今宵貴方と見る月は ～あきとかなnext 〜 《あきとかな後日談集》

それも、賢者のおくりもの

11月30日 19：00①

　翌日の閉店間際に、坂井時計店にまた新顔の客が飛び込んできた。ちょうど先の客が帰ったところで、閉店作業は始めていなかった。背の高い男性客は駅から走って来たようで、マスクの奥で少し息が上がっていた。閉店時間なのにすみません、と彼は柔らかい声で言った。坂井は気安く応じる。
「いいえ、どうなさいましたか」
　男性は鞄の底を探るようにして、紺色のハンカチで包まれたものを出した。中身を見て、坂井は思わずあらら、と言ってしまった。留め具が外れてバラバラになった銀のバンド。時計本体も、傷だらけである。
「ぶつけたらこんなことに……時計は大丈夫です、たぶん」
　男性はバンド交換を希望したが、すぐには難しかった。古い時計で、おそらくバンドの幅が、既成の替えバンドでは微妙に合わない。しかも時計の台に年季が入っていぶし銀のようになっているため、新しいバンドをつけると浮いてしまう。
　そう説明すると、男性は如何にも残念そうにしょぼんと眉の裾を下げた。
「革のバンドのほうがまだしっくりくるかも知れません、幅が合わないのはどうしょうもないですが」
　坂井は替えバンドの並んだショーケースに男性を誘導して、いくつかを出して見せる。
「この時計に革のバンドはつけたことがないですか？」
「はい、外回りが多いもので、夏にすぐにだめになるって先輩方が言ってるのを聞いて」
　男性は人の良さそうな笑いを目に浮かべた。なるほど、如何にも営業マンらしい。話し方もそうだが、走って来たのにどこも着崩さず、身だしなみに清潔感がある。
「それは随分昔のお話のように思いますね、良い革はひと夏の汗ではへばりませんよ」
　坂井の言葉に男性は笑った。
「昔ですね、私が20代の頃の話ですから」
「お客様は今お幾つですか？　アラフォーくらい？」
　不思議な男性である。閉店前でそんなつもりは無かったのに、話を引き出される。
「いえ、オーバーフォーティです」
「じゃあずっとこの時計を？」
　坂井が目を見開くと、彼は微苦笑してはい、と応じた。彼の時計は国産メーカーの当時人気だったモデルで、長く販売されていたが、それでも終売から10年以上経っている。
　どうりで傷が多くてくすんでいるはずだ。手入れをしていたとしても、銀のくすみは避けられない。ムーブメントも寿命を超えているから、いつ止まってもおかしくない。バンドが壊れるような衝撃に、よく耐えたものだ……一体何をしたら、あんなことになるのだろう？
　だが坂井は何となく幸福感を覚える。2日続けて時計を長く使っている客が来るなんて、腕時計も使い捨てられる最近では、無かったからである。
　男性は坂井の見立てた3本の黒い革バンドから、淡く型押ししてグレーのステッチの入ったものを選んだ。文字盤に一番合うけれど、少し若いデザインなので出すのを迷ったのだったが、男性がしばし吟味してそれを選んでくれたので、坂井は満足する。
「すぐ換えますね、時計の調子で気になることはありませんか？」
「はい、今のところは」
　坂井がその場で作業を始めると、男性はショーケースを順番に覗き始めた。するとまた、昨日の美形の客と同様に、その足が創作時計の棚で止まった。随分と人気だな。今朝あの時計の作家にメールをすると、すぐに客への提案を複数出すと嬉しそうな返事が来た。
「綺麗ですね、オリジナルなんですか？」
　男性は興味を声に混ぜながら、言った。
「ええ、気鋭の作家のものを選んで置いています、幅広い年齢のかたに手にとって頂いてます」
「最近でもプレゼントに時計を選ぶ人って多いですか？」
　訊かれて坂井は手を止める。うーん、と首を傾げた。
「多いとは言えませんね……バブルの頃のクリスマス前は売れましたねぇ、今は進学や就職の時期が出ますね、後は個人の誕生日」
　バンドが上手く収まったので、男性に試着させる。バンドの幅は、時計本体の受けの幅に少し足りないが、遊ぶことは無さそうだ。
「ああ、いいですね、想定外です」
　男性は嬉しげに自分の手首を見る。40過ぎにしては若見えするので、このバンドでも違和感は無かった。
「すみません、また出直しますけど、これ……受注販売ですか？」