279 / 386
拝啓、北の国から
12月28日 17:00③
しおりを挟む
レモングラスのハーブティを選んだ草野のために、三喜雄はカップを用意する。
「本番前は食べないんでしたっけ?」
三喜雄はさりげなく尋ねた。18時半開演で、今日は途中で休憩が入るので、2時間の長丁場になる。演目が大曲でもあり、今何か口にしないと前半さえ持たないだろう。
草野は学生時代と変わらない、さばさばした口調で答えた。
「うーん、そんなことない……今食べたくないの」
「舞台で倒れますよ」
自分のためにルイボスティを淹れ、三喜雄は2つのプラスチックのカップを手にする。そして片方を草野の前に置き、ソファに腰を下ろした。彼女は微笑する。
「調子も悪くはないんだけど」
「それはゲネ聴いててわかりました」
「ホールに助けられてるのも大きいかな……ま、緊張してるんだろうね」
草野はカップに口をつけた。どんな言葉をかけても、他人が本番前の音楽家の気持ちを解すことはできないと、三喜雄は知っている。ただ、傍にいるだけだ。
美味しい、と草野は呟く。
「片山くんはどう思ってるの? 前評判、いろいろ聞いてるでしょ?」
三喜雄は苦笑した。実は三喜雄も、今回のソロは荷が重いと言われているからだ。
「先輩は大丈夫ですよ、元々ロマン派の曲も得意だし、ヴェルディも演ってるでしょう?」
「まあね……片山くんもしかして、ヴェルディ初めてなのかな」
はい、と三喜雄が茶化す笑顔で答えたので、草野は笑った。
「俺はしみったれたドイツ歌曲歌いですから、しょぼいと思われても仕方ないです」
「ドイツでオペラデビューしたんだよね? パパゲーノだっけ?」
「代役ですけどね、つかモーツァルトだし」
大丈夫だよぉ、と彼女は上半身を三喜雄のほうに傾けた。
「片山くんは本番オバケだもん……」
「何なんですかそれ」
そんな風に言われているとは知らなかった三喜雄は、軽く驚く。どちらかというと、褒められているようだが。
「でもちょっとテノールがイケイケすぎて、隣でやりにくいかな」
草野の言葉が的を得すぎていて、笑えた。
「大丈夫です、あいつの通常運転なんで」
「さすが、嫁は落ち着いてるね」
「……それNGワードに設定していいですか?」
草野は三喜雄が真顔で言うのを見て、からからと笑った。
「あーあ、面白い片山くん健在で癒されたわ」
学生時代から今まで、自分が面白いと言われることに納得していないのだが、先輩の表情が少し柔らかくなったので良しとした。三喜雄はルイボスティを飲み干し、言った。
「俺にできることなら手伝うんで、言ってくださいね……まだ1時間あるからパン1個だけでも食べて、飛び出したがるイケイケテノールに手綱をつけてやりましょう」
草野が笑いながら頷くのを見て、三喜雄は彼女に向かって親指を立ててから、その場を辞した。廊下に出ると、ちょうど速水が片手に袋を持って戻ってきたので、彼女にも頷いておく。
「たぶんちょっと浮上しました」
「ありがと片山くん、お互い上を支えるのが大変な曲だけど頑張ろう、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
その時三喜雄は、経験豊富な速水でも、大曲のソロを前に緊張感を覚えていることを、その表情から察した。それを打ち消すためか、彼女は軽口を叩く。
「片山くんが癒し系だって噂が本物だと本日確認したわ」
「その噂、俺は初耳なんですけど」
「若い女の子たちから結構聞くわよ? よかったら私の嫁にもなって」
「前向きに検討します」
お互い笑い合い、楽屋に戻る。もうこの際、嫁にしたい男No. 1を目指そう。三喜雄は苦笑した。塚山がお疲れ、と手を挙げてねぎらってくれた。
ガーメントバッグからタキシードを出すべく、パイプハンガーに向かう。とりあえずこれから、俺がピアノの前でドイツ語でちんまり歌うのが精一杯だとか書き込んだ奴には、思い知らせてやる。そんなことを考える自分は、常に攻撃的な塚山の悪影響を受けているかもしれないと三喜雄は思った。
「本番前は食べないんでしたっけ?」
三喜雄はさりげなく尋ねた。18時半開演で、今日は途中で休憩が入るので、2時間の長丁場になる。演目が大曲でもあり、今何か口にしないと前半さえ持たないだろう。
草野は学生時代と変わらない、さばさばした口調で答えた。
「うーん、そんなことない……今食べたくないの」
「舞台で倒れますよ」
自分のためにルイボスティを淹れ、三喜雄は2つのプラスチックのカップを手にする。そして片方を草野の前に置き、ソファに腰を下ろした。彼女は微笑する。
「調子も悪くはないんだけど」
「それはゲネ聴いててわかりました」
「ホールに助けられてるのも大きいかな……ま、緊張してるんだろうね」
草野はカップに口をつけた。どんな言葉をかけても、他人が本番前の音楽家の気持ちを解すことはできないと、三喜雄は知っている。ただ、傍にいるだけだ。
美味しい、と草野は呟く。
「片山くんはどう思ってるの? 前評判、いろいろ聞いてるでしょ?」
三喜雄は苦笑した。実は三喜雄も、今回のソロは荷が重いと言われているからだ。
「先輩は大丈夫ですよ、元々ロマン派の曲も得意だし、ヴェルディも演ってるでしょう?」
「まあね……片山くんもしかして、ヴェルディ初めてなのかな」
はい、と三喜雄が茶化す笑顔で答えたので、草野は笑った。
「俺はしみったれたドイツ歌曲歌いですから、しょぼいと思われても仕方ないです」
「ドイツでオペラデビューしたんだよね? パパゲーノだっけ?」
「代役ですけどね、つかモーツァルトだし」
大丈夫だよぉ、と彼女は上半身を三喜雄のほうに傾けた。
「片山くんは本番オバケだもん……」
「何なんですかそれ」
そんな風に言われているとは知らなかった三喜雄は、軽く驚く。どちらかというと、褒められているようだが。
「でもちょっとテノールがイケイケすぎて、隣でやりにくいかな」
草野の言葉が的を得すぎていて、笑えた。
「大丈夫です、あいつの通常運転なんで」
「さすが、嫁は落ち着いてるね」
「……それNGワードに設定していいですか?」
草野は三喜雄が真顔で言うのを見て、からからと笑った。
「あーあ、面白い片山くん健在で癒されたわ」
学生時代から今まで、自分が面白いと言われることに納得していないのだが、先輩の表情が少し柔らかくなったので良しとした。三喜雄はルイボスティを飲み干し、言った。
「俺にできることなら手伝うんで、言ってくださいね……まだ1時間あるからパン1個だけでも食べて、飛び出したがるイケイケテノールに手綱をつけてやりましょう」
草野が笑いながら頷くのを見て、三喜雄は彼女に向かって親指を立ててから、その場を辞した。廊下に出ると、ちょうど速水が片手に袋を持って戻ってきたので、彼女にも頷いておく。
「たぶんちょっと浮上しました」
「ありがと片山くん、お互い上を支えるのが大変な曲だけど頑張ろう、よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
その時三喜雄は、経験豊富な速水でも、大曲のソロを前に緊張感を覚えていることを、その表情から察した。それを打ち消すためか、彼女は軽口を叩く。
「片山くんが癒し系だって噂が本物だと本日確認したわ」
「その噂、俺は初耳なんですけど」
「若い女の子たちから結構聞くわよ? よかったら私の嫁にもなって」
「前向きに検討します」
お互い笑い合い、楽屋に戻る。もうこの際、嫁にしたい男No. 1を目指そう。三喜雄は苦笑した。塚山がお疲れ、と手を挙げてねぎらってくれた。
ガーメントバッグからタキシードを出すべく、パイプハンガーに向かう。とりあえずこれから、俺がピアノの前でドイツ語でちんまり歌うのが精一杯だとか書き込んだ奴には、思い知らせてやる。そんなことを考える自分は、常に攻撃的な塚山の悪影響を受けているかもしれないと三喜雄は思った。
1
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
平凡顔のΩですが、何かご用でしょうか。
無糸
BL
Ωなのに顔は平凡、しかも表情の変化が乏しい俺。
そんな俺に番などできるわけ無いとそうそう諦めていたのだが、なんと超絶美系でお優しい旦那様と結婚できる事になった。
でも愛しては貰えて無いようなので、俺はこの気持ちを心に閉じ込めて置こうと思います。
___________________
異世界オメガバース、受け視点では異世界感ほとんど出ません(多分)
わりかし感想お待ちしてます。誰が好きとか
現在体調不良により休止中 2021/9月20日
最新話更新 2022/12月27日
侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
専業種夫
カタナカナタ
BL
精力旺盛な彼氏の性処理を完璧にこなす「専業種夫」。彼の徹底された性行為のおかげで、彼氏は外ではハイクラスに働き、帰宅するとまた彼を激しく犯す。そんなゲイカップルの日々のルーティーンを描く。
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
離したくない、離して欲しくない
mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。
久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。
そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。
テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。
翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。
そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R18】保健室のケルベロス~Hで淫らなボクのセンセイ 【完結】
瀬能なつ
BL
名門男子校のクールでハンサムな保健医、末廣司には秘密があって……
可愛い男子生徒を罠にかけて保健室のベッドの上でHに乱れさせる、危ないセンセイの物語 (笑)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる