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欠ける月、想い満ちて

11月8日 8:30

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 風呂から上がって古いベッドで横になると、暁斗は枕元のスマートフォンの様子が気になってなかなか寝つけなかった。だが弟と長く使った部屋ですっかり気が緩んだのか、結構ふてぶてしく眠ってしまった。しっかり朝食を腹に詰め込み、特に用事の無い両親と遅番だという妹に見送られ、暁斗は混雑する電車に乗る。
 奏人は結局、暁斗が出て行って以降一度も連絡を寄越してこない。可愛くないなと暁斗は胸中でぼやいたが、彼はなかなか頑固で気が強いので、期待しないほうがいいだろう。という暁斗も、自分から連絡するのは折れるようで悔しい。
 どっちが悪い、とかではない。きっとお互いの存在に慣れてきて、お互い甘えていて、相手がこれは許せないというラインを見誤ったのだ。暁斗は朝も家族から、奏人の過去の人脈に神経質にならず、かつ奏人にみだりに蓉子の話をするなとアドバイスされたが、蓉子とゲイ専デリヘルの客を並列させるようでやはり気分が悪い。だがそれも、暁斗の独りよがりに過ぎないのだろう。
 この点は奏人にも家族にも誤解されたくないところだが、暁斗は蓉子に対して、恋情的な未練は全く無い。大学のゼミの後輩として出会った頃から、蓉子を魅力的な女性だと思っていたが、それこそ奏人に対して恋い焦がれたような熱い感情を、彼女に対して抱いたことがなかった。自分も彼女も結婚適齢期になったので、自然な流れで結婚したに過ぎない。
 蓉子と一緒にいるといつも楽しかった。彼女を美しいと認識していたし、仕事もよくできる自慢の妻だった。……だがそれは、奏人と一緒にいる時に感じる何かとは違う、極めて淡泊な好意で、結婚生活を支えるには脆過ぎたのだった。



 ネクタイとシャツを替えて来たので、昨夜実家にいたことは周囲にバレないと暁斗は思っていたが、女子社員たちは目敏かった。

「課長、今日髪の毛何だかふわふわしてないですか? シャンプー変えたとか」

 竹内に言われてぎょっとした。昨夜は晴夏のシャンプーとコンディショナーを使わせてもらったのだが、普段暁斗が使っているものよりお高そうなのに、朝起きると頭が爆発していた。整髪料を借りようとすると、父は会社勤めを終えてから使わなくなったというので、晴夏のヘアワックスで髪を整えたという体たらくである。

「あ、昨日試供品を使ったら合わなかったみたいだ」
「私はいいと思いますけど」

 和束が襟足を見上げてくる。

「高崎さんのお見立てですか?」
「へ? いやいや、ドラッグストアで貰った」

 奏人の名前が出ただけでどきどきしてしまう。母は出掛けに、今夜はかなちゃんのとこに帰りなさいよと笑って言ったが、つんけんされたり無視されたりすることを想像すると、ちょっと気が重くなってきた。



 午前中に来客があるくらいしか、大きな仕事は無かった。何となく落ち着かない気分でデスクワークに励んでいると、3時のお茶がそっと机上に置かれる。暁斗は凝った首を回して、つい溜め息をついた。

「天気がいいから、今夜は皆既月食よく見えますよね」
「あ、今日がそれの日なんだ」

 部下たちがマグカップを手に、今夜の天体イベントの話をしていた。そう言えば奏人が、皆既月食の話をしていたように思う。

「400年ぶりにどうとか言ってるよね」
「それは天王星か何かが月と重なるのが、ですよね」

 竹内と和束がおおよそ他人事のように話すところを見ると、さして興味は無いのだろう。暁斗は一応2人に訊いてみる。

「彼氏やご主人と月を見るとかしないのか?」

 2人の部下は一様に苦笑した。竹内は暁斗の勘が外れてなければ、現在結婚を考えている男性がいる。和束は、結婚祝いを渡してから、もう10年は経っただろうか?

「え、科学館に行って観測とかするんですか?」
「うちははなからそんなロマンチックじゃないですね、課長のとこと違って」

 女たちがにやにやしているので、何とも居心地が悪い。家のベランダで奏人と月見をしたという暁斗の話を、2人とも覚えているのだろう。

「今夜は早く帰らないと一緒に見られないですよ、課長」
「いや、それが……月見どころじゃない状態で……」

 しまった。暁斗は口をつぐんだが、竹内と和束は顔を見合わせた。和束が声を潜める。

「まさか喧嘩でもしてるんですか」
「ああ……ちょっとこじれていて……今夜も口をきいてくれるかどうか」

 ええっ、と2人は声を揃えた。暁斗はいたたまれない気持ちをごまかすべく、コーヒーをひと口飲む。

「何だ、俺たちだってたまには喧嘩するぞ」
「いや、初めて聞いた気がしますけど?」
「まあこんなに拗れたのは初めてだけどな」

 にやにやしていた女たちは、一様に心配そうな顔になった。暁斗は作り笑いをする。

「大丈夫だ、原因がはっきりしてるからきちんと話し合えばいい……はずだ」
「……頑張ってくださいね」

 竹内からねぎらいとも励ましともつかない言葉をかけられ、情けないような嬉しいような思いが暁斗を包む。何にせよ、彼女が新卒で入社したのはつい最近だった気がするのに、成長したなと感慨深い。

「ああ、課長のとこ喧嘩するんだ……」
「月食より余程ホットな話題ですよ」

 部下たちの声を聞きながら、これはちゃんと家に帰らないといけないなと思う。周囲に公認されるというのも楽ではない。とは言え口にしたことで、暁斗の気持ちはやや前向きになっていた。
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