彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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終曲/帰省

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「楽譜、ノート、楽譜のファイル……」

 三喜雄はキャリーケースに荷物を順番に詰めていく。着替えは家に残してきたもので事足りるだろう。スニーカーは履いて帰るのとは別に、1足持って帰ろう。
 前期の授業とテストが全て終わってすぐ、駅前のドーナツマスターにも個人レッスンを受けている国見にも、お盆明けまで北海道に帰ると連絡した。ドマスの店長からは、高校生のアルバイトの夏休みが終わる8月末には復活してほしいと言われている。国見は、三喜雄が札幌にいる間は藤巻のレッスンを受けると思っているのか、夏休みの宿題だと言って、フランス語やドイツ語の歌曲とアリアを4曲も渡してきた。10月の最後の日曜に国見門下生の発表会があり、現在山田耕筰を練習中なので、もう1曲は宿題の中から選ぼうと考えている。
 後期が始まると、大規模ではないといえ、本番が毎月続く。まあ、ここ数年そんな生活を送っているのでだいぶ慣れたが、秋のコンサートの中には、ソリストとして出演料を頂戴するものもある。ちょっと身が引き締まる思いだ。
 ああ、タキシードとスーツと本番用の靴が要るな。三喜雄は思い出してよかったと、勝手にほっとした。保管場所は問題無い。この部屋のクローゼットが広いのは、何かと衣装が必要な音楽系学生への配慮なのかもしれない。
 とりあえず8月20日までには東京に戻ろうと考えているが、実は8月後半もいろいろなお誘いがあって忙しい。小田亮太からは、横浜の実家に遊びに来ないかと言われているし、深田一樹は8月末、彼がつくばで教えてもらっている先生の門下生の発表会を控えており、そのことを遠慮がちに教えてくれたので見に行ってやりたい。学部生である深田とはなかなか話す時間が持てないだけでなく、歌声を聴くことができないから、こういう機会は大切だ。
 というか、ここから横浜は割と近いようだけれど、つくば市までは何線に乗って、どれくらい時間がかかるんだろう。三喜雄は東京に出てきて、人がうようよしている「首都圏」と呼ばれる地域が、とても狭いということを知った。大都市札幌で生まれ育った三喜雄だが、こんな範囲にこれだけの人が生活して、日々の移動のために、蜘蛛の巣のような細かく精緻な鉄道網が敷かれているという事実が、ちょっとまだ信じられない。
 スマートフォンが震えた。プッシュ通知が、松本咲真からのメッセージを表示していたので、三喜雄はすぐにパスワードを入力しロックを外す。

「明日10時10分に会いましょうってことでいい?」

 松本はそう訊いてきた。彼も明日帰省する予定だが、飛行機を使うという。三喜雄が乗る羽田発新千歳行きと、松本が乗る伊丹行きの出発時間が30分しか変わらないので、羽田に一緒に行こうと言って来たのだ。
 三喜雄は指を動かした。

「いいよ、問題ないです」

 普段上野と自宅の間を自転車で行き来するだけなので、まだ東京のメトロの乗り継ぎがよく分からない同士、羽田までもたもた行こうという話になった。心細かったので有り難い。松本は新幹線で帰るほうが便利なはずなのだが、先に伊丹市に住む祖父母の家に寄って、顔を見せてやるのだという(彼にはそういう優しさがあり、三喜雄も彼がちらっと見せる情の厚さが好きだ)。それで神戸市の実家にすぐに移動できるというのだから、関西圏の都市の距離感も、やはり三喜雄にはちょっと想像がつかない。
 せっかく待ち合せているのに、会えなかったら意味が無いので、三喜雄は細かく指示を出しておく。

「前から2両目の前の扉の辺りにいます」
「了解でーす、では明日よろしく」

 やり取りはそれで終わった。松本はいつも、話す時とは打って変わって、メッセージがあっさりしている。彼は結構ディープに、自分がどういうピアニストになりたいのか迷い悩んでいると三喜雄は受け止めているのだが、レストランで彼の伴奏で演奏することには楽しみしかないので、そんな自分を勝手だなと思ってしまう。彼がソリストとして活躍したいと言うのであれば、もちろん全力で応援したいと思うけれど。ああそうだ、レストランで歌う全てのプログラムを、一度藤巻に聴いてもらおう……ラフマニノフには渋い顔をされそうなので、納得してもらえるように、もう少し仕上げておこう。
 松本からじゃがいものお菓子をリクエストされているが、どれだけの人間にお土産を買って帰らないといけないのか、書き出してみないとわからない。この辺りは塚山天音に訊くのが良さそうだ。彼はまあいつものように、自分が札幌に戻り次第会おうと連絡してくるので、急がなくてもいい。ちなみに三喜雄は、塚山がいつ実家に帰るつもりなのか、知らない。
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