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第1幕/甘く匂う蓮
第3場②
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蓮は香り、泣いて震える、愛とそれに伴う痛みのために。歌が最後の部分に入り音が上昇すると、歌詞に合わせたように香りが強くなり、上質な蜂蜜の匂いが混じってきた。甘いバリトンに、一樹の脳内が官能を帯びた甘さでじわじわと満たされてゆく。
何なんだこれ。
鼓動が速まり、強くなったことを一樹は自覚する。それは少し、セックスをしている時の昂りに似ているように思えた。
この人の歌、ヤバくないか? こんなシューマン、聴いたことないぞ。
片山は歌に集中しているが、楽しそうに楽譜ではない何かを見ているようだった。彼の視界には、夜に次々と花開いて香りを放つ蓮の花が映っているのかもしれなかった。
一樹は不意に、個人指導を受けている東京の先生の言葉を思い出す。これはシューマンが妻となるクララに贈った曲だってことを、もっと感じて歌えるといいね。……それってつまり、こういうことなのか。月の光に目を覚まし、愛情を月に手向けるたおやかな花の姿は、シューマン自身、あるいはシューマンがクララから受けた官能混じりのインスピレーション。
後奏が静かに終わると、一樹は息を止めて片山の歌に聴き入っていたことに気づいた。とにかく酸素を取り込み、嗅覚と脳内に充満した蓮の香りを和らげる。
「すみません、つい最後まで歌っちゃいました」
片山はそう言って笑った。同世代の同性にこんな気持ちになるのは初めてだったが、彼は何やらチャーミングだった。それで一樹はとっさに言葉が出ず、どもり気味になってしまう。
「あっ、いえ、その、ありがとうございます、素敵でした」
「そうですか? こちらこそありがとうございます」
これだけ歌えるなら、賛辞など聞き飽きているかもしれないのに、片山は嬉しそうににこにこしている。あんなエロい歌いかたをするのに、可愛いひとだな、と思う。一樹はピアノの椅子に座る、蠱惑的な匂いのする声のバリトン歌手に一歩近づいた。
「あのですね、片山さん」
「はい?」
「これから変なことを言いますけど、信じられないとか理解不能とかだったらスルーしてください」
片山は一樹の言葉にきょとんとしたが、聞くつもりでいる様子だった。何を言うんだ、ともう一人の自分が警告するので一樹は焦ったが、どうしても伝えたくなってしまった。それはほとんど衝動だった。
「俺、音を聴くと匂いがするんです……今、蓮の花の香りがしました、蓮ってちょっと独特な匂いがするんですけど、いい香りで、俺は好きなんです」
片山は少し一樹の言葉の意味について考えたようだったが、その表情に違和感や不快感は一切浮かべず、へぇ、と感心したような声をあげた。
「音楽に色がついて見えるっていうのは聞いたことあるけど、匂いがするんだ」
「あ、はい、仕組みとしては似たようなものじゃないかと思います」
とりあえず受け入れてもらえたようなので、一樹の胸に想像以上の安堵が訪れる。すると片山は、今まで一樹が受けたことのないような質問を口にした。
「じゃあ、深田さんの歌はどんな匂いがするんですか?」
「それは……」
一樹は返事に困る。これも不思議なことなのだが、自分が歌っている時には、何の匂いもしない。そのことに気づいたのは、受験のために個人指導を受け始めた時だった。
「……何も匂わないです、残念ながら」
正直に答えると、片山はきれいな形の目を2度しばたたかせた。そして3秒ほど何かを考えてから、おもむろに歌い出した。
「I fior ch’ io faccio, ahime, non hanno odore……」
プッチーニのオペラ、「ラ・ボエーム」の第1幕で、ヒロインのミミが歌う有名なアリアの最後の部分だった。彼女は初めて出会ったロドルフォに、自分は春が大好きで、4月の太陽の光や咲き始める花の香りを待ちわびるのだと自己紹介する。けれど、と彼女は残念そうに続けるのだ。私が作っている花には、香りが無いんです。
片山はこのソプラノの歌を1オクターブ下げて3小節口ずさんだだけで、ミミの悲しみをさらりと醸し出してみせたが、やはりその声は一樹に淡い甘味を感じさせた。
「ごめんなさい、今深田さん何だか寂しそうで、この歌思い出しました……どうなんですかね、自分の声って聴覚で正確に捉えられないから、嗅覚が反応しないのかもしれないですね」
「あ、なるほど」
片山は、寂しそうに見えた一樹を慰めようとしてくれたのかもしれない。もしそうだとしたら、その声と同じように、優しい人だと一樹は思った。
何なんだこれ。
鼓動が速まり、強くなったことを一樹は自覚する。それは少し、セックスをしている時の昂りに似ているように思えた。
この人の歌、ヤバくないか? こんなシューマン、聴いたことないぞ。
片山は歌に集中しているが、楽しそうに楽譜ではない何かを見ているようだった。彼の視界には、夜に次々と花開いて香りを放つ蓮の花が映っているのかもしれなかった。
一樹は不意に、個人指導を受けている東京の先生の言葉を思い出す。これはシューマンが妻となるクララに贈った曲だってことを、もっと感じて歌えるといいね。……それってつまり、こういうことなのか。月の光に目を覚まし、愛情を月に手向けるたおやかな花の姿は、シューマン自身、あるいはシューマンがクララから受けた官能混じりのインスピレーション。
後奏が静かに終わると、一樹は息を止めて片山の歌に聴き入っていたことに気づいた。とにかく酸素を取り込み、嗅覚と脳内に充満した蓮の香りを和らげる。
「すみません、つい最後まで歌っちゃいました」
片山はそう言って笑った。同世代の同性にこんな気持ちになるのは初めてだったが、彼は何やらチャーミングだった。それで一樹はとっさに言葉が出ず、どもり気味になってしまう。
「あっ、いえ、その、ありがとうございます、素敵でした」
「そうですか? こちらこそありがとうございます」
これだけ歌えるなら、賛辞など聞き飽きているかもしれないのに、片山は嬉しそうににこにこしている。あんなエロい歌いかたをするのに、可愛いひとだな、と思う。一樹はピアノの椅子に座る、蠱惑的な匂いのする声のバリトン歌手に一歩近づいた。
「あのですね、片山さん」
「はい?」
「これから変なことを言いますけど、信じられないとか理解不能とかだったらスルーしてください」
片山は一樹の言葉にきょとんとしたが、聞くつもりでいる様子だった。何を言うんだ、ともう一人の自分が警告するので一樹は焦ったが、どうしても伝えたくなってしまった。それはほとんど衝動だった。
「俺、音を聴くと匂いがするんです……今、蓮の花の香りがしました、蓮ってちょっと独特な匂いがするんですけど、いい香りで、俺は好きなんです」
片山は少し一樹の言葉の意味について考えたようだったが、その表情に違和感や不快感は一切浮かべず、へぇ、と感心したような声をあげた。
「音楽に色がついて見えるっていうのは聞いたことあるけど、匂いがするんだ」
「あ、はい、仕組みとしては似たようなものじゃないかと思います」
とりあえず受け入れてもらえたようなので、一樹の胸に想像以上の安堵が訪れる。すると片山は、今まで一樹が受けたことのないような質問を口にした。
「じゃあ、深田さんの歌はどんな匂いがするんですか?」
「それは……」
一樹は返事に困る。これも不思議なことなのだが、自分が歌っている時には、何の匂いもしない。そのことに気づいたのは、受験のために個人指導を受け始めた時だった。
「……何も匂わないです、残念ながら」
正直に答えると、片山はきれいな形の目を2度しばたたかせた。そして3秒ほど何かを考えてから、おもむろに歌い出した。
「I fior ch’ io faccio, ahime, non hanno odore……」
プッチーニのオペラ、「ラ・ボエーム」の第1幕で、ヒロインのミミが歌う有名なアリアの最後の部分だった。彼女は初めて出会ったロドルフォに、自分は春が大好きで、4月の太陽の光や咲き始める花の香りを待ちわびるのだと自己紹介する。けれど、と彼女は残念そうに続けるのだ。私が作っている花には、香りが無いんです。
片山はこのソプラノの歌を1オクターブ下げて3小節口ずさんだだけで、ミミの悲しみをさらりと醸し出してみせたが、やはりその声は一樹に淡い甘味を感じさせた。
「ごめんなさい、今深田さん何だか寂しそうで、この歌思い出しました……どうなんですかね、自分の声って聴覚で正確に捉えられないから、嗅覚が反応しないのかもしれないですね」
「あ、なるほど」
片山は、寂しそうに見えた一樹を慰めようとしてくれたのかもしれない。もしそうだとしたら、その声と同じように、優しい人だと一樹は思った。
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