らせられた」
「そんな……」
いつもより覇気のない声に心配を寄せたターデップだったが、そんな暴挙を強行するほどの事があったのだろうかと聞いてみた。
「うむ…あるにはある」
「それは?」
「……カーリス半島に侵攻してきた帝国軍が、本土へ撤退するという情報が軍務大臣の手に入ったのだ。貴官も中央オストメニア海の潜水戦隊がほぼ壊滅したことは知っておろう」
もちろんです。と答えたが、合点がいかない。
続きを促すと、海軍本部長は疲れた声で言った。
「その侵攻軍を陸軍が本来仕留めるはずだったが、敵の空襲で思うように追撃が出来ない。そこで、海軍を用いて平和大橋付近を占領して、逃げる帝国陸軍を潰せと仰られたのだ」
「はぁ…?」
確かにせっかく閉じ込めた敵軍をみすみす逃すのは惜しい。その気持ちはわかる。
だがなぜ制海権も制空権も取られっぱなしの平和大橋付近の海域へ1個艦隊だけなのか。
ターデップは思わず天を仰いだ。
「本当に申し訳ないと思っておる。航空支援も陸海軍全力で行う。こんな無駄死に作戦で貴官を死なせたりはせん!」
怒りに震えるドクトラにターデップは頬を緩めた。
「助かります、閣下。甥御のライン中将の分まで働いてきます」
「気をつけてな…中将……」
時は帝国第1艦隊に発見される少し前、同日午前2時30分。
無謀な決死の作戦が開始された。
作戦名は、「トルダ・ジルベス(勇敢なる将兵)」
そして、「トルダ・ジルベス」作戦に従事する将兵の間で非公式に付けられた名は、「ゼスト(地獄)」作戦だった。
0
お気に入りに追加
5
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる