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ぼくのあきとさんのこと。

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 僕はファザーコンプレックスと、軽いエディプスコンプレックスをこじらせている。臨床心理士でもある綾乃さんにはっきりと指摘されて、やたらに腑に落ちほっとしたくらいだった。そんな自分でなければ暁斗さんに惹かれなかっただろうが、そんな自分を暁斗さんが緩やかに癒してくれている。
 僕はこれまで知らなかった種類の愛情を、暁斗さんから注いでもらったように思う。暁斗さんは僕と出会うまで自分がノンケだと思っていたので、彼にとっても僕に向けた愛情は、きっと初めてのものだった。それで化学反応が起きたのかも知れない。
 いらっしゃいませ、と搭乗ゲートにいるアテンダントに声をかけられて、暁斗さんはお世話になります、と応じた。営業マンかよ。制服の女性たちの目が笑う。今度はQRコードはスマートに通った。僕もゲートを通り、暁斗さんを軽く追う。僕たちの後から誰も来ないことと、アテンダントの2人が僕たちを見送ってくれているのを確認して、暁斗さんの手を捕まえた。

「奏人さん、手が冷たい……緊張してるの?」

 言われて、思わずえっ、と声が出た。暁斗さんは足を止めて、僕を見た。その目は笑っていなかった。

「……正直なところは行きたくない、のかな……」

 僕も足を止めた。ついうつむいてしまった。暁斗さんは繋いだ手を軽く引き、歩くように促す。飛行機の入り口に、キャビンアテンダントが立っていたが、手を繋いでやって来た僕たちを見てどう思っただろうか。
 一度手を解き、お互いの搭乗券に記された座席番号を見つめながら、飛行機の狭い通路を進む。席はほどほどに埋まっていて、大きな鞄を頭上の荷物棚に詰めている人を待ちながら、奥に進んだ。

「窓際座って、荷物入れるから」

 背の高い暁斗さんは、2人の鞄とコートを軽々と棚に入れる。ちっこい僕は、憧れの視線を彼に送った。少し狭そうにシートに落ち着いた暁斗さんは、シートベルトを締めながら、言った。

「行きたくないとはどういう意味ですか、伺いましょうか」
「あー……」

 僕は言葉を探すが、そのまんまなので特に説明することも無い。キャビンアテンダントが、荷物棚を手で押し確認しながら通り過ぎる。

「寒くない?」

 別のキャビンアテンダントが毛布を配っているのが見えたからか、暁斗さんが訊いてくる。飛行機の中は、ほんわり暖かく心地良かったが、暁斗さんは僕の返事を待たずに毛布を借りた。
 僕の手と膝に毛布を広げてくれる暁斗さんを見て、優しいな、と思う。彼の優しさは、軟弱さの裏返しではなく、強さから来るものだ。だからブレない。
 飛行機の定刻での出発がアナウンスされた。乗客向けの安全喚起ビデオが機内のテレビに映し出される中、ゆっくりと飛行機が動き出す。暁斗さんは真面目にビデオを見ていた。

「もしこの飛行機に何かあったとしても、奏人さんと一緒ならまあいいかと思った」

 暁斗さんは天然ぶりを発揮し、恐ろしいことをさらりと言ってのける。実は僕も、似たようなことを考えていたが、ここは否定しておくべきだろう。

「嫌だよ、一緒に長生きするんでしょ?」
「基本そうだけど、万が一のこと考えたら、残すのも残されるのも嫌だなって」

 ああ、この人は、まったくもう。……どうして同じことを思っているんだろう? 彼の少し垂れて笑っている目が、ぼんやり霞んだ。そんなつもりじゃなかったのに、僕の目から熱い水が漏れ出してしまった。

「奏人さん? えっ、どうしたの?」

 暁斗さんは僕を覗き込んで目を丸くした。その時飛行機が助走のためにスピードを上げたので、彼はうっ、と小さくうめいてシートに縫いつけられる。僕は笑ってしまう。

「そんなに行くのが嫌なら別の機会にしよう」

 機内に轟音が響き、暁斗さんが声のボリュームを上げた。どこまでとんちんかんなんだ。

「そうじゃない、行くのは嫌だけど母と弟に暁斗さんをちゃんと紹介するって決めたんだ」

 飛行機がふわりと浮いたのを体感する。僕はこの感覚が好きだが、暁斗さんはやや顔をこわばらせていた。飛行機はどんどん高度を上げていく。窓のブラインドを少し上げると、斜め下に東京の街が無数の光を煌めかせているのが見えた。
 暁斗さんがこちらに身体を傾けてきて、窓の外を見て綺麗だ、と言った。僕が彼のほうに首を向けると、温かい指が僕の右のまなじりを拭う。
 飛行機は徐々に機体を水平に戻していった。マスクなんかしてなければ、軽くキスしたいところなのに。

「……俺が奏人さんのご家族にどう思われるかはともかく、奏人さんが帰って来るのを喜んでくださる筈だ」
「……うん」

 微妙な敗北感を覚えつつ、僕は頷いた。こうして僕はいつも、暁斗さんに納得させられてしまうのだ。ぽん、という音とともに、シートベルト着用のサインが消えた。
 暁斗さんの右手が毛布の中に入って来て、僕の左手を探し、捕らえた。優しい、しっかりした手。僕を支えて、明るい場所に導いてくれる手。
 きっと暁斗さんだって、僕の家族に会うのに緊張していて、疲れもあって妙なアドレナリンが出ているに違いなかった。でもこうして、僕を気にしていてくれるのが、嬉しい。いや、嬉しいなんてありふれた言葉だけでは、この気持ちを表すことができない。 
 キャビンアテンダントが動き出して、後ろのほうでかちゃかちゃと小さな音がし始めた。僕は右手で、前の席のシートポケットに入っている航空会社の雑誌をひっぱり出した。やがてコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔に流れ込んで来て、暁斗さんもマスクの下で鼻をうごめかしている。犬っぽいなぁ。

「本は後だよ、お菓子食べよう」

 暁斗さんは笑顔になり、握っている手にきゅっと力を入れた。このために毛布を借りたのか?
 飲み物を心待ちにしている暁斗さんに、手を離してくれないとケーキが出せないと言おうとして、やめる。もう少し、このままで。

「奏人さん」

 暁斗さんは声をひそめ、言う。

「今日はあなたと出会った記念日だから、まずコーヒーで乾杯したいな」

 覚えていてくれた。それは、奥様と離婚した以外はごくごく恵まれていた暁斗さんの人生を、僕が狂わせた日でもある。だから口にしようか、ずっと迷っていた。僕は胸の中に溢れた温かいものと連動するように、表情筋を緩めた。暁斗さんもつられるように、ほわっとした笑顔になり、わずかに顔を赤らめた。
 ほとんど話す人がいない機内で、キャビンアテンダントが飲み物のオーダーを取る微かな声だけが、聴覚をくすぐる。
 地上のしがらみから切り離された雲の上で、僕は愛するひとのぬくもりに溺れる。暁斗さんは、僕の手だけを握りながら、見えない何かで全身を包み込んでくれていた。それはこれからも、僕を守り、慰め、励まし、叱咤し、僕に喜びを与え続けてくれるだろう。
 暁斗さんが大好きだ。 


〈ぼくのあきとさんのこと。 完〉
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