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悩め、歌え

8月⑤

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 18時まで練習に励んだグリークラブの面々は、ほとんどが空腹に負けて帰宅した。バスバリトンのパートリーダーが自主練で音楽室を使う間、自分たちも練習すると言って、4人が隣の教室に行った。

「グリーの人は練習熱心ですね」

 高崎は彼らを見送り、驚いたように言う。そんな彼の指先は、洗っても落ちないのか、青や緑の色にうっすら染まっていた。
 三喜雄は別のファイルを出して、ソロのコンクール用の楽譜を開く。

「お盆明けで合唱コンクールの1ヶ月前なんだ、曲が難しいから皆切羽詰まってる」
「フォーレのレクイエムは別の舞台なんですよね、進んでますか?」
「ああ、おかげで出演メンバーは歌い出しに慣れたみたいだよ」

 合唱コンクールの2曲が無伴奏なので、ちょうど良かった。伴奏から最初の音を取れない時は、練習でつけた自信と度胸が助けてくれる。

「歌うのは大変なんだって、この4ヶ月でよくわかりました」

 言った高崎の手が動いて、「その木陰でオンブラ・マイ・フ」の前奏が始まる。この歌は昨年の秋に発表会で歌ったので、やや余裕があった。予選の講評で指摘されたことを意識してブラッシュアップしようと、藤巻からは言われている。
 最初の音を気負わず出すことができたが、高崎が前よりもクリアな音で弾いていることに気づいた。通奏低音がよく聴こえる。この曲はムード音楽じゃない、と藤巻が話したことを意識した。ペルシアの王セルセが、宮殿の庭に立つ大木の下で歌うアリオーゾ。タイトルロールによるオペラの幕開きの歌だ。
 王は、いつも自分を物言わず癒してくれるプラタナスを讃える。この暑さだからこそ、三喜雄にも木陰を愛でるセルセの気持ちがわかる気がする。それを、自分なりに表そう。
 繰り返されるcara大好きなamabile愛らしいsoave気持ちいいといった甘い歌詞に感傷的になり過ぎないよう歌った。支えを持ってフェルマータの最高音を十分に保ち、最後まで気持ちを切らさないよう歌い切り、後奏を聴いた。
 高崎は鍵盤から指を上げ、ペダルをゆっくり戻してから、大きな目を瞬く。

「ああ、すごい素敵だと思います」

 いきなり褒められて、三喜雄は照れた。言葉が出るより先に、顔が熱くなる。

「バロックらしい威厳があっていいですよね、この曲って王様の歌なんでしょう? そこを意識して弾いてみたら、先輩の声が前より重みが増してて」

 あ、そう? と三喜雄は自分でも馬鹿になったかと思うような返事しかできなかった。美貌の2年生は、ピアノの椅子の上で足を交互にふわふわと動かす。

「いいな、これから広い世界に向かって進む人とこうしてクロッシングするのって」

 三喜雄はその言葉に、ふと冷静になる。高崎は楽しげに続けた。

「片山さんきっといい歌手になりますよ、僕あげまんなんです……ずっと前に伴奏したフルーティストは、今フランスのオケとソロで活躍してますから」

 知的な彼らしくない、奇妙な思い込みに思えた。フォーレの「リディア」を伴奏した相手が、そんな凄い奏者だとは思わなかったが。

「……本当にそう思ってるの?」

 三喜雄は高崎のお世辞とも励ましとも取れる言葉を、真っ向から否定するつもりはなかった。ただ、三喜雄自身にそんな未来が見えないので、つい突っかかってしまう。
 ヘンデルの楽譜を畳みかけた高崎はこちらを向き、え? と小さく言う。

「いや、俺は歌手になんてなれないと思ってるから」
「どうしてそんなこと言うんですか」

 高崎の大きな黒い瞳には、純粋な驚きしか浮かんでいない。まあそうだろうなと三喜雄は自嘲する。これだけ歌に金と時間を費やし、何の接点もなかった下級生を巻き込んでいるのに。

「……疲れてらっしゃるんですね、少し前の楽しくなさそうなのは脱したのかなと思いましたけど」

 高崎は声に憐れみのようなものを混じらせる。疲れているだろう、これだけの楽譜を抱え、日付けが変わるまで参考書と首っぴきになっていれば。
 最近、舞台袖で出番を待っているのに何を歌えばいいのかわからず、独りで軽くパニックを起こすような夢を見る。そんな時は目覚めると大概頭が重い。朝食を済ませる頃には、復活しているが。
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