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白衣の天使
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今日ほど心が踊った日があるだろうか。彼女がうちの病院に来てから三年、ついについにデートしてくれることになったのだ。
彼女の名前はコオモテ ミル。年は二十四になったばかり。
もう、ちゃんとした大人の女なのだが、顔立ちはやや幼く、無邪気な笑顔がとても素敵だ。周りの人達をあたたかい気持ちにさせる。かと言って、唯かわいいだけじゃない。仕事をしているときの真剣な目は、はっとするほど印象的で、美人と言って間違いではない。鼻は高い方でなく、口はやや大きいかもしれない。けれどかえってそれが彼女を引き立たせていると思う。
小柄だけれど出るところは出ていて、健康的な体つきだ。背筋をピンっと伸ばして廊下を歩いている姿をよく見かける。
彼女が新人の看護師としてうちの病院に来て以来、独身の男どもは、まれに既婚者でも、彼女の気を引こうとして必死になっていたと思う。それほど彼女は魅力的だった。
かく言う俺もその一人で、同じ科で働いていることを利用して、何度食事に誘ったことだろう。彼女はけして人付き合いの悪い方ではないが、男と一対一の誘いにはけして乗らなかった。かと言って、何度かかまをかけてみたが、今付き合っている男がいるわけでもないようだった。
何人かの男は直接付き合ってくれるよう告白したが、全てお断りされた。そんなふうにして三年が過ぎ、コオモテ ミルは男に興味がないという噂が立っていた。ふられた奴らが腹いせに言っているのだが。
そんなある日、突然、コオモテさんの方から俺に誘いがあった。二年位前は毎日のように俺の方から誘い、そのたびに断られていたのにだ。
なにか彼女に心境の変化があったのか、彼女に見初められるようなことを俺がしたのか、色々考えてみたが、思い当たることは一つもなかった。けれども、念願の想い人からの誘いだ。誰が断ろうか。多分、彼女も寂しくなったのだ。そしてこの病院の独身男性の中では俺が一番魅力的なはずだ。そんなうぬぼれも入り、いそいそとデートに向かった。
その日は午後に待ち合せ、映画を見て、その後街をぶらつき、レストランで食事ということになっていた。俺に向けるコオモテさんの笑顔はまるで天使のようで、俺の顔は相当にやけていたと思う。
食事の後のコーヒーを飲みながら、俺はあえて今まで避けていた仕事の話題を振ってみた。
「でも、看護師という仕事は大変だよね。変な患者さんに当たっても変りなくお世話しなくちゃならないんだから」
実はここ最近までコオモテさんはいわゆるモンスターペイシェント、とんでもない患者の担当をしていたのだった。そこで、愚痴の一つでもこぼして気が楽になってくれたらと思い、水を向けてみたのだが。
「あら、それはお医者様でも同じじゃありません?どんな患者さんだろうと病状が同じなら治療法も同じだと思うんですけど。それとも、先生は違うんですか?」
そんなふうに返され、俺はどぎまぎして答えた。
「まさか!どんな患者だろうと治療は同じですよ」
あせった俺の物言いにコオモテさんは笑って答えた。
「冗談ですよ、先生!」
フフッと笑うその顔を見、俺は思わず苦笑した。どうやらからかわれたらしい。彼女が精神的に疲れていないか心配だったが、杞憂のようだ。そこで、もう少し踏み込んで言ってみた。
「でも、この間亡くなったシンデンさん、あの人はちょっとどうかと思いましたよ。しょっちゅう、怒鳴り散らす声が廊下に響いてたじゃないですか。コオモテさんは何度か暴力も受けたんじゃなかったですか?」
すると彼女は即座に首を振り言った。
「あんな事はなんでもありませんよ。シンデンさんがイライラする気持ちは分かりましたから。自分でもどうしていいのか分からなかったんでしょう」
そういう彼女の顔は慈愛に満ちていた。彼女は患者さんに対し、よくこの顔をする。そしてその後やや上空の一点を見つめるのだ。彼女の癖なのだろう。
「本当にコオモテさんは偉いと思いますよ、僕は。コオモテさんのその慈悲の心は患者さんにとっても救いでしょう。でも、中にはもう、そういうことを感じる心を病気で失ってしまっている人もいるんです。そんな時は、無理せず、ぜひ担当医に相談してください。駄目なら、ぼくだっていい。薬で、患者さんをおとなしくさせることは簡単なことですから」
俺は格好をつけて、そう言った。これで頼りになるところを見せれば、彼女の心はもっと自分に近付くだろう。
「ありがとうございます。先生は私のことを心配してくださっているのですね。でも、心配してくださらなくっても大丈夫なんですよ。今まで人に話したことはないんですが、先生は特別な人ですから、思い切って打ち明けますけど、実は私には天使様がついてくださっているんです」
先生は特別な人、という言葉に有頂天になり、後半の言葉を意味を理解するのにかなり手間取った。しかし、それを理解し、彼女の顔が真剣なのを見て、俺は心で叫んだ。あちゃーっ、コオモテさんって痛い人だったのか。それとも電波?新興宗教か?
しかし、そこは顔には出さず、にっこり笑って俺は言った。
「天使って、あの羽根の生えた?」
「ええ、そうです。私に見えるのは羽根の生えた子どもの姿ですけど、時々、目の前に現れて、私に語りかけてくれるんです」
どうやら冗談ではないらしい。けれどもいきなり、話題を変えるのは不自然なので、一応相槌を打った。
「へー、コオモテさんに語りかけてくるんだ」
「はい、今度はこの人を迎えに来るから、それまで良くしてやってね、って」
にっこり笑って、恐ろしいことを言った。
「迎えに来るって、つまり」
「ええ、天国へのお迎えです」
コオモテさんはあくまで真顔である。俺はやや震える声で聞いてみた。
「その、天使が迎えに来た人は必ず、その」
「はい、お亡くなりになりますね」
そう言った彼女の表情は別に悲しそうなわけではなく、やはり慈愛に満ちたあの顔だった。
病院内でよくある伝説に死期を見通せる看護師というのがある。患者に死期が近づくと、匂いがしたり、変な音を聞いたり、なにやら胸騒ぎがしたりして、いつ死ぬかが分かるというのだ。しかし、俺は信じてはいない。長年、看護業務に携わっていれば、多少、病状の進行度合いからそろそろ危ない、ということは分かろうというものだ。本当に人の死期が分かるというなら、患者が急変して死亡する時も分からなければならないはずだが、往々にしてそういうケースで患者が死ぬのを当てたという話は聞かない。看護という仕事が激務のため、そんなことを創りだしてしまうのだろうと思っている。コオモテさんの場合も多分そうなのだろう。
「天使様は最初に患者さんの頭の上に現れて、迎えに来ることを告げるんですが、それから患者さんがしてほしいことを私に教えてくれるんです。体位を変えて欲しいとか、オムツを交換して欲しいとか。時には誰かを怒鳴りたい、なんていうこともあるんですよ。私はその声を聞いて、患者さんにできるだけそうしてあげるんです。だって、この世の時間はもう残り少ないんですから」
「いや、そう、そうなんだ」
俺はなんと言っていいか分からず適当にごまかした。出来れば話題を変えたかったが、彼女が続けて言った。
「シンデンさんもそうだったので、困った患者さんだとは少しも思わなかったですよ」
シンデンさんも?彼は容態が急変して死んだのだ。その前までは廊下に響くくらい怒鳴る元気があったのだから。彼女は本当に人の死期が分かるのか?それとも死んだ人みんなの頭上に天使がに見えたと思い込んでいるだけなのだろうか?
俺が変な顔付きをしたのか彼女が俺に訴えるように言った。
「ああ、でも心配ないですよ。天使様がお迎えにいらっしゃたんですから、死後、天国に行ったことは間違いないです。シンデンさんはきっと天国で安らかに過ごしていらっしゃいますよ。だから、ねっ。そんなに怖いことではないんですよ」
そう言って、彼女は俺の頭上を見た。そして、慈愛に満ちた笑顔。
突然のデートの誘いは天使が彼女に告げたことなのか、俺は怖くて聞けなかった。
終わり
彼女の名前はコオモテ ミル。年は二十四になったばかり。
もう、ちゃんとした大人の女なのだが、顔立ちはやや幼く、無邪気な笑顔がとても素敵だ。周りの人達をあたたかい気持ちにさせる。かと言って、唯かわいいだけじゃない。仕事をしているときの真剣な目は、はっとするほど印象的で、美人と言って間違いではない。鼻は高い方でなく、口はやや大きいかもしれない。けれどかえってそれが彼女を引き立たせていると思う。
小柄だけれど出るところは出ていて、健康的な体つきだ。背筋をピンっと伸ばして廊下を歩いている姿をよく見かける。
彼女が新人の看護師としてうちの病院に来て以来、独身の男どもは、まれに既婚者でも、彼女の気を引こうとして必死になっていたと思う。それほど彼女は魅力的だった。
かく言う俺もその一人で、同じ科で働いていることを利用して、何度食事に誘ったことだろう。彼女はけして人付き合いの悪い方ではないが、男と一対一の誘いにはけして乗らなかった。かと言って、何度かかまをかけてみたが、今付き合っている男がいるわけでもないようだった。
何人かの男は直接付き合ってくれるよう告白したが、全てお断りされた。そんなふうにして三年が過ぎ、コオモテ ミルは男に興味がないという噂が立っていた。ふられた奴らが腹いせに言っているのだが。
そんなある日、突然、コオモテさんの方から俺に誘いがあった。二年位前は毎日のように俺の方から誘い、そのたびに断られていたのにだ。
なにか彼女に心境の変化があったのか、彼女に見初められるようなことを俺がしたのか、色々考えてみたが、思い当たることは一つもなかった。けれども、念願の想い人からの誘いだ。誰が断ろうか。多分、彼女も寂しくなったのだ。そしてこの病院の独身男性の中では俺が一番魅力的なはずだ。そんなうぬぼれも入り、いそいそとデートに向かった。
その日は午後に待ち合せ、映画を見て、その後街をぶらつき、レストランで食事ということになっていた。俺に向けるコオモテさんの笑顔はまるで天使のようで、俺の顔は相当にやけていたと思う。
食事の後のコーヒーを飲みながら、俺はあえて今まで避けていた仕事の話題を振ってみた。
「でも、看護師という仕事は大変だよね。変な患者さんに当たっても変りなくお世話しなくちゃならないんだから」
実はここ最近までコオモテさんはいわゆるモンスターペイシェント、とんでもない患者の担当をしていたのだった。そこで、愚痴の一つでもこぼして気が楽になってくれたらと思い、水を向けてみたのだが。
「あら、それはお医者様でも同じじゃありません?どんな患者さんだろうと病状が同じなら治療法も同じだと思うんですけど。それとも、先生は違うんですか?」
そんなふうに返され、俺はどぎまぎして答えた。
「まさか!どんな患者だろうと治療は同じですよ」
あせった俺の物言いにコオモテさんは笑って答えた。
「冗談ですよ、先生!」
フフッと笑うその顔を見、俺は思わず苦笑した。どうやらからかわれたらしい。彼女が精神的に疲れていないか心配だったが、杞憂のようだ。そこで、もう少し踏み込んで言ってみた。
「でも、この間亡くなったシンデンさん、あの人はちょっとどうかと思いましたよ。しょっちゅう、怒鳴り散らす声が廊下に響いてたじゃないですか。コオモテさんは何度か暴力も受けたんじゃなかったですか?」
すると彼女は即座に首を振り言った。
「あんな事はなんでもありませんよ。シンデンさんがイライラする気持ちは分かりましたから。自分でもどうしていいのか分からなかったんでしょう」
そういう彼女の顔は慈愛に満ちていた。彼女は患者さんに対し、よくこの顔をする。そしてその後やや上空の一点を見つめるのだ。彼女の癖なのだろう。
「本当にコオモテさんは偉いと思いますよ、僕は。コオモテさんのその慈悲の心は患者さんにとっても救いでしょう。でも、中にはもう、そういうことを感じる心を病気で失ってしまっている人もいるんです。そんな時は、無理せず、ぜひ担当医に相談してください。駄目なら、ぼくだっていい。薬で、患者さんをおとなしくさせることは簡単なことですから」
俺は格好をつけて、そう言った。これで頼りになるところを見せれば、彼女の心はもっと自分に近付くだろう。
「ありがとうございます。先生は私のことを心配してくださっているのですね。でも、心配してくださらなくっても大丈夫なんですよ。今まで人に話したことはないんですが、先生は特別な人ですから、思い切って打ち明けますけど、実は私には天使様がついてくださっているんです」
先生は特別な人、という言葉に有頂天になり、後半の言葉を意味を理解するのにかなり手間取った。しかし、それを理解し、彼女の顔が真剣なのを見て、俺は心で叫んだ。あちゃーっ、コオモテさんって痛い人だったのか。それとも電波?新興宗教か?
しかし、そこは顔には出さず、にっこり笑って俺は言った。
「天使って、あの羽根の生えた?」
「ええ、そうです。私に見えるのは羽根の生えた子どもの姿ですけど、時々、目の前に現れて、私に語りかけてくれるんです」
どうやら冗談ではないらしい。けれどもいきなり、話題を変えるのは不自然なので、一応相槌を打った。
「へー、コオモテさんに語りかけてくるんだ」
「はい、今度はこの人を迎えに来るから、それまで良くしてやってね、って」
にっこり笑って、恐ろしいことを言った。
「迎えに来るって、つまり」
「ええ、天国へのお迎えです」
コオモテさんはあくまで真顔である。俺はやや震える声で聞いてみた。
「その、天使が迎えに来た人は必ず、その」
「はい、お亡くなりになりますね」
そう言った彼女の表情は別に悲しそうなわけではなく、やはり慈愛に満ちたあの顔だった。
病院内でよくある伝説に死期を見通せる看護師というのがある。患者に死期が近づくと、匂いがしたり、変な音を聞いたり、なにやら胸騒ぎがしたりして、いつ死ぬかが分かるというのだ。しかし、俺は信じてはいない。長年、看護業務に携わっていれば、多少、病状の進行度合いからそろそろ危ない、ということは分かろうというものだ。本当に人の死期が分かるというなら、患者が急変して死亡する時も分からなければならないはずだが、往々にしてそういうケースで患者が死ぬのを当てたという話は聞かない。看護という仕事が激務のため、そんなことを創りだしてしまうのだろうと思っている。コオモテさんの場合も多分そうなのだろう。
「天使様は最初に患者さんの頭の上に現れて、迎えに来ることを告げるんですが、それから患者さんがしてほしいことを私に教えてくれるんです。体位を変えて欲しいとか、オムツを交換して欲しいとか。時には誰かを怒鳴りたい、なんていうこともあるんですよ。私はその声を聞いて、患者さんにできるだけそうしてあげるんです。だって、この世の時間はもう残り少ないんですから」
「いや、そう、そうなんだ」
俺はなんと言っていいか分からず適当にごまかした。出来れば話題を変えたかったが、彼女が続けて言った。
「シンデンさんもそうだったので、困った患者さんだとは少しも思わなかったですよ」
シンデンさんも?彼は容態が急変して死んだのだ。その前までは廊下に響くくらい怒鳴る元気があったのだから。彼女は本当に人の死期が分かるのか?それとも死んだ人みんなの頭上に天使がに見えたと思い込んでいるだけなのだろうか?
俺が変な顔付きをしたのか彼女が俺に訴えるように言った。
「ああ、でも心配ないですよ。天使様がお迎えにいらっしゃたんですから、死後、天国に行ったことは間違いないです。シンデンさんはきっと天国で安らかに過ごしていらっしゃいますよ。だから、ねっ。そんなに怖いことではないんですよ」
そう言って、彼女は俺の頭上を見た。そして、慈愛に満ちた笑顔。
突然のデートの誘いは天使が彼女に告げたことなのか、俺は怖くて聞けなかった。
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