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多忙な夏

7月⑤

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 1学期が終わり、夏休みに入ると、流石に昼間は暑さを無視できなくなる。それでも本州から北海道にやって来た旅行者たちは、ギラギラする太陽の下で、爽やかだなどと話す。天気予報で本州の気温を聞くと、そりゃ夏の札幌でも涼しいよなと三喜雄は思い、どうして同級生たちがそんな亜熱帯の地の大学に行きたがるのか疑問だ。

「東京? 行ってみたいです」

 高崎までそう言った。親が許してくれないだろうけれど、東京に進学したいと彼は話す。
 藤巻と父まで、若い時に一度東京に出るのは悪くないと最近口にするので、この都会信仰は何なのだと思う。そう話すと、高崎はくすっと笑った。

「片山先輩がどうして頑なに東京を拒絶するのか、逆に疑問なんですけど」
「頑なってこともないぞ」
「でも音楽で生きていくなら、東京のほうが情報もチャンスも圧倒的に多いって伯母が言ってました」

 高崎の伯母は、伴奏ピアニストとして業界で有名な人だった。藤巻は共演したことは無いらしいが、彼女の名を知っていた。

「俺は音楽で食ってこうなんて図々しいことは考えてない、教職を取っておいて地道に生きるんだ」

 三喜雄は自分の考えが消極的だなどとは思わない。まあ、志高く教員を目指す連中には、歌優先なんて邪道だと言われそうだが。
 高崎の指が変イ長調の和音を軽く鳴らす。

「教職は片山さんに合ってるかもしれないですね、長谷部の片山さん評を聞いてたら」

 三喜雄は思わず、え? と応じた。下級生が外で自分についてどう話しているか、気になる。高崎は三喜雄の気持ちを察したのか、話を続ける。

「一番グリーの中で気を回してるのは片山先輩だって、ある意味小山先生より頼りになるって言ってました」

 あいつ、そんな風に思ってるのか。顔が緩みそうになったが、三喜雄は堪えた。

「そんな話、あいつとするのか」
「長谷部とは世界史と化学とスピーキングが一緒なんです、結構顔を合わせます」

 雑談を一旦区切り、歌の練習を始める。三喜雄はコンクールで歌う曲を変更することにしていた。合唱祭で自分の調子が上がっているのを感じたことと、最近買った日本歌曲のCDを聴き、歌ってみたいと思ったからだった。
 そのCDで歌っているのは、現在ヨーロッパでオペラの舞台に立っている、日本人のバリトンだった。別宮貞雄の「さくら横ちょう」が魅力的で、ダメ元で藤巻に歌いたいと申し出た。師はうーん、と渋い顔になったが認めてくれて、準本選でトスティの代わりにこれを歌い、ヘンデルと合わせることにした。
 つまり三喜雄は、予選を通過することができたならば、2曲の「さくら横ちょう」を舞台に上げることになる。大物だな、と藤巻は笑った。その頃はどちらの曲も歌い切る自信が無くて、自分のCDに入れなかったという師の言葉に、三喜雄の顔から血の気が引いた。
 時間が足りないと言いつつ、予選で歌うベッリーニと中田喜直の暗譜はほぼ出来ていた。「さくら横ちょう」の言葉の発音と、テノールの音域をどう歌うかが目下の課題である。
 ベッリーニの甘さが詰まった「優雅な月よ」を最後まで流すと、高崎は楽譜の指示通り、軽くさらりと、しかし憂いを帯びた音で「さくら横ちょう」の伴奏に入る。

「はなばかり、さくらよこちょう……」

 ここで曲が一瞬長調に転じ、ピアノが駆け上がる。

「あいみるのときはなかろう」

 違う、と三喜雄は思った。昨夜藤巻に指摘されたばかりだった。三喜雄のつまずきを察して、高崎が手を止める。

「気合い入れて出過ぎちゃいました?」
「うん、昨日先生にもそう言われた」
「2小節前から伴奏ディミヌエンドして、そこpです」

 だよな、と三喜雄は首を捻った。

「気合い入れないと『あい』がはっきり発音できないんだよなぁ」

 高崎も首を傾げた。

「伴奏も突っ込んでしまいたくなるんですよね……ちょっと『花ばかり』からもう1回やってみていいですか?」

 ひとつ呼吸を入れ、高音の準備をする。音楽は流れ、その小節に入る寸前、ほんの一瞬ピアノの響きが消えた。すると三喜雄の口から、驚くほどクリアでコントロールできたBの音が出た。

「あいみるのときはなかろう」

 少しテンポを緩め、息を吸う。

「そのごどう」

 ここでもぱたりとピアノが消えた。

「しばらくね」

 心地良い空白。それなのに音楽が前に進み、男女が会話をぽつぽつと交わす感じが出た気がした。

「といったって、はじまらないとこころえて……」

 次は歌い手の見せ場だった。

「はなでもみよう……」

 Fで3拍延ばし、ストリンジェンドで下降していく。高崎はそこで一旦手を止めた。

「ペダルを早く離してみました、こうしたほうが僕も片山先輩の呼吸がわかりやすくていい感じです」
「あ、なるほど、歌いやすかった」

 三喜雄が言うと、高崎はにっこり笑う。

「よろめくところめっちゃ正確になりましたよね、桜の花びらが落ちてくるみたい」

 無伴奏の3小節の下降形を、高崎がよろめくと表現するのが少し可笑しい。確かにそんな感じなのだが、藤巻は、不必要にテンポを落とさず、音程は絶対外すなと厳命した。計算して作曲されたよろめきなのである。



*ディミヌエンド diminuendo だんだん弱く
*ストリンジェンド stringendo  だんだん速く
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