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ひとりじゃできないこともある

自宅にて その2

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「あ、そうなの……幣原さんの好きな人がね……」

 奏人はスケッチブックに走らせていた濃い鉛筆を止めて、コーヒーを持ってきた暁斗を見上げた。

「嫌なこと言うけど、暁斗さんの同情を買うための出まかせじゃないの?」

 奏人の言葉を明確に否定できるだけの証拠は無い。まあこうなると、信じるか信じないかは、個人の裁量になる。

「嘘を言ってるようには思えなかったし……同情しても気持ちが動くかどうかは別かなと」

 暁斗の返事に、奏人は美しい形の唇をふっと緩めた。

「迷惑だってはっきり言ったんだよね? じゃあいいんじゃないかな」

 暁斗がテーブルにマグカップを置くと、ありがと、と奏人は言い、ミルクの入ったコーヒーをひと口飲んだ。そして鉛筆を持ち直す。

「聞いたよ、綾乃さんと秋葉原で会ったんだって?」

 奏人はスケッチブックに視線を落としたまま言った。神崎綾乃は可愛がっていた元スタッフと、しっかり繋がっているようだ。
 もしかしたら神崎は、あの日の暁斗との会話について、奏人に何か話したのかもしれない。少なくとも奏人にとっては、不愉快になるような内容の会話ではなかったと思う。

「うん、いよいよ独立を考えてるって教えてくれた……あの人の仕事も大変だなと思うよ」
「やっとその気になったのかな? 実は元スタッフとしても、綾乃さんに本来の道に早く立ち戻ってほしい感があったりはするんだよね」
「そうなのか」

 神崎について、奏人がそんな風に言うのを暁斗は初めて聞いた。でもこれも、奏人自身が仕事や趣味を含む私生活で落ち着いているからこそ、言えることのような気がする。

「神崎さんにも幣原さんのことでちょっと心配かけたから、また連絡することがあったら平和裡にまとまりましたって伝えといて」

 暁斗はのんびり言ったが、奏人はふふふ、と笑う。

「平和裡にまとまったなんて言っていいのかな? あの人、一筋縄ではいかないんじゃない?」
「何で脅すんだよ」

 暁斗はブラックのコーヒーを飲んだ。一筋縄ではいかないだろう、とは思う。露骨に態度に出すのは控えてくれるかもしれないが、暁斗のことを気に入っている理由を聞いた限り、あっさりと諦めてくれるとは思えない。幣原が想いを寄せる彼が女性と別れ、ドイツから帰ってきてくれたらいいのだが。

「僕はほら、暁斗さんが僕一筋みたいだって聞いたから、暁斗さんがふらつくことは心配してないよ」
「そうでございますとも」

 暁斗はおどけて奏人に頭を下げてみせた。神崎はどうも、その辺りを上手く奏人に伝えてくれたらしい。
 奏人はコーヒーを飲み終わると、彼が教えている女子大の文芸部から、秋に出版予定の中短編集の初稿を受け取ったと教えてくれた。彼はひょんなことからこのクラブに関わることになり、インスタグラムにアップしている自分の絵を、部員の妄想の糧に提供したのである。
 奏人はスケッチブックを置いてノートパソコンを立ち上げ、PDFのデータを開く。目次には、奏人の絵にインスパイアされた15の作品のタイトルがずらりと並んでいた。

「壮観だなぁ、分厚い本になるんじゃないのか?」

 暁斗が思わず言うと、奏人は分冊にするかもね、と笑った。

「4回生は実習とか就活があるから、仕上げられないだろうと顧問の先生は思ってたらしくて……予定より遅れたとはいえ、全員書いてくるところに底力を感じるよ」

 奏人は最初の作品の扉のページをクリックした。

「この次に、各々の筆者が選んだ僕の絵をカラーで入れるんだって」

 部員たちが選んだ絵の半分には、暁斗の姿が描かれていると聞いていた。もちろん許可はしたが、いざ本の形になりインスタ以外の場所に出ると思うと、少し恥ずかしい。
 しかし、こういう共同作業はきっと楽しいだろうと思う。暁斗は学生時代にテニス部に所属していたので、ダブルスを組む以上の共同作業はしたことがなく、たまに団体競技や音楽の経験のある人が羨ましくなる。

「こういうのに参加させてもらうと、独りじゃできないことってあるなぁとめちゃ思うんだよね……」

 奏人が似たようなことを考えていたらしいので、暁斗は思わず顔の筋肉を緩めた。奏人は長年ソロプレイで生きてきた人で、暁斗との生活を含めて、他人と一緒に何かをする時に戸惑いを見せることがある。それも最近だいぶ減ったと、傍で見ている暁斗は感じるのだ。
 そうか、と暁斗はふと思う。アステュートとの仕事は、販路が違うとはいえ、営業の共通のテーマがあるといいかもしれない。幣原はあの後喫茶店で、大口契約よりも小さな組織相手の契約を積み重ねるほうがいいかもしれないと話し、暁斗も共感した。まだ漠然とした感覚でしかないため、いいと思う根拠を言葉にする必要があるが、そういう部分を2社の企画や広報とも共有したら、共同プロジェクトとしての意識も高まるかもしれない。
 暁斗も気鋭の大学生たちの作品を読ませてもらうことにした。とりあえず5作品を奏人はプリントアウトしてくれた。久しぶりに稼働したプリンターが、かたかたと楽しげな音を立てた。
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