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ともに迷って進む春
3月21日⑥
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名刺には、営業部第2営業課長の幣原守生とあった。暁斗はまずいと思う気持ちを出さないように、作り笑いを崩さず考える。取引先の社員、しかも同部署だなんて、冗談もほどほどにしてほしい。もしかしたらこの先、この人と仕事で顔を合わせる可能性があるということか。
それにしても、ゲイだと告白して名刺を堂々と渡してくるとは、さすが営業担当というか、大胆過ぎる。暁斗が最大級の警戒をしながら男……幣原の名刺に触れたその時、畳の上を軽く、しかし全速力で近づく足音がした。
「暁斗さん!」
奏人の声に、情けなくも暁斗は心からほっとしてしまった。幣原は暁斗に名刺を押しつけて、笑顔を奏人に向ける。
「ああ、素敵なパートナーさんにご挨拶していました」
一瞬顔をこわばらせた奏人だったが、暁斗に寄り添うように座り、にっこり笑ってみせた。
「何の御用ですか? はっきり言いますね、僕の大事なパートナーにおかしな接触をしてこないでください」
はっきり言い過ぎだろ! 目が笑っていない奏人の冷やかな笑顔に、暁斗ははらはらする。しかし幣原はたじろぎもせず、楽しそうに笑った。
「なかなか気の強いかたのようですね……では退散します、良い休日を」
幣原は窓際の、一番奥まった席に戻って行った。こちらからは、柱の陰になりよく見えない場所だったが、彼は独りで来ているようだった。
「何なんだあの人! ほんと油断も隙も無い……名刺渡して来たの?」
奏人は怒りと呆れの混じった口調で言い、暁斗の右手の中の名刺を取り上げた。そしてそれを見つめ、眉をぴくりと上げる。
「アステュート? これ本物なの? 暁斗さん、ここと一緒に仕事するんだよね?」
「うん、ちょっとびびった……偽物ではなさそうだけど、名刺渡さなくて良かった」
「ナンパしてきた人と名刺交換なんかしなくていいよ……あっ、有名な会社に勤めてるってアピールしたら、暁斗さんが靡くとでも思ったのかな」
幣原が去って安心した暁斗は、奏人の憤慨ぶりを可愛らしいと思う余裕が出て来た。
「まあまあ、ビール来たから飲もう……もう近寄って来ないと思うよ、はい乾杯」
マスクを外した奏人はまだ難しい顔をしていたが、グラスがかちんと鳴ると、ちょっと口許をほころばせた。
「ここに来るたびに、プチトラブルに巻き込まれてない?」
「夏はともかく、これをトラブルと呼んでいいものか、俺にはわからないんだけど」
ビールがやってきて時間が経ってしまっていたが、ぬるくはなっておらず美味だった。ほどなく2人の店員が、1枚ずつ大きな盆を抱えてこちらに歩いてきたので、テーブルの上を広げる。
春の懐石御膳に奏人は大喜びで、割り箸を取り上げていただきます、と言った。そしてきれいな箸遣いで、前菜を摘み始める。暁斗もそれに倣うが、料理は期待以上に良い味だった。
奏人のふるさとである北海道はどちらかというと、食べるものの味が濃い印象が暁斗にはあるが、奏人は薄味好みである。奈良に教えに行くようになって、その傾向が顕著になり、和食で奏人が美味しいと言うときは、関西風に美味だというニュアンスがある場合が多い。
「美味しいね、ちょっと意外」
「確かに、ちょっと力入れてるのかな」
スーパー銭湯の食事処は、だいたい可も無く不可も無くだと暁斗は認識しているが、ここは差別化を図っているのかもしれない。暁斗は行きつけの穴場を見つけたようで、ちょっと嬉しかった。
時間をかけて食事を済ませ、ツインルームに戻ると、奏人はぱたっとベッドに横になった。
「どうしたの、疲れた?」
暁斗が顔を覗き込むと、奏人は疲れたというか、と言って目許に手をやった。
「眠くなってきた、あれだけしか飲んでないのに」
「ああ、時間たっぷりあるから少し寝たらいいよ」
出先で食事の後に午睡など、奏人には珍しいが、そういうこともあるだろう。やはり疲れが溜まっているのかもしれないと思い、暁斗はスマートフォンのアラームをセットした。
「1時間後に鳴らすよ、もう1回お風呂行きたいだろ?」
「ん、了解しました」
奏人は掛け布団をめくって、その中にもぞもぞと入っていく。しっかり寝るつもりらしいのが、少し笑えた。
「どっか行ったりしないでよ」
不意に言われ、暁斗はえ? と奏人を振り返る。彼は暁斗のほうを向き、目を半分閉じていた。暁斗はベッドに近づき、手を伸ばして黒く柔らかい髪をそっと撫でた。
「どこにも行かない、何も心配せずにおやすみ」
奏人に必要とされていることを感じて、暁斗は満足だった。2人きりの部屋の中は程よく暖かく、静かだった。
それにしても、ゲイだと告白して名刺を堂々と渡してくるとは、さすが営業担当というか、大胆過ぎる。暁斗が最大級の警戒をしながら男……幣原の名刺に触れたその時、畳の上を軽く、しかし全速力で近づく足音がした。
「暁斗さん!」
奏人の声に、情けなくも暁斗は心からほっとしてしまった。幣原は暁斗に名刺を押しつけて、笑顔を奏人に向ける。
「ああ、素敵なパートナーさんにご挨拶していました」
一瞬顔をこわばらせた奏人だったが、暁斗に寄り添うように座り、にっこり笑ってみせた。
「何の御用ですか? はっきり言いますね、僕の大事なパートナーにおかしな接触をしてこないでください」
はっきり言い過ぎだろ! 目が笑っていない奏人の冷やかな笑顔に、暁斗ははらはらする。しかし幣原はたじろぎもせず、楽しそうに笑った。
「なかなか気の強いかたのようですね……では退散します、良い休日を」
幣原は窓際の、一番奥まった席に戻って行った。こちらからは、柱の陰になりよく見えない場所だったが、彼は独りで来ているようだった。
「何なんだあの人! ほんと油断も隙も無い……名刺渡して来たの?」
奏人は怒りと呆れの混じった口調で言い、暁斗の右手の中の名刺を取り上げた。そしてそれを見つめ、眉をぴくりと上げる。
「アステュート? これ本物なの? 暁斗さん、ここと一緒に仕事するんだよね?」
「うん、ちょっとびびった……偽物ではなさそうだけど、名刺渡さなくて良かった」
「ナンパしてきた人と名刺交換なんかしなくていいよ……あっ、有名な会社に勤めてるってアピールしたら、暁斗さんが靡くとでも思ったのかな」
幣原が去って安心した暁斗は、奏人の憤慨ぶりを可愛らしいと思う余裕が出て来た。
「まあまあ、ビール来たから飲もう……もう近寄って来ないと思うよ、はい乾杯」
マスクを外した奏人はまだ難しい顔をしていたが、グラスがかちんと鳴ると、ちょっと口許をほころばせた。
「ここに来るたびに、プチトラブルに巻き込まれてない?」
「夏はともかく、これをトラブルと呼んでいいものか、俺にはわからないんだけど」
ビールがやってきて時間が経ってしまっていたが、ぬるくはなっておらず美味だった。ほどなく2人の店員が、1枚ずつ大きな盆を抱えてこちらに歩いてきたので、テーブルの上を広げる。
春の懐石御膳に奏人は大喜びで、割り箸を取り上げていただきます、と言った。そしてきれいな箸遣いで、前菜を摘み始める。暁斗もそれに倣うが、料理は期待以上に良い味だった。
奏人のふるさとである北海道はどちらかというと、食べるものの味が濃い印象が暁斗にはあるが、奏人は薄味好みである。奈良に教えに行くようになって、その傾向が顕著になり、和食で奏人が美味しいと言うときは、関西風に美味だというニュアンスがある場合が多い。
「美味しいね、ちょっと意外」
「確かに、ちょっと力入れてるのかな」
スーパー銭湯の食事処は、だいたい可も無く不可も無くだと暁斗は認識しているが、ここは差別化を図っているのかもしれない。暁斗は行きつけの穴場を見つけたようで、ちょっと嬉しかった。
時間をかけて食事を済ませ、ツインルームに戻ると、奏人はぱたっとベッドに横になった。
「どうしたの、疲れた?」
暁斗が顔を覗き込むと、奏人は疲れたというか、と言って目許に手をやった。
「眠くなってきた、あれだけしか飲んでないのに」
「ああ、時間たっぷりあるから少し寝たらいいよ」
出先で食事の後に午睡など、奏人には珍しいが、そういうこともあるだろう。やはり疲れが溜まっているのかもしれないと思い、暁斗はスマートフォンのアラームをセットした。
「1時間後に鳴らすよ、もう1回お風呂行きたいだろ?」
「ん、了解しました」
奏人は掛け布団をめくって、その中にもぞもぞと入っていく。しっかり寝るつもりらしいのが、少し笑えた。
「どっか行ったりしないでよ」
不意に言われ、暁斗はえ? と奏人を振り返る。彼は暁斗のほうを向き、目を半分閉じていた。暁斗はベッドに近づき、手を伸ばして黒く柔らかい髪をそっと撫でた。
「どこにも行かない、何も心配せずにおやすみ」
奏人に必要とされていることを感じて、暁斗は満足だった。2人きりの部屋の中は程よく暖かく、静かだった。
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