彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第3幕/学歴は、洗いません。

第2場②

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 歌の演奏は、音を声帯から出すという作業に、歌詞を話すというタスクが必ず加わる。そのため日本語だけではなく、複数の外国語にかかわらなくてはならない。全ての言語で日常会話ができなくてもいいが、歌詞の意味を理解して、正しく発音する必要があるのだ。
 とは言え、国内刊行の楽譜なら、和訳が載せてあることも多い。それをきちんと単語から調べているのが偉いと咲真は思ったのだった。
 おぼこい男子は咲真の気配に、顔を上げた。咲真は場所柄、黙って手を挙げたが、あちらから小声で挨拶してきた。

「あ、こんにちは、先日はどうも」

 小声の標準語で社交的に返す。

「こんにちは、勉強熱心ですね」
「そんな、最低限です」

 随分とご謙遜だ。歌詞の意味をろくに調べずに歌う者も少なからずいると、咲真は知っている。この芸大の院にはいないと思うが。

「えっと、こないだは本当にお騒がせしました、俺器楽専攻の1年目の松本まつもとといいます」

 咲真が自己紹介すると、おぼこい男子は背筋を伸ばした。

「声楽専攻の1年の片山かたやまです」
「何や、同いか」

 気ぃ使つこて損した。関西弁に豹変した咲真に、片山はちょっと驚いたようだった。
 咲真は片山の斜め前の椅子を引き、座った。鞄から楽譜ではなく一般書籍を出す咲真の手許を、片山はじっと見つめている。

「……何? どうかした?」

 咲真は何の気無しに訊いたが、片山は敬語を外して少し緩い話し方になった。

「それ、去年の直木賞だったっけ?」
「お、おう、よう知ってるやん、俺割と時代小説とか好きやねん」

 片山が急に懐に入ってきた感じがして、咲真は何故かどぎまぎする。訊かれもしないことを話したくなるほどに、やや明度の下がった片山の話し声は心地良かった。
 彼はにっ、と笑う。

「それ面白かった……松本さん結構本読むんだ」

 言われて咲真は、まあな、と応じた。

「クラシックやってる人って、めちゃ雑食で何でも読むか、作曲家論とかハウトゥ演奏本以外は全く読まないか、どっちかじゃない?」

 片山の言葉に、咲真がこれまで接してきた音楽家は、音楽関係の本しか読まない人が多かったと思う。

「そやなあ、俺は割と何でも読む方やけど、みんなそんな暇無いとか言うな」
「確かに時間は無いけど、俺はできれば本を読む音楽オタクでいたいな」

 院まで来といてオタクは無いやろ。咲真は片山の言い方に小さく笑った。
 片山に対して興味が湧いた咲真は、夕飯を一緒に食べないかと誘ってみた。すると彼はあっさりと、いいよ、と答えた。

「8時までバイトあるから、ちょっと遅くなってもいいかな」
「うん、バイトどこでやってんの?」
「千駄木の駅前」

 咲真は片山の返事に驚く。自分の家の最寄りである根津の、隣の駅だからだ。しかも片山は、千駄木駅から歩いて10分もかからない場所に住んでいるらしい。

「めっちゃご近所やん」

 意気投合し、20時過ぎに咲真が千駄木に向かい、駅周辺の店で食事をすることにした。気の良い片山は、何ひとつ異議を唱えず、にこにこしていた。
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