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第2幕/ふたつ隣の部屋
第2場①
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自営業の家に生まれ育ち、公立高校の吹奏楽部でクラリネットを吹き始めた亮太にとって、飛び込んだ芸大や音楽学部は異世界に近かった。その思いは学部の卒業式を済ませた今でもあまり変わらない。楽器を手に演奏すれば皆対等だが、高価な楽器を持ちメンテナンス費用を惜しまず、いつも良いものを着て、生活のために食費や交通費を節約するという観念が無い人が多いと感じる。
学部に入学当初はその雰囲気に引け目を感じていたが、高い倍率を勝ち抜いて返済不要の大学の奨学金を獲得した時、変な開き直りが訪れた。金持ちでなくでも、その気になれば音楽をやっていけるのだ。
亮太の横浜の実家は、ベーカリーショップである。父ともう1人の職人がパンを焼き、母と1人のパートタイマーで梱包・販売している。両親は毎日笑顔で店に出て、今や知る人ぞ知る名店のおしどり夫婦経営者の地位を築きつつある。
早朝から働く両親に代わり、双子の妹と弟の面倒を見てきた亮太は、いつしか家事全般をこなせるようになった。
吹奏楽部に入部し、どうも音楽の才能が少々あるらしいとわかった時、亮太自身は戸惑った。妹と弟はまだ小学生で、家のこともしなくてはいけないし、我が家の収入で芸術系の大学になど行かせてもらえる訳がない。諦めるべきだという思いとはうらはらに、もっとクラリネットを吹きたいという渇望がこんこんと湧き出し、亮太はそれを押し込めようとした。しかし長男の煩悶に気づいた両親は、やりたいことを存分にやってみたらいいと、背中を押してくれたのだった。
家族と高校(亮太の母校には普通科しか無く、国公立の芸大に現役合格した卒業生はいなかった)の期待に応えて音楽学部に合格した亮太は、男は家庭を持つ前に一度家を出たほうがいいという父の意見に従い、自分が生まれ育った横浜の下町と似た雰囲気の千駄木で一人暮らしを始めた。自分のことだけを考えて過ごすことが許された学生生活は、亮太の身体の深い場所で半分覚醒していた何かを、一気に解放した。演奏技術がぐんと伸び、ソリストとしての表現力がついてくると、複数のコンクールで上位に食い込むことができた。
院生である間に、もう一度大きなコンクールで賞を獲り、デビューしたい。その上で将来、横浜を本拠地とするオーケストラに籍を置くことができれば、実家に帰ることも視野に入れられる。店との折り合いをつけ、亮太の舞台を横浜から観に来てくれる両親のために、亮太は早く職業音楽家になりたいと考えていた。
亮太が暮らす「コラール千駄木」は、大学が入居を斡旋する、音楽系学生専用マンションである。但し築年数が古くてエレベーターが無い上、部屋が完全防音ではないため、ピアノや大きな楽器の奏者は入居できない。そんな訳でここには自然と、木管楽器と小型弦楽器奏者、それに歌手が集まっていた。
大っぴらにされていないが、最上階の4階はレディースフロアである。これはセキュリティ上の配慮で、最上階に住む女子学生が部屋に男を呼ぶなどすると、防犯カメラを見た大家が、不審者が出たと言いながら乗りこんでくる。そういう光景も面白いので、亮太はこの古いマンションが好きだ。
学部に入学当初はその雰囲気に引け目を感じていたが、高い倍率を勝ち抜いて返済不要の大学の奨学金を獲得した時、変な開き直りが訪れた。金持ちでなくでも、その気になれば音楽をやっていけるのだ。
亮太の横浜の実家は、ベーカリーショップである。父ともう1人の職人がパンを焼き、母と1人のパートタイマーで梱包・販売している。両親は毎日笑顔で店に出て、今や知る人ぞ知る名店のおしどり夫婦経営者の地位を築きつつある。
早朝から働く両親に代わり、双子の妹と弟の面倒を見てきた亮太は、いつしか家事全般をこなせるようになった。
吹奏楽部に入部し、どうも音楽の才能が少々あるらしいとわかった時、亮太自身は戸惑った。妹と弟はまだ小学生で、家のこともしなくてはいけないし、我が家の収入で芸術系の大学になど行かせてもらえる訳がない。諦めるべきだという思いとはうらはらに、もっとクラリネットを吹きたいという渇望がこんこんと湧き出し、亮太はそれを押し込めようとした。しかし長男の煩悶に気づいた両親は、やりたいことを存分にやってみたらいいと、背中を押してくれたのだった。
家族と高校(亮太の母校には普通科しか無く、国公立の芸大に現役合格した卒業生はいなかった)の期待に応えて音楽学部に合格した亮太は、男は家庭を持つ前に一度家を出たほうがいいという父の意見に従い、自分が生まれ育った横浜の下町と似た雰囲気の千駄木で一人暮らしを始めた。自分のことだけを考えて過ごすことが許された学生生活は、亮太の身体の深い場所で半分覚醒していた何かを、一気に解放した。演奏技術がぐんと伸び、ソリストとしての表現力がついてくると、複数のコンクールで上位に食い込むことができた。
院生である間に、もう一度大きなコンクールで賞を獲り、デビューしたい。その上で将来、横浜を本拠地とするオーケストラに籍を置くことができれば、実家に帰ることも視野に入れられる。店との折り合いをつけ、亮太の舞台を横浜から観に来てくれる両親のために、亮太は早く職業音楽家になりたいと考えていた。
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