彼はオタサーの姫

穂祥 舞

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第2幕/ふたつ隣の部屋

第4場

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 体調を立て直した片山は、ゴールデンウィークに無事札幌へ帰省し、亮太も3泊4日を横浜で過ごした。実家に帰っても、もうかつてのように家事に追われることはない。高校生になった妹と弟が、2人で母を手伝うようになったからだ。おかげで亮太は、上げ膳据え膳でのんびりと過ごすことができた。
 亮太が京浜東北線とメトロを乗り継いでコラール千駄木の自室に戻ると、いきなりスマートフォンがジーンズのポケットの中で震えた。近々池袋のライブハウスで共演する、柳瀬医院のヴァイオリンを弾く令嬢からのメッセージだった。ざっと目を通して、思わずえっ、と声が出た。
 亮太がほぼ正メンバーとして演奏活動をしているバンド、「ブラッドオレンジ」のヴォーカルが、原付バイクで自損事故を起こしたという。
 やれやれ、またか、と亮太は独り溜め息をついた。柳瀬は、東京に帰ってきているのなら、少し時間を取れないかと書いてきた。まだ世の中は休日で、亮太の今夜のアルバイトは20時からなので、その前に柳瀬と、バンドのリーダーであるドラムの芳村よしむらと会うことになった。
 ブラッドオレンジは芸大生と芸大卒の人間で構成されているバンドで、ジャズとポップスを演奏している。亮太はくだんのヴォーカルに誘われて参加するようになった。現在は、アルトサックスのプレイヤーと交代で本番に出演している。
 1時間後、駅前のドマスに集合した。今日は片山は働いていないが、できあがったドーナツをショーケースに入れる男性従業員を見ながら、彼もあんな風に働いているのだなと亮太は思う。

「鞭打ちになったんだって」

 ラフな格好でほぼすっぴんの柳瀬は、言って肩をすくめた。ヴォーカルの天崎あまさき伸朗のぶろうがバイクで事故るのは、亮太が知る限り2回目だ。それでなくても昨年秋辺りから、練習への遅刻や本番の衣装を忘れるなど、天崎の行動に気の緩みのようなものが目立つようになり、最近芳村は明らかに不快感を示していた。

「もう伸朗、外そうか」

 亮太が予想していた言葉が、芳村の口から遂に出る。その前に、と柳瀬が割りこんだ。

「再来週のライブどうする? 首をサポーターで固めてるらしいの、歌えないよね」

 その日のセトリは、7曲中4曲に歌が入っていた。

「1曲リクエストあったじゃん、今から歌える人見つかるかな」
「ああ、そうだったな」

 そのリクエスト曲が少し厄介だった。バッハのアリア、「ビスト・ドゥ・バイ・ミア」。会場である池袋のライブハウスの常連客で、クラシックをジャズにアレンジして演奏するブラッドオレンジを気に入り、贔屓にしてくれている女性からのリクエストだった。一緒にライブハウスに来ていたご主人が昨年の春に病気で亡くなったのだが、1周忌を済ませて、夫人だけで顔を出すようになった。
 声楽科卒のテノールである天崎でないと、歌えない歌だ。その夫人は、自分も死んだ夫も好きな曲だからとリクエストをしてきたので、いい加減な扱いはできない。重い空気が場に流れ始めた時、あっ、と柳瀬が小さく叫んだ。

「亮太くん、ゴールデンウィーク前にうちの医院に来た日常系素朴男子はどうよ? きみに紹介されて来たって言ってたけど、声楽専攻なんだよね?」
「は? 誰……」

 亮太は訊きかけて、直ぐに理解した。片山のことか。彼は亮太に世話を焼かれた翌日、熱は下がったものの喉の痛みが残ったので、柳瀬医院で診察を受けていた。それにしても、患者の情報をこんな場所で漏らすこの令嬢は、どうなのだ。

「あいつバリトンですよ」

 亮太はやむを得ず、片山の個人情報を漏らした。

「移調したらいいんじゃないか? まあどんな歌が得意かにもよるけど」

 芳村の言葉に、亮太は日常系素朴男子の顔を思い浮かべていた。ドイツ歌曲を歌うってちらっと聞いたな。バロックはどうなんだろうか。

「……今夜北海道から帰ってきます、訊いてみましょうか」

 亮太が言うと、柳瀬は笑顔になり頷いた。

「『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』も頼んでみてよ、インストに変更するの2曲で済むわ」
「了解です」

 セトリは片山の返事待ちということになり、話題は天崎の今後の扱いに戻る。
 芳村は、もう天崎と一緒にる気は無いとはっきり言った。亮太は、もし天崎にもう歌わなくていいと伝えたとしても、彼がそれをすんなり受け入れそうな気がした。そう思わせるほどには、天崎は最近やる気が無い。女性受けする容姿なので人気もあるのだが、本番に穴をあけることなどが続き、ファンの気持ちも離れつつあるように思える。

「で、誰が話すのよ」

 柳瀬はうんざりしたように言った。普段天崎と一番連絡を取り合っているのは彼女だが、そんな話はしたくないだろう。亮太は、意を決する。

「俺が話します、伸朗さんに誘ってもらったんで」

 芳村と柳瀬に異議は無いようだった。3人のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
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