想愛

小谷野 天

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2章

空っ風

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 新しい会社へ出社した日。
 
 ずいぶんと若い職員も、ミーティングの時には、正々堂々と意見を言っている。
 席は決まっているようで、決まっていない。
 制服もなく、スーツを着ている人もいれば、普段とあまり変わらない格好の人もいる。
 今まで、決められた毎日に慣れてきたせいか、自分で選べる環境に、紗和は少し戸惑った。

「夏川さん。」
 お昼近くになり、紗和は上司に呼ばれた。
「この書類を作ったのは、夏川さん?」 
 課長は、たった今、紗和が作った書類を持っていた。見本の通りにやればいいからと言われたが、文字の並びが不規則だったので、それを直して提出した。
「はい。」
「そっか。官公庁にでもいたことある?」
「いいえ。」
「すごく細かい仕事だね。前の職場は相当厳しかった?」
「……まっ、いえ。」
 紗和は言葉を濁した。
「ここは、もう少し端的に仕事をしてもいいから。」

 それは、どういう意味だろう?

 紗和はやり直すのか、このままでいいのかわからない上司の言葉に、少しイライラした。

「わかりました。」

 最近、ずっと頭痛が治まらない。苛立ちが募り、全てを否定したくなる。

 昼食をとらないで仕事を続けようとした紗和に、近くにいた女性が声を掛けた。
「お昼だよ。」
 女性は紗和の肩を叩いた。
「これを片付けてしまいたくて。」
 なかなか手を止めない紗和に、
「食堂に行こう。みんなに紹介するから。」
 そう言って、女性は紗和を食堂へ連れて行った。
「私、冴木真衣《さえきまい》、よろしくね。」
 慣れた様子で、食堂での注文の仕方を紗和に教える真衣の横に、1人の男性が来た。
「真衣、この人が新しく入った人?」 
「そう。夏川紗和さん。」
「俺、藤原航大《ふじわらこうだい》、よろしくな。」
「よろしくお願いします。」
「真衣、この人は?」
「あっ、湊。今日からきた夏川さん。」
 紗和と真衣の周りに、数人が集まってくる。
 こういうの、ちょっと苦手だなあ。明日からお弁当を持ってきて、外に行こうかな、紗和はそう思っていた。

 お昼休みが終わり掛けた頃。
 咲良からラインがきた。

「紗和、新しい職場はどう?」
「すごく自由な所。」
「やっていけそう?」
「うん。大丈夫。」
「堀田さん、今月いっぱいで辞めるって。」
「そうなの?」
「まさか、紗和が辞めると思ってなかったみたいだね。川島さんが堀田さんを使って、紗和の所へきたでしょう?」
「2人で来たね。」
「川島さんの嘘を知って、紗和が辞める事になって、すごくショックだったみたい。」
「もう、どうでもいい事。」
「秋本くんが、堀田さんから話しを聞いてわかったみたいだよ。」
「そっか。」
「戻ってこない? 」
「戻らない。」
「そうだよね。私も辞めたい。」 
「仕事、大変?」
「大変なんてもんじゃない。田沼さんも結局、メンタルで休職したし。」
「眠れないって言ってたからね。」
「そのうち、紗和に会いに行く。」
「会いたいね。咲良も無理しないで。」

「友達?」
 自席でラインをしていた紗和の所に、航大がきた。
「そうです。」
「今日、夏川さんの歓迎会をする事に決めたから。」
「えっ?」

 仕事を定時で終え、近くの居酒屋にやってきた。
 こんなに早い時間だと、お店もたくさん開いてるし、人がたくさん歩いてるんだ。
 本当は、あと少しでも会社にいたら、書類のひとつでも片付けられたのに、紗和はそう思っていた。

「夏川さん、どうかした?」 
 歓迎会の事を言い出した航大が、紗和の隣りに座った。
「ところでさ、食堂のカレー、どう思う?」
 唐突な航大の質問に、紗和は呆気に取られた。
「美味しかったです。」
「本当?うちの食堂、他はまあまあだけど、カレーだけはどうかなって。」
「どんなふうにですか?」
「あれは、甘いんだよ。」
「そういう事ですか。」  
 紗和は少しバカバカしくて笑った。
「前の職場はなんで辞めたの?」
「忙しい所だったから。」
 当たり障りのない答えを、紗和は航大に伝えた。
「さっき、仕事が細かくて、丁寧だって課長が夏川さんの書類を見せてくれたよ。」
 真衣がみんなにそう言った。
「もっと端的に、って言われました。」
「課長は注意したんじゃないよ、褒めてたんだから。ここには、ここのやり方があるんだから、合わせればいいよ。」
 真衣は紗和の肩を叩いた。
「うん…。」
 腑に落ちない顔をしている紗和に、
「そのうち、慣れるって。伸び伸びやりなよ。」
 航大はそう言った。
 その伸び伸びが素直にできたら、どんなにいいか。
「夏川さん、この人知ってる?」
 真衣が、1人の女性を連れてきた。
 紗和は思い出そうと、記憶を辿ったが、思い出す事ができない。
「ごめんなさい、思い出せません。」
 紗和が考えていると、
「5年前、夏川さんの指導を頼まれた、石山優佳《いしやまゆか》よ。忘れても仕方ないよね。1ヶ月しか話しをしなかったから。」
 5年前の記憶なんて、もしかしたら、数ヶ月前の記憶さえも、自分は消してしまおうとしているのかもしれない。
「親の介護は嘘よ。会社はあの後すぐに辞めたの。それで、ここに転職。先週課長から、あの会社からやってくる人がいるって聞いて、どんな人かなって気になってたのよ。大変だったでしょう、あの場所。」
 優佳の声を聞いて、紗和は思い出した。
「そうだ、石山先輩!」
 紗和はそう言った。 
「思い出した?」
「はい、急にいなくなって、すごく困りました。みんな忙しいから、誰にも聞けなかったし。」
「ごめんね、紗和ちゃん。」
「ねえ、優佳、そこってブラックなの?」
 真衣が優佳に聞いた。
「ブラックではないよ。ある程度、残業の保証はあるし。だけどね、昔のやり方のまま、無駄も多いの。仕事の偏りもあるし、それっておかしいなって思っても、言ったら自分の首が締まるし、毎日が辛くて苦しくなる職場。そうよね?」
 優佳は紗和の方を見た。
「紗和ちゃんの書類見たでしょう?」
 真衣に優佳が言った。
「見た。キレイに文字が揃ってて、びっくりした。」
「文書はあれが当たり前。」
 優佳がそう言うと、
「そんな、職場なら、長く働けないよね。」
 真衣は同情するように、紗和の方を見た。
「秋本は、まだあの会社にいるの?」
 優佳が紗和に聞いた。
「えっ?」
「彼とは同期なの。」
「そうだったんですか。いい先輩でした。時々、助けてもらったし。」 
 航大が紗和の方を見ていた。
「そっか。」 
 本当はいい先輩なんて言わず、幸せにやっていますよと言おうとして、紗和は言葉を飲んだ。
「紗和ちゃんは、いくつ?」  
 優佳がそう言った。
「27です。」
「じゃあ、2つ下だね。航大と私は同じ年。」
「そうなんですか。」
「さっきから、テンション低いよね、紗和ちゃん。」
 航大はそう言った。
「二次会行くでしょう?今日は歓迎会なんだし。」
「明日も仕事だし、帰ります。」
「帰らなきゃならない理由でもあるの?」
 真衣がそう言った。
 ちょうど、隣りのテーブルにお刺身が運ばれてきた。皿に乗った魚と目がこちらを見ている様な気がして、紗和はそれを目で追った。
「そんなに、魚が気になる?」
 真衣がそう言って笑っているのを、一緒にきた男性が振り返って見ていた。
「魚と目があった気がして。」
 紗和はそう言った。
「魚は死んでるんだよ。おかしな事、言う人だなぁ。」
 航大が笑っている。
「ねえ、今日がダメなら、今度の金曜日に、今日の続きをやろうよ。」
 真衣はそう言うと、航大も優佳も賛成と言った。
「橋田はどうする?」
 その男性には、知り合いがいたようで、別の席に呼ばれて飲んでいた。
「賛成に決まってるだろう。」
 そう言った。
「あいつ、橋田湊《はしだみなと》俺達と同じ年。」
 航大はそう言って紗和に紹介した。

 居酒屋を出ると、真衣と優佳はもう1件行くと、2人で別の店に歩いて行った。湊も一緒に飲んでいた友人と、次の店に行くみたいだった。
 平日の最中なのに、どうしてこんな事が出来るんだろう。前の職場では、日付が変わるまで残業するのが当たり前だった。休日でさえも、仕事が終わらず出勤する事が多かったし、職場の人が、仕事の終わりにこうして集まって話しをするなんて、考えれない事だった。
 元々人付き合いの苦手な紗和には、それはそれでも良かったけれど。
 残業代は、それなりには出ていた。だけど、本当は申告以上に、みんな残業をしていた。タイムカードの導入を何度も検討されたが、上層部はそれを嫌がった。
 紗和と健一は、いつも最後に電気を消して、セキュリティの設定をして退社した。

 22時30分。
 せっかく早く帰れるんだ、今日はゆっくり眠ろう。
 紗和は、航大にお礼を言うと、足早に家に向かった。

「送っていくよ。」
 航大が紗和の後をついて来た。
「いいですから。」
 紗和は足早に歩いていく。
「紗和ちゃん、そうやってずっと行きてきたの?」
「どういう意味ですか?」
「人を寄せ付けない感じがするからさ。」
「そうですか?」
「そうだよ。」
 一人でも生きていける女だ、そう言った彩花の声が聞こえた。
 健一と彩花が、自分を笑っている光景が浮かんだ。
 また、少し頭が痛くなる。
「大丈夫?」
 航大が紗和の顔を覗き込む。
「大丈夫です。」

 紗和が小学2年の頃、両親は離婚した。新しい彼氏が出来た母は、5歳の妹と連れて家を出て行った。  
 父と2人の生活が始まった時、一緒に暮してきた妹は、実は違う父親の子供だった事を知った。
 いろんなに人に裏切られ、あまり話さなくなった父との暮らしは、声をかけようと思えば思うほど、息苦しくて辛くなった。
 
「急に寒くなったね。」
 航大が言った。
「そうですね。」
「手袋、あげようか?」
「私、持ってますから。」
「いいよ、これ使って。」
 航大はそう言って紗和の手を自分のポケットに入れた。
「なにそれ。」
「温かいだろう。」
 航大は笑った。
「私の家、すぐそこだから。」
 紗和は、航大のポケットから無理矢理手を取り出すと、そのまま走って家へ向かった。
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