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第3幕/学歴は、洗いません。
第1場
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おもろないんじゃ。咲真は隣の席に誰も座っていないのをいいことに、低く舌打ちした。思い出し笑いならぬ思い出しギレとは、自分でも焼きが回っていると思うが、楽しみにしていた帰省を最後に台無しにされたのだから仕方がない。車窓から東京のビル群が見えてきても、咲真はまだ苛々していた。
こういう時は。咲真は23年間生きてきて、自分なりにストレス解消方法を体得しているつもりである。まだ16時なので、時間はたっぷりとあった。ワインのフルボトルを1本空ける、1人カラオケで2時間歌う、お気に入りのエロVを3本続けて観る。いや、それよりも効果的なもやもや発散の手段がある。
根津の駅前の自分の寝ぐらに一旦戻り、洗濯物や母から持たされた食料品をキャリーケースから出すと、咲真は楽譜と財布、それにスマートフォンを通学用の鞄に入れた。そして、太陽が傾いてきたことを確認しつつ、自転車のチェーンを外す。
上野にあるキャンパスは、美術学部と音楽学部でざっくりと敷地が分かれている。美術学部生はうろうろしているのに、音楽学部の敷地内は静かだった。皆金持ちだから優雅にゴールデンウィークをエンジョイしているのだろう、というのは咲真の偏見だが、個人練習に使える小部屋が並ぶ棟に向かうと、普段では考えられないほど、空き部屋だらけである。まあ、時間も時間だから。
咲真は何となく気に入っている部屋を選んで、防音扉を開けた。隣の部屋は使われている。静かなので、木管楽器か声楽の学生がいると思われた。防音は100パーセントでは無く、他人の音に対しそんなに神経質ではない咲真だが、ピアノや低音の金管楽器が隣でないのはありがたかった。
ピアノの鍵盤蓋を開けて、無意味に屋根を全開にした。椅子に腰を下ろすと、習慣になっているアルペジオをざっと鳴らす。そしてまず弾いたのは、おそらくピアノに触ったことのある人なら一度は弾いている名曲、「ねこふんじゃった」だった。
ほんまムカつくわ、お前らみたいに音楽の道を捨てた奴らに言われたないわ。
思いながら大音量で3回繰り返すと、少し落ち着いた。次はブルグミュラーだ。小学生になってピアノを習い始め、2年生の秋に与えられたこの曲集が、咲真は大好きである。初めて大人っぽい表紙の冊子を先生から手渡された時の感激を、今もよく覚えている。25の練習曲を咲真は全て暗譜していて、そのうち7曲ほどを弾き終える頃には、重苦しい雲もほぼ晴れる。
はぁ、調子出てきたな。咲真は悦に入りながら、ブルグミュラーの12番「別れ」の最後の和音を鳴らしたが、その時ふと違和感を覚えた。その感覚の出所は、直ぐに発覚する。部屋の扉が開けっぱなしで、そこから見知らぬ男がこちらを覗きこんでいた。
おわぁ! という言葉になり切らない音が、咲真の声帯から勝手に出た。ピアノ専攻の身で子どもが弾く曲を外に洩らすという失態と、誰もいないと信じている場所に人の姿を見たことで、心臓がきゅっとなる。
「ああっ、ごめんなさい! 閉めます!」
先に謝ったのは、覗いていた男だった。いい声やな、と感じると同時に、申し訳ないと咄嗟に思った咲真は、椅子から立ち上がって、小走りで扉に向かう。閉まりかかった重い扉をぐっと押さえて、向こう側にいる人間に言った。
「こっちこそごめん、しょうもない曲バンバン鳴らしてうるさかったやろ、悪い」
「いえ、トイレに行こうとしたら良い音が聴こえたのでつい……」
ちょっと褒められたので、咲真は相手の顔を見たくなった。首を出すと、そこにいたのは咲真より少し背の低い、おぼこい雰囲気の男性だった。やや田舎くさいのだが、きれいな形の目と濃い色の澄んだ瞳が印象的だ。
「えっと、どこの子?」
「声楽専攻の子です」
えっ。咲真は思わず上半身を引いた。学部生ちゃうんか。年上だとまずいので、標準語および敬語に切り替える。
「大変失礼しました、お騒がせしました」
扉の外に出てぺこりと頭を下げると、いやいやいや、とおぼこい男子が焦ったように言った。
「こちらこそ練習の邪魔をしてごめんなさい、失礼しました」
彼は困惑気味の笑顔で会釈しながら、トイレの方向に去って行った。咲真はその背中を見送り、確かに歌手だと思った。ぱっと見では気づかないのだが、腰の辺りがどっしりしている。正しい訓練を受けている歌い手は、肋骨から下に響きの源のようなものを備えているのだ。声楽の伴奏をする時、舞台で彼らを背後から支える咲真は、それを知っていた。
声楽専攻のおぼこい男子に毒気を抜かれた咲真は、その後極めて真面目に練習した。実家のピアノがしっかり調律されておらず、ここ数日微妙な不快感を抱きながら弾く羽目になっただけに、練習室のこなれたグランドピアノの音や鍵盤の重さが心地良い。それで集中して弾くことができた。
2時間後に咲真は練習室を出た。明日は夕方から少しアルバイトがあるが、それまで自宅でゆっくりして、明後日から始まる授業に備えようと思う。
隣の部屋ももう空いている。あいつ、隣で練習してたんかな。咲真は、あのおぼこい男子の人の良さそうな顔を何となく思い浮かべながら建物を出た。外はすっかり夜になって、空には星が浮かんでいた。
こういう時は。咲真は23年間生きてきて、自分なりにストレス解消方法を体得しているつもりである。まだ16時なので、時間はたっぷりとあった。ワインのフルボトルを1本空ける、1人カラオケで2時間歌う、お気に入りのエロVを3本続けて観る。いや、それよりも効果的なもやもや発散の手段がある。
根津の駅前の自分の寝ぐらに一旦戻り、洗濯物や母から持たされた食料品をキャリーケースから出すと、咲真は楽譜と財布、それにスマートフォンを通学用の鞄に入れた。そして、太陽が傾いてきたことを確認しつつ、自転車のチェーンを外す。
上野にあるキャンパスは、美術学部と音楽学部でざっくりと敷地が分かれている。美術学部生はうろうろしているのに、音楽学部の敷地内は静かだった。皆金持ちだから優雅にゴールデンウィークをエンジョイしているのだろう、というのは咲真の偏見だが、個人練習に使える小部屋が並ぶ棟に向かうと、普段では考えられないほど、空き部屋だらけである。まあ、時間も時間だから。
咲真は何となく気に入っている部屋を選んで、防音扉を開けた。隣の部屋は使われている。静かなので、木管楽器か声楽の学生がいると思われた。防音は100パーセントでは無く、他人の音に対しそんなに神経質ではない咲真だが、ピアノや低音の金管楽器が隣でないのはありがたかった。
ピアノの鍵盤蓋を開けて、無意味に屋根を全開にした。椅子に腰を下ろすと、習慣になっているアルペジオをざっと鳴らす。そしてまず弾いたのは、おそらくピアノに触ったことのある人なら一度は弾いている名曲、「ねこふんじゃった」だった。
ほんまムカつくわ、お前らみたいに音楽の道を捨てた奴らに言われたないわ。
思いながら大音量で3回繰り返すと、少し落ち着いた。次はブルグミュラーだ。小学生になってピアノを習い始め、2年生の秋に与えられたこの曲集が、咲真は大好きである。初めて大人っぽい表紙の冊子を先生から手渡された時の感激を、今もよく覚えている。25の練習曲を咲真は全て暗譜していて、そのうち7曲ほどを弾き終える頃には、重苦しい雲もほぼ晴れる。
はぁ、調子出てきたな。咲真は悦に入りながら、ブルグミュラーの12番「別れ」の最後の和音を鳴らしたが、その時ふと違和感を覚えた。その感覚の出所は、直ぐに発覚する。部屋の扉が開けっぱなしで、そこから見知らぬ男がこちらを覗きこんでいた。
おわぁ! という言葉になり切らない音が、咲真の声帯から勝手に出た。ピアノ専攻の身で子どもが弾く曲を外に洩らすという失態と、誰もいないと信じている場所に人の姿を見たことで、心臓がきゅっとなる。
「ああっ、ごめんなさい! 閉めます!」
先に謝ったのは、覗いていた男だった。いい声やな、と感じると同時に、申し訳ないと咄嗟に思った咲真は、椅子から立ち上がって、小走りで扉に向かう。閉まりかかった重い扉をぐっと押さえて、向こう側にいる人間に言った。
「こっちこそごめん、しょうもない曲バンバン鳴らしてうるさかったやろ、悪い」
「いえ、トイレに行こうとしたら良い音が聴こえたのでつい……」
ちょっと褒められたので、咲真は相手の顔を見たくなった。首を出すと、そこにいたのは咲真より少し背の低い、おぼこい雰囲気の男性だった。やや田舎くさいのだが、きれいな形の目と濃い色の澄んだ瞳が印象的だ。
「えっと、どこの子?」
「声楽専攻の子です」
えっ。咲真は思わず上半身を引いた。学部生ちゃうんか。年上だとまずいので、標準語および敬語に切り替える。
「大変失礼しました、お騒がせしました」
扉の外に出てぺこりと頭を下げると、いやいやいや、とおぼこい男子が焦ったように言った。
「こちらこそ練習の邪魔をしてごめんなさい、失礼しました」
彼は困惑気味の笑顔で会釈しながら、トイレの方向に去って行った。咲真はその背中を見送り、確かに歌手だと思った。ぱっと見では気づかないのだが、腰の辺りがどっしりしている。正しい訓練を受けている歌い手は、肋骨から下に響きの源のようなものを備えているのだ。声楽の伴奏をする時、舞台で彼らを背後から支える咲真は、それを知っていた。
声楽専攻のおぼこい男子に毒気を抜かれた咲真は、その後極めて真面目に練習した。実家のピアノがしっかり調律されておらず、ここ数日微妙な不快感を抱きながら弾く羽目になっただけに、練習室のこなれたグランドピアノの音や鍵盤の重さが心地良い。それで集中して弾くことができた。
2時間後に咲真は練習室を出た。明日は夕方から少しアルバイトがあるが、それまで自宅でゆっくりして、明後日から始まる授業に備えようと思う。
隣の部屋ももう空いている。あいつ、隣で練習してたんかな。咲真は、あのおぼこい男子の人の良さそうな顔を何となく思い浮かべながら建物を出た。外はすっかり夜になって、空には星が浮かんでいた。
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