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8.文化祭
9月第2週 土曜日①
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文化祭2日目は、昨日に引き続き、見事なくらいの晴天だった。部屋のカーテンを開けて、思いきり伸びをする。少し緊張してなかなか寝つけなかった遥大だが、いつもの時間に顔を洗い、サラの散歩に行き、しっかり朝ご飯を口にした。
今日は父と母が、そして妹は高校の友人たちを連れて、展示と演劇を観に来る予定だ。母が高校のホームページを見てしまったので、遥大がジュリエットを演じることは家族にバレている。しかし兄以外は興味をそそられたらしく、湖南高校の文化祭に父が初めて足を運ぶことになった。
木野に命じられた通り、昨夜風呂で脚と腕とわきの毛を剃った。妹がボディミルクを貸してくれたので、言われるがままに肌にすり込んだ。顔や髪の手入れまで指導されて、女装する自分に家族が何やら協力的なことが、逆に遥大は怖い。
家族とサラに見送られて自宅を出た遥大は、まだ威力を緩めない太陽の光を街路樹の陰で避けつつ、駅に向かう。土曜日の8時前なので人が少なくて歩きやすく、電車も空いていた。
高校の門にかかる「湖南祭」アーチをくぐると、並ぶ模擬店のテントでは、首にタオルを掛け、クラスごとにお揃いのTシャツを着た2年生たちがもう仕込みを始めている。30分もしない間に暑くなるだろうから、どの組のテントでも扇風機が回っていた。昨今のこの時期の暑さを鑑みて、模擬店を校舎内に置いたほうがいいのではないかという話が出ているので、この光景を見るのは今年が最後になるかもしれなかった。
3-Aの教室には、まだ誰も来ていなかった。これもいつも通りで、遥大はほぼ毎日、クラスで1番に登校するのだ。午前中が出番となるクラスの廊下から、大道具を運び出す賑やかな声が聞こえていたが、それはまだ遥大を焦らせたり緊張させたりするものではなかった。
教室の中はもうエアコンがついていたが、暑さ対策にカーテンを引く。机の上に鞄を置くと、教室の後ろの扉から誰か入ってきた。明るい声が響く。
「おはよう、前に歩いてんの見えてたけど、足速いから追いかけんのやめた」
笑顔で言いながらこちらに来る嶋田を視界に入れ、こいつと必死こいて芝居するのも、今日が最後やなと少ししみじみとしてしまう。
「おはよう、調子どうよ」
遥大が訊くと、いいで、と彼は答えた。
「音楽の本番以外でテンション合わせるの初めてやけど、一緒に舞台上がる人数がこんな多いの初めてやし、ちょっとだけ緊張するわ」
「人数多いほうが緊張するんか」
遥大の問いに、そや、と嶋田は答えた。
「おかんが言うんやけど、ソロのコンサートよりオペラのほうが断然重圧大きいし、幕が下りる瞬間まで気が抜けへんって……俺は1人とか少人数で好き勝手に弾いてきたから、思わぬ場所でそれを思い知ってる感じ」
へぇ、と遥大は感心する。この飄々とした息子も、あの堂々とした母親も、そんな場所で生きているのだとあらためて思った。
これまで知らなかった世界を見せてくれた嶋田には、感謝とも畏怖ともつかぬ気持ちを、ずっと抱いてきた。紆余曲折の上で同じ舞台に立つことになって、引き摺られる形で今日を迎え、こういう世界が恐ろしいと同時に、ある種の快感をもたらす瞬間があることを、学ばせてもらったと思う。
「嶋田はもちろんやけど、お母さんにもほんま感謝してる……スカートも靴もきれいにして返すからな」
遥大が言うと、嶋田は苦笑を浮かべた。
「そういう言葉はまだ早い、幕下りてからな……今日おかんが友達と観に来るで、楽しみにしてるって」
「そうなんか、うちも両親来るんやわ」
「おお、頑張ろ頑張ろ」
言い合いながら、来客の数なんか数えないほうがいいと、遥大は軽く息をついた。
「なぁ平池」
鞄の中のコンタクトケースや汗拭きシートを確認する遥大に、嶋田が静かに話しかけてきた。
「これ終わっても、俺と遊んでくれる?」
その声がちょっとだけ、寂しそうに聞こえた。変なこと訊くなぁと遥大は思う。
今日は父と母が、そして妹は高校の友人たちを連れて、展示と演劇を観に来る予定だ。母が高校のホームページを見てしまったので、遥大がジュリエットを演じることは家族にバレている。しかし兄以外は興味をそそられたらしく、湖南高校の文化祭に父が初めて足を運ぶことになった。
木野に命じられた通り、昨夜風呂で脚と腕とわきの毛を剃った。妹がボディミルクを貸してくれたので、言われるがままに肌にすり込んだ。顔や髪の手入れまで指導されて、女装する自分に家族が何やら協力的なことが、逆に遥大は怖い。
家族とサラに見送られて自宅を出た遥大は、まだ威力を緩めない太陽の光を街路樹の陰で避けつつ、駅に向かう。土曜日の8時前なので人が少なくて歩きやすく、電車も空いていた。
高校の門にかかる「湖南祭」アーチをくぐると、並ぶ模擬店のテントでは、首にタオルを掛け、クラスごとにお揃いのTシャツを着た2年生たちがもう仕込みを始めている。30分もしない間に暑くなるだろうから、どの組のテントでも扇風機が回っていた。昨今のこの時期の暑さを鑑みて、模擬店を校舎内に置いたほうがいいのではないかという話が出ているので、この光景を見るのは今年が最後になるかもしれなかった。
3-Aの教室には、まだ誰も来ていなかった。これもいつも通りで、遥大はほぼ毎日、クラスで1番に登校するのだ。午前中が出番となるクラスの廊下から、大道具を運び出す賑やかな声が聞こえていたが、それはまだ遥大を焦らせたり緊張させたりするものではなかった。
教室の中はもうエアコンがついていたが、暑さ対策にカーテンを引く。机の上に鞄を置くと、教室の後ろの扉から誰か入ってきた。明るい声が響く。
「おはよう、前に歩いてんの見えてたけど、足速いから追いかけんのやめた」
笑顔で言いながらこちらに来る嶋田を視界に入れ、こいつと必死こいて芝居するのも、今日が最後やなと少ししみじみとしてしまう。
「おはよう、調子どうよ」
遥大が訊くと、いいで、と彼は答えた。
「音楽の本番以外でテンション合わせるの初めてやけど、一緒に舞台上がる人数がこんな多いの初めてやし、ちょっとだけ緊張するわ」
「人数多いほうが緊張するんか」
遥大の問いに、そや、と嶋田は答えた。
「おかんが言うんやけど、ソロのコンサートよりオペラのほうが断然重圧大きいし、幕が下りる瞬間まで気が抜けへんって……俺は1人とか少人数で好き勝手に弾いてきたから、思わぬ場所でそれを思い知ってる感じ」
へぇ、と遥大は感心する。この飄々とした息子も、あの堂々とした母親も、そんな場所で生きているのだとあらためて思った。
これまで知らなかった世界を見せてくれた嶋田には、感謝とも畏怖ともつかぬ気持ちを、ずっと抱いてきた。紆余曲折の上で同じ舞台に立つことになって、引き摺られる形で今日を迎え、こういう世界が恐ろしいと同時に、ある種の快感をもたらす瞬間があることを、学ばせてもらったと思う。
「嶋田はもちろんやけど、お母さんにもほんま感謝してる……スカートも靴もきれいにして返すからな」
遥大が言うと、嶋田は苦笑を浮かべた。
「そういう言葉はまだ早い、幕下りてからな……今日おかんが友達と観に来るで、楽しみにしてるって」
「そうなんか、うちも両親来るんやわ」
「おお、頑張ろ頑張ろ」
言い合いながら、来客の数なんか数えないほうがいいと、遥大は軽く息をついた。
「なぁ平池」
鞄の中のコンタクトケースや汗拭きシートを確認する遥大に、嶋田が静かに話しかけてきた。
「これ終わっても、俺と遊んでくれる?」
その声がちょっとだけ、寂しそうに聞こえた。変なこと訊くなぁと遥大は思う。
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