上 下
40 / 47
秋の匂い

8月⑲

しおりを挟む
「あっ、片山くん」

 トイレから出た三喜雄に声をかけたのは、ピアニストの関谷だった。実は緊張して、さっきから手の震えが止まらない。尿意など無いのだが、音楽は耳に入らず、楽譜は見たくないし、参考書など論外なので、気を紛らわせるためにトイレに向かったのである。

「こんにちは」

 関谷が挨拶する三喜雄の姿を、上から下まで検分したのが分かった。

「あらぁグレーのスーツ素敵ね、買ったの?」
「いえ、父の若い時のです、藤巻先生がスーツのほうがいいだろうって言うので」

 ピアノ合わせの翌日に、息子にスーツを着せろと藤巻が父に連絡した。高校生は大概予選は学校の制服で出るが、準本選になると女子はドレスを用意してくる。その中で男子が制服だとちょっと垢抜けないし、三喜雄の歌に合わないというのである。
 母がクローゼットをほじくり返すのを見て、三喜雄は馬鹿馬鹿しいと思ったのだが、関谷はさすが藤巻さん、と本気で感心していた。

「くだらないと思ってるでしょ?」

 関谷から突っ込まれて、いやいやいや、と三喜雄は顔の前で手を振る。彼女はふふっと笑った。

「ソリストは衣装やアクセで舞台のために気持ちを切り替えるのよ」

 ふうん、と三喜雄は応じた。そんなものなのか。
 関谷はスーツではなく、黒いドレス姿である。今日彼女は、1人のテノールの伴奏者としてホールに来ていた。そのテノールは三喜雄と同じく高3で、今から中田喜直の「さくら横ちょう」を歌う。しかも三喜雄のひとつ前に。

「関谷先生、音出し部屋空きました」

 黒いタキシードの青年が、靴の踵を鳴らしながらこちらに向かってくる。塚山つかやまだったかなと三喜雄は思い出す。同じ曲を歌う人間は、やはり気になるものである。
 髪の色を明るくして、右耳に銀色のピアスを2つつけた塚山は、自分のピアニストの横に立つ三喜雄に強い視線を送ってくる。

「片山だよな?」

 いきなり問われて、あ、はい、と三喜雄はどぎまぎした。塚山は三喜雄の交友関係にいないタイプで、視覚的に軽く苦手感がある上に、喧嘩腰は勘弁してほしい。

「どうして俺の名前……」
「プログラムであと残ってる男は俺とおまえだけだし、俺おまえの予選聴いたから」

 塚山はぷいっと身を翻し、ピアノのある楽屋に向かってしまう。三喜雄はあ然とした。
 関谷が能天気にからから笑った。

「ごめんね、緊張したら当たりがきつくなるタイプ」
「何ですかそれ、迷惑です」
「片山くんの予選聴いてお尻に火がついたみたいでね、この1ヶ月『さくら横ちょう』ばっかり練習してたんだって」

 関谷はヤンキーテノールの後を追う。そして三喜雄を振り返った。

「ぶっちゃけあの子かなり歌うわよ……直前に歌われて嫌だと思うけど落ち着いて、あの子はあの子、あなたはあなた」

 三喜雄は鼻から息を抜く。気分が紛れたのは良かったが、予選の時には無かった緊張感が生まれる。今ここに集まっているのは、自分の同類だ。年齢も近いので、きっと別の場所で顔を合わせたら仲良く話せるだろうが、今日は全員がライバルである。
 手の震えが治まった。三喜雄は次に音出し部屋を使うべく、楽屋に楽譜と水を取りに戻った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

My Angel -マイ・エンジェル-

甲斐てつろう
青春
逃げて、向き合って、そして始まる。 いくら頑張っても認めてもらえず全てを投げ出して現実逃避の旅に出る事を選んだ丈二。 道中で同じく現実に嫌気がさした麗奈と共に行く事になるが彼女は親に無断で家出をした未成年だった。 世間では誘拐事件と言われてしまい現実逃避の旅は過酷となって行く。 旅の果てに彼らの導く答えとは。

季節の巡る彼女と少年の物語

山神賢太郎
青春
 ある日突然出会った。日本人とドイツ人のハーフの女性エーデル・フランクと小学四年生の男の子穂高護との季節を巡る物語。  2人は出会ってから一緒に過ごしていくうちに仲良くなっていく。  そんな二人の日常を描いた小説

back beat 完全版

テネシ
青春
短編の自主制作映画化を前提に戯曲形式で書いていた「back beat」シリーズを一本の長編映画戯曲化し、加筆修正を加えて一つに纏めました。 加筆修正エピソード 2章 ~Colors~ 3章 ~プロポーズ~ 4章~mental health+er~ 作中に登場する「玲奈」のセリフに修正が御座います。 大幅な加筆が御座います。 この作品は自主制作映画化を前提として戯曲形式で書かれております。 宮城県仙台市に本社を構えるとある芸能プロダクション そこには夢を目指す若者達が日々レッスンに励んでいる 地方と東京とのギャップ 現代の若者の常識と地方ゆえの古い考え方とのギャップ それでも自分自身を表現し、世に飛び出したいと願う若者達が日々レッスンに通っている そのプロダクションで映像演技の講師を担当する荏原 荏原はかつて東京で俳優を目指していたが「ある出来事以来」地元の仙台で演技講師をしていた そのプロダクションで起こる出来事と出会った人々によって、本当は何がしたいのかを考えるようになる荏原 物語は宮城県仙台市のレッスン場を中心に繰り広げられていく… この物語はフィクションであり、作中に登場する人物や会社は実在しておりません。 通常はト書には書かず絵コンテで表現する場面も、読んで頂くことを考えト書として記載し表現しております。 この作品は「アルファポリス」「小説家になろう」「ノベルアップ+」「エブリスタ」「カクヨム」において投稿された短編「back beat」シリーズを加筆修正を加えて長編作品として新たに投稿しております。 この物語はフィクションであり、作中に登場する人物や会社は実在しておりません。

泣きたいきみに音のおくすり ――サウンド・ドラッグ――

藤村げっげ
青春
「ボカロが薬になるって、おれたちで証明しよう」 高次脳機能障害と、メニエール病。 脳が壊れた女子高生と、難聴の薬剤師の物語。 ODして、まさか病院で幼馴染の「ぽめ兄」に再会するなんて。 薬のように効果的、クスリのように中毒的。 そんな音楽「サウンド・ドラッグ」。 薬剤師になったぽめ兄の裏の顔は、サウンド・ドラッグを目指すボカロPだった! ボカロP、絵師、MIX師、そしてわたしのクラスメート。 出会いが出会いを呼び、一つの奇跡を紡いでいく。 (9/1 完結しました! 読んでくださった皆さま、ありがとうございました!)

ダブルシャドウと安心毛布

青春
貴方の事から目が離せない。 それは良い意味なのか悪い意味なのか。

早春の向日葵

千年砂漠
青春
 中学三年生の高野美咲は父の不倫とそれを苦に自殺を計った母に悩み精神的に荒れて、通っていた中学校で友人との喧嘩による騒ぎを起こし、受験まで後三カ月に迫った一月に隣町に住む伯母の家に引き取られ転校した。 その中学で美咲は篠原太陽という、同じクラスの少し不思議な男子と出会う。彼は誰かがいる所では美咲に話しかけて来なかったが何かと助けてくれ、美咲は好意以上の思いを抱いた。が、彼には好きな子がいると彼自身の口から聞き、思いを告げられないでいた。  自分ではどうしようもない家庭の不和に傷ついた多感な少女に起こるファンタジー。

処理中です...