想愛

小谷野 天

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5章

木枯らし

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 なんとなく航大との距離が近くなった頃。
 前の職場で一緒だった咲良から電車が掛かってきた。

「紗和!秋本くんが倒れたの!最近ずっと残業が続いてて、今、医療センターにいるはずだから、行ってあげて。」
「健一には川島さんがいるでしょう?子供だって生まれるんだろうし。」
「秋本くんが、あんな子を相手にすると思う?子供なんて生まれないし、全部、彩花の嘘だったのよ。堀田さんだって、彩花の言っていた事が嘘だってわかったら、彩花と会社で喧嘩したんだから。」
「私、ずっと健一が浮気したと思ってた。浮気じゃないってわかっても、もう遅いの。」
「紗和は意地っ張りの勘違い。秋本くんに会ってちゃんと謝りなよ。このまま、秋本くんが、死んでしまってもいいの?」
「そんなに悪いの?」
「心配なら、自分の目で確かめてよ。秋本くんが倒れたのは、紗和のせいだよ。」

 紗和は家族が倒れたと言って休みを取り、病院に向かっていた。
 会社に嘘をついた事よりも、健一の様子が気になって、胸に何かがつかえているようだった。
「紗和、どこにいくの?」
 廊下ですれ違った航大が、紗和に聞いてきた。
「病院に。父が倒れたみたいなの。」
「それなら、俺も行くよ。」
「藤原くん、父は難しい人なの。」
 目が泳いでいる紗和の様子を見て、もしかしたら、本当は健一の事なのかもしれないと、航大は思った。
「どこの病院なの?」
「医療センター。」
「わかった。じゃあ、気を付けて行っておいで。」
「じゃあ。」

 ここから健一の住む町まで行くには、3時間もかかるのか。今更だけど、どうしてこんな遠くに離れてしまったんだろう。
 私の勘違いだって言われても、彩花に言われた事を、健一は何も否定しなかった。
 それに、産婦人科に入っていった2人は、他にどんな理由があるっていうの?
 駅について、切符を買うと清掃業者の人がゴミ箱からゴミを集めていた。
 あの日、もらった花束を捨てたっけ。

 列車の窓を見ていると、健一と始めた話した日の事が浮かんできた。
 真っ暗な倉庫に付き添ってくれた健一は、暗闇の中、パッと灯りをつけると、コピー用紙に入っている箱をヒョイと持った。
「そんなにいらないですよ。」
 紗和が言うと
「他の人も使うだろうし。」
「違う部所なのに、ごめんなさい。」
「優佳が気にしてたよ。指導の途中だったんだって。」
「頑張って早く仕事、覚えます。」
「夏川さん、これを印刷したら、なんか食べて帰ろう。もう、こんな時間だし、開いてる店は少ないけど。」
 
 紗和は目を閉じる。本当は、思い出の欠片を集めても、健一を嫌いになる理由なんてひとつもなかった。
 だけど、好きだという気持ち以上に、健一を疑う感情の方が、溢れ出してしまった。

 勝手に勘違いして去った自分の事を、謝って許してもらおうとは思わない。
 健一に会ったら、きちんと話しをして、2人で過ごして来た時間を、いい思い出として閉じ込めよう。
 私には、航大が待っているんだから……。

 病院へ着き、健一の事を聞くと、とっくに家に帰っていると言うので、紗和は健一の家に向かった。
 咲良にまんまと騙されたのか。
 玄関のチャイムを押すのにためらっていると、中から彩花が出てきた。
 紗和は彩花のお腹に目をやった。
「夏川先輩、どうしてここに?」
 彩花の声を聞いて、健一が玄関に出てきた。
「ごめん、お邪魔だったね。」
 紗和はそのまま健一の前から去った。

 追いかけようとした健一を、彩花は止めた。
「みんな夏川先輩ばっかり。」
 彩花はそう言って泣いた。
「夏川先輩には敵わないとか、夏川先輩にしかできないとか、みんなそうやって先輩を褒めて、仕事でほしい物がみんな手に入ってるくせに。」
「川島、あいつだって、仕事のためにいろんな事を捨ててきたんだ。」
 健一は彩花にそう言った。
「先輩は、何かを失くしても捨てても、秋本主任がそれを埋めてくれるじゃないですか。」
「そんな事ないよ。仕事の事は、自分でなんとかしできたんだ。」
「そうやって、どこまでもかばうんですね。」
 健一は、泣きじゃくる彩花を家に入れた。 
「川島だって、頑張ってるじゃないか。」
 健一は、彩花の肩を掴み、顔を覗き込んだ。
「そんな言葉なんていらない。」
「紗和はもういないんだ。これからは川島がみんなに頼りにされるようになるから。」
「秋本主任、夏川先輩の事はきっぱり忘れて。」
「川島、それはできない。できない事だってあるんだよ。」
「どうして?夏川先輩のどこがいいの?仕事の鬼だし、ぜんぜん女らしくないのに。」
「どうしてだろうな。」
 健一は彩花の肩から手を離した。
「ほら、課長が待ってるよ。この書類、持っていってくれ。」
「夏川先輩も秋本主任もバカみたい。」
 彩花は出ていった。

 紗和は、追いかけて来るはずもないのに、健一の足音が近づいてくるようで、自分の影さえも健一だと期待した。とてつもなく、切なかった。
 駅までの道が、とても長く感じて、紗和は途中の公園のベンチに座った。
 咲良に連絡をしようと携帯を出した時、
 航大からラインがきた。
「大丈夫だった?」
「大丈夫。」 
「それは良かった。こっちに着いたら、連絡して。駅まで迎えに行くから。」
「1人で帰るからいい。」
「ダメだよ。ちゃんと話しを聞かせて。」
 航大からのラインに、
 溜めていたものが溢れてくる。

 健一には、あの子がいたんだった。
 もしかしたらと思ってここまできた自分は、餌をもらえると思って、ヨダレを垂れている犬みたいだ。

 南極で、鎖に繋がれ凍えていた犬達は、どれくらいで人間が置き去りにした事に気がついたんだろう。
 目を開けたら、また会えると思って眠りについて、そのまま死んでしまったのだろうか。それとも、迎えに来ない事を理解して、気力を失くして死んでいったのだろうか。
 見えないものを信じ続けるのって、辛いな。
 見えてるものでも、ちょっとした事で疑ってしまう。
 
 紗和はカバンから痛み止めを出すと、水も飲まずに口に入れた。
 頭が痛むのは、もうずっと治らない。 
 目を閉じて、まぶたに手を置くと少しホッとする。
 
「紗和。」 
 誰かが自分を呼んでいる。

「健一!」

「探したよ。」
「川島さんは?」
「課長から急ぎの書類を頼まれて、届けにきたんだよ。目を通したから、会社に持って帰ってもらっただんだ。勘違いするな。」
 健一は、最後に会った時よりも、腕も顔の線も細くなっている。
「ちゃんと食べてたの?」
 紗和はそう聞いた。
「食べてるよ。」
 紗和は健一の腕を触った。
「もう、帰るのか?」
「……。」
 このまま帰ると言ったら、健一はなんて言うだろう。どんな答えが出ても、紗和は辛かった。

「何か作ろうか。」
 自分が言える精一杯の言葉を、健一に伝えた。
「帰り、遅くなってもいいのか?」
「大丈夫。」
 健一は少し笑った。
「冷蔵庫の中、きっと空っぽでしょう?」
「そうだね。」
「買い物してから家に行くから、先に帰ってて。」
「俺も一緒に行くよ。」
「病院から帰ってきたばっかりなんだから、少し横になってたら?」
「大丈夫だよ。」

 健一の家に着くと、部屋の中は以前よりも殺風景になっていた。
「ずいぶん、物が減ったんだね。」
「引っ越そうと思っててね。」
「ふ~ん。」
「紗和は、新しい会社はどう?」
「仕事しやすいよ。残業もないし。」
「良かったな。ここにいた時は、休みもなかなかとれなかったからな。」
「私達、それでもよく付き合っていられたね。会社で少し話しをして、それで5年間も。」
「時々は2人で会っただろう。その時は、たくさん話したよ。」
「健一、このままじゃ会社に殺されちゃうよ。」
「俺もそう思う。」
 健一は笑った。
「何を作ってるの?」
 紗和の隣りに健一が並んだ。
「オムライス。笑った顔、書いてあげるから。」
 健一を見ようと横にむいた紗和の包丁を、健一はまな板に置いた。
 健一は、紗和を抱きしめてキスをして、また紗和を抱きしめた。
「ここであった事、みんな忘れて。」
 紗和はそう言って健一から離れると、何もなかったように包丁を握った。
「座ってて。もう少しかかるから。」
 ソファに座った健一は、
「紗和。俺と川島は何もないよ。」 
 そう言った。
「もう、遅いよ。」
「ずっと誤解してるようだけど、俺は紗和しかいないんだ。」
「ごめん。炒める音で、聞こえなかった。」
 涙が溜まってきた紗和は、振り返る事ができなかった。

「ほら、健一の笑ってるでしょう。」
 健一にオムライス出し、紗和は洗い物をしようと、またキッチンへ向かった。なかなか、食べようとしない健一に
「食べないの?」
 紗和は聞いた。
「これ食べたら、帰るのか?」
 紗和は少し固まった。
「俺、今までわがままなんて、紗和に言った事なかっただろう。」
「そうだね。」
「紗和のオムライスはどれだよ。」
 健一は、キッチンに残るもう一つのオムライスを見つけた。
「紗和、ケチャップとって。」
「そこにあるよ。」
 健一はケチャップで、ダメ、と書いた。
「こんなわがままってある?」
 紗和は笑った。
「せっかくだから、写メしよう。」
 カバンの中から携帯を取り出すと、オムライスを写真に収めた。
「俺の携帯番号、消しただろう。」
「……。」
「俺、そんなにひどい事したか?」 
「2人が産婦人科に入って行くの、見てたよ。」
「一緒に映画に行こうと約束してた日の事か。」
「あの日、健一は仕事だって言ってたよね?」
「仕事だったよ。仕事してたら、川島が来て、体調が悪いから病院についてきてっていうから……。」
「産婦人科なんて、普通、男の人は行かないよ。」
「俺だって初めてだよ。なんかあいつ、よく行くようで、その日も薬だけもらってたけど。」
「一緒に見るはずだった映画を1人で見て、2人を見掛けたのはその帰り。なんか、今でも思い出すの、川島さんがこっちを見た時の顔。」
「好きでもないのに、なんで子供ができるんだよ。」
「今はそういう関係だって、よくあるんだし。」 
「俺がそんな男に見えるか?」 
「健一、モテるんだよ。」
「紗和と、もう少し早くと話しをすれば良かったな。」
「ねえ、ケチャップが溶けて泣きそうになってる。早く食べよう。」

 テーブルに座った2人は、少し前に戻ったように、笑って食事をした。
 ずっと続くと思っていた時間が、どうして急に終わってしまったんだろう。
 洗い物を終えると、健一が紗和を呼んだ。
「ごめん、もう、行かないと。」
 紗和は時計を見た。
「やり直さないか、こんな言葉しか出てこないけど。」 
「もうね、元には戻れないよ。」
「好きな人、できたのか?」
 紗和は下を向いた。
「せめて、紗和と話せるようにしてくれよ。」
 健一は携帯を出した。
「そうだね。」
 紗和も携帯を取り出す。
「ラインも。」
「ちょっと待って。」
 ラインを開くと、健一は見覚えのあるアイコンを見つける。
「この航大って、藤原か?」
「同じ会社の人。知ってるの、健一。」
「高校の同級生だった。紗和、よく話すの?」
「そうだね。」
 一度だけ、紗和の事を航大に教えた事があった。
 ふざけていたのかどうなのか、航大は、
「そのうち俺がもらう。」
 そう言った。
「紗和。」
「何?」
「なんでもない。」
「何よそれ。」 

 健一は、航大の事が気になった。
 別れてしまった女が、誰と付き合おうと、自分が何かを言える立場にはないけれど、航大が昔言った言葉が、健一には引っ掛かった。
 俺の事で、紗和に近づいてきたのなら、紗和の事は、絶対渡さない。

「明日、休みとれるか?」
「無理だよ急に。私、入ったばっかりで、お休みはあまりないし。」
「俺が紗和の家に行きたい。」
「健一、どうしたの?」 
「このまま、誤解して別れるのって、やっぱり嫌だからさ。やっぱりちゃんと話そうよ。」

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