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第二章

82話 悲しい場所

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「義兄さん。ここにはもう来ないでください」

 ルッツは、目の前の男を見た。
 ダニエルによく似ているが、その何倍も硬質な雰囲気で、表情も読めない。
 愛する妻を亡くした後、彼は色々なものを失ってしまった。そのことを悲しんでいるかどうかは、ルッツにはよく分からない。

「どうしてだい?」
「必要ないからです」
「たまには義弟の顔を見に来てもいいだろう?」
「本気で言ってるんですか?」
「本気さ。ラーラが心配している。ちゃんと食べてるのかって」

 ラーラの名前を出した時だけ、表情が困ったように緩んだ。
 しかし、それは一瞬のことで、すぐに無表情に戻ってしまう。

「姉上には、大丈夫だと伝えてください」
「分かったよ。他には?」
「ありません」
「…あの子のことは聞かないのか?」

 義弟は目を伏せた後、聞く資格ありませんから、と答えた。

「私は、妻を亡くした悲しみが大き過ぎて、子どもたちに目をやることができなかった。特にあの子を見ると、どうしても妻を思い出してしまう。きつく当たってしまいそうで距離を置いた結果、あんなことになってしまいました」

 淡々と紡がれる言葉を聞きながら、ルッツは当時のことを思い出す。
 あの子を引き取って欲しいと懇願された時には驚いた。
 自分の元にいると不幸になってしまうからと。
 あの時の義弟には、手放すという選択肢しかなかったのだろう。

「変な女と再婚するからだ。別れて正解だったよ」

 愛する妻を亡くした後、すぐに後妻を迎えた理由を、ルッツは知らない。
 義弟が理由を語らなかったからだ。
 別れた時も同じで、事実を報告されただけだった。
 この男は、慰めの言葉を必要とせず、自分が全て悪いのだと言う。
 それは投げやりのようにも見えるし、世界を完全に拒絶しているようにも感じた。

「彼女には、中途半端なことをして申し訳なかったと思っています。妻を忘れることができず、彼女の愛を拒絶してしまった。結果、彼女と子どもたちに辛い思いをさせてしまいました」

 だから、今の状況は当然なのだと。
 罪を償う罪人のように、粛々と日々を過ごす。
 生きながら死んでいるようだ。

「義兄さん。心配せずとも、ちゃんと借りたお金は毎月返済します。子どもたちは皆、養子に出してしまいましたし、私一人食べていくだけです。必ず完済しますから。本当はこの屋敷を手放すのが、一番早いんでしょうけど」
「大切な物は一つくらい残しておきなさい」

 ここは、愛する妻や子どもたちと暮らした幸せな場所でもあり、家族が崩壊してしまった悲しい場所でもある。
 それでも、唯一これだけはと、この男が望んだことだ。
 それを取り上げることは、ルッツにはできなかった。
 
「金のことは心配していない。可能な範囲でゆっくり返してくれたらいい。くれぐれも体に気をつけて、無理はしないように」
「はい。ありがとうございます」

 

 義弟は、フィンを養子に出した数年後に後妻と離婚している。
 その時には借金まみれで、ルッツはその金を全て肩代わりしてやった。
 フィンの兄二人も別々に養子に出され、半分血の繋がった妹は後妻が連れて出て行ったと聞いている。

「最後にあの家を訪れたのは五年前。それからは定期的に人をやって様子をみていたが…問題ないと報告は上がっていたはずだ。本当にそんな噂が流れているのか?」

 ルッツの言葉を受け、ハーゲンは情報を持ってきたトリスタンを見る。
 二人からの視線を受け、トリスタンは背筋を伸ばし、緊張の面持ちで報告を続けた。

「はい。ゴットフリート様からも、学園で噂になっていると教えていただきました。実家の方に関する噂なので、少し気になられたご様子です。フィン様の口からご実家の話が出たことは一度もありませんし、フィン様のお人柄を充分に理解されておりますので、『信じてはいない』と仰られていました」
「当たり前だ。少しでも信じていたら、即刻、婚約破棄だな」
「慰謝料も請求しましょう」

 当主と執事は、真顔で恐ろしいことを言う。
 自分の発言がゴットフリートの命運を分けそうで、トリスタンは背中に冷や汗が流れ出した。
『最悪の事態になったらフィン様に泣きつこう』と、トリスタンは心を落ち着かせようと努める。

「『養子に出されたことを恨んでいて生家を呪い続けている』という噂の中には、『生家が呪われ続けている』という意味が含まれています。ですので、フィン様のご実家に何かあったのではないかと、ゴットフリート様はご心配なされていました」
「なるほどな」

 火の無い所に煙は立たぬ。
 何かが起こっていると考えるのが妥当か。
 あの日、あの悲しい場所で、死んだようにひっそりと生きていた義弟を思い出す。
 金の返済は続いているので生きているとは思うが、果たしてどうしているのか。
 ルッツが考え込んでいると、トリスタンがおずおずと切り出した。

「私がフィン様のご実家にお伺いしても大丈夫でしょうか?」
「君がか?」
「はい。まずは外から様子を見て、近所の人に話を聞いてみます。ただの不幸が重なっただけで『この家は呪われている』と言われることもあります。もしも、本当にご実家の方でよくないことが起こっていて、そのことをフィン様がお知りになれば、心を痛めてしまわれる可能性が高いと思います。早ければ早い方がいいかと」
「そうだな」

 フィンは、優し過ぎるくらいに優しい。
 けれど、あの子が実家や実の父親のことを本当はどう思っているのか、ルッツは知らなかった。
 あの女については、一方的に嫌われているとフィンが思っていることは、ラーラが初めて妊娠した時にあった出来事の時に聞いている。
 この家に来てすぐの頃、実家に帰りたいと一度家出をしたきり、あの子は実家に対しての興味を失ったように、関心を向けなくなってしまった。
 話題に出さないのは、養子に来たこの家に対しての遠慮もあっただろうし、この家で生きていくと決めた決意の表れでもあったのかもしれない。
 私も怖くて聞けなかったしな、とルッツは自嘲気味に心の中で呟く。
 もし話題に出し、本当の父親の方がいいとあの子の口から言われたら、しばらく落ち込んで立ち直れない。
 そんなことを言う子ではないと分かっていても、不安はあるのだ。
 それに、あの子の心にある傷に触れてしまうかもしれなくて、悲しいことを思い出させたくない気持ちもあった。
 あれから月日は経ち、フィンは逞しく成長した。
 過去を受け止めるだけの余裕があるようなら、一度話をしてみてもいいかもしれない。

「トリスタン。君に任せよう。調べてくれるか?」
「承知致しました。何か分かり次第、早急にご報告致します」
「頼む。あと、その他の噂の出所も調べておいてくれ」

 その他とは、フィンの容姿や人柄を貶すような噂のことだ。
 ハーゲンの片眼鏡がキラリと光った。

「そちらの方は私がお調べ致しましょう。フィン様を侮辱するような数々の噂があるなど、言語道断。必ずや犯人を引き摺り出してみせましょう」
「期待しているぞ」

 黒く笑い合う上司たちから、トリスタンはそっと目を逸らし、フィン様の屈託ない笑顔が恋しいな、と思ったのであった。
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