172 / 341
月の砂漠のかぐや姫 第170話
しおりを挟むザザワッ・・・・・・。
早朝の冷たい風が、冒頓の肌を冷やし、足元の青々とした草を揺らしました。
冒頓は遠くの方で行われている戦いの様子を見極めようと、じっと目を凝らしていました。
え、朝? それに、足元の草?
冒頓たちはいま、夕刻が迫ったヤルダンの赤土の上にいるのではなかったでしょうか。
もちろん、実際に冒頓の体が、急にどこかに行ってしまったわけではありません。肌をなでる早朝の風も足元で揺れる草も、冒頓がそのように感じているというだけです。おそらくは、あの地面から噴き出した青く光る飛沫を全身に浴びたからでしょう。弁富や苑たちと同じように、冒頓の意識も、現実の世界から飛び出て、別の世界の中に入り込んでしまっているのでした。
冒頓が入り込んでいるのは、遠い昔の記憶の中でしたが、それは彼の人生を決定的に変えた、ある一日についての記憶でした。
冒頓が立っているのは、柔らかな下草が生え茂っている草原の上でした。そして、草原を見渡している彼自身の視点は、とても低いところにありました。これは、冒頓が座っているからではありませんでした。彼の体自体が小さいのでした。
この記憶は、彼がおおよそ五歳の頃のものでした。この頃、彼ら匈奴は、彼の父親である頭曼(トウマン)単于(王)の元で、急速に勢力を拡大していました。そのため、他の遊牧民族と遊牧地をかけて争いになることも数多くありました。この日は、冒頓の足元に広がっている草原の帰属を掛けて、月の民との戦に臨むところでした。
匈奴を含む遊牧民族は、家族と家畜を伴って各遊牧地を巡り、長距離の移動をしながら生活する民族です。月の民の五大部族の様に根拠地となる村を持つ民族は別として、それは戦いの場合にも同様でした。実際の戦いそのものには加わらないにしても、戦地の後方には家畜や家財道具を取りまとめた女子供の集団がいるのが常でした。
まだ少年であった冒頓は、父と共に戦場に立つことはできませんが、自分たち匈奴の命運をかけた大きな戦いの趨勢が気になって仕方がありませんでした。そのため、この女子供を集めた集団から従者と共に抜け出して少し離れた丘に上ると、戦場となっている烏達(ウダ)渓谷の方を、鋭い目で見つめていたのでした。
「どうですか、冒(ボウ)殿。我らが匈奴が押しているように見えますよっ」
「まだ、わからん。月の民が後退しているのは確かだが、崩れたって感じがしないしな」
「そうですかね。圧倒しているように思いますが・・・・・・」
厳しい表情を崩さない少年冒頓の横で、「やれやれ、自分の意見を変えないお方だ。だから、むやみに突き進むという意味で、冒(ボウ)と呼ばれるんだ。我が匈奴が、月の民の騎馬隊をあんなに押し込んでいるのに、まだわからないなんて」と、口をとがらせている従者は、年若い頃の弁富でした。
弁富が考えているように、烏達(ウダ)渓谷の入口に広がる草原で始まった匈奴と月の民の会戦は、匈奴が優勢のように見えました。風上に立った匈奴の軍勢から放たれた矢は悠々と月の民の軍勢にところまで達しているものの、風下の月の民からの矢は匈奴の軍勢に届く前に力を失ってしまっていました。遊牧民族の戦いでは、弓矢が主な武器でしたから、この違いは非常に大きなものなのでした。
指先が白くなるほど力を入れてこぶしを握りめながら少年冒頓たちが戦況を見つめる中で、この状況を不利と見たのか、月の民の軍勢は烏達(ウダ)渓谷の中へと逃げ込んでいきました。そして、匈奴の軍勢も、それを追いかけて渓谷の中へと突入していきました。
「見てください、冒殿っ。月の民の奴らを、逃げ場のない渓谷の中へ追い込みました。我らの大勝利ですっ」
「ああ、そうだなっ。どうやら、勝てそうだっ」
少年冒頓と弁富が顔を見合わせて笑い安堵の息を漏らした、その時のことでした。
急に、匈奴の軍勢と月の民の軍勢が上げていた旗印のたなびく向きが変わったのです。それまでは匈奴の軍勢の側から月の民の軍勢の側へとたなびいていたのでしたが、月の民の軍勢の側から匈奴の軍勢の側へとたなびくように変わりました。それは、烏達(ウダ)渓谷を通り抜ける風の向きが、一瞬にして変わったことを示していました。
「ああ、なんだとっ」
少年冒頓は、自分の目を疑いました。
逃げる月の民の軍勢を追いかけて烏達(ウダ)渓谷へ突入していった匈奴の軍勢が、次々と倒れていっているではありませんか。
全ては、月の民の軍勢を率いていた御門の思惑によるものでした。わざと不利な風下で戦いを挑み、逃げると見せかけて匈奴を烏達(ウダ)渓谷の中に誘い込むと、当時の月の巫女である弱竹(ナヨタケ)姫の力により風向きを反転させて、一斉に反撃の矢を放ったのでした。
「そんな、そんな・・・・・・。父上ぇっ」
遠く離れた丘の上に立つ少年冒頓の瞳に、父である頭曼(トウマン)単于(王)率いる軍勢の上に、空にかかる雲そのものが落ちてきたような恐ろしい密度で、これまでは届くことがなかった月の民の軍勢の矢が降り注ぐ様子が、焼き付けられました。
その日、匈奴の軍勢は月の民の軍勢の前に大敗北を喫しました。この「烏達(ウダ)渓谷の戦い」と呼ばれる戦いを境に匈奴は勢いを失い、月の民の前に膝を屈することとなるのでした。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄されて修道院へ送られたので、今後は自分のために頑張ります!
猫石
ファンタジー
「ミズリーシャ・ザナスリー。 公爵の家門を盾に他者を蹂躙し、悪逆非道を尽くしたお前の所業! 決して許してはおけない! よって我がの名の元にお前にはここで婚約破棄を言い渡す! 今後は修道女としてその身を神を捧げ、生涯後悔しながら生きていくがいい!」
無実の罪を着せられた私は、その瞬間に前世の記憶を取り戻した。
色々と足りない王太子殿下と婚約破棄でき、その後の自由も確約されると踏んだ私は、意気揚々と王都のはずれにある小さな修道院へ向かったのだった。
注意⚠️このお話には、妊娠出産、新生児育児のお話がバリバリ出てきます。(訳ありもあります)お嫌いな方は自衛をお願いします!
2023/10/12 作者の気持ち的に、断罪部分を最後の番外にしました。
2023/10/31第16回ファンタジー小説大賞奨励賞頂きました。応援・投票ありがとうございました!
☆このお話は完全フィクションです、創作です、妄想の作り話です。現実世界と混同せず、あぁ、ファンタジーだもんな、と、念頭に置いてお読みください。
☆作者の趣味嗜好作品です。イラッとしたり、ムカッとしたりした時には、そっと別の素敵な作家さんの作品を検索してお読みください。(自己防衛大事!)
☆誤字脱字、誤変換が多いのは、作者のせいです。頑張って音読してチェックして!頑張ってますが、ごめんなさい、許してください。
★小説家になろう様でも公開しています。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
強制力がなくなった世界に残されたものは
りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った
令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達
世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか
その世界を狂わせたものは
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
わがまま姉のせいで8歳で大聖女になってしまいました
ぺきぺき
ファンタジー
ルロワ公爵家の三女として生まれたクリスローズは聖女の素質を持ち、6歳で教会で聖女の修行を始めた。幼いながらも修行に励み、周りに応援されながら頑張っていたある日突然、大聖女をしていた10歳上の姉が『妊娠したから大聖女をやめて結婚するわ』と宣言した。
大聖女資格があったのは、その時まだ8歳だったクリスローズだけで…。
ー---
全5章、最終話まで執筆済み。
第1章 6歳の聖女
第2章 8歳の大聖女
第3章 12歳の公爵令嬢
第4章 15歳の辺境聖女
第5章 17歳の愛し子
権力のあるわがまま女に振り回されながらも健気にがんばる女の子の話を書いた…はず。
おまけの後日談投稿します(6/26)。
番外編投稿します(12/30-1/1)。
作者の別作品『人たらしヒロインは無自覚で魔法学園を改革しています』の隣の国の昔のお話です。
死霊王は異世界を蹂躙する~転移したあと処刑された俺、アンデッドとなり全てに復讐する~
未来人A
ファンタジー
主人公、田宮シンジは妹のアカネ、弟のアオバと共に異世界に転移した。
待っていたのは皇帝の命令で即刻処刑されるという、理不尽な仕打ち。
シンジはアンデッドを自分の配下にし、従わせることの出来る『死霊王』というスキルを死後開花させる。
アンデッドとなったシンジは自分とアカネ、アオバを殺した帝国へ復讐を誓う。
死霊王のスキルを駆使して徐々に配下を増やし、アンデッドの軍団を作り上げていく。
魔力∞を魔力0と勘違いされて追放されました
紗南
ファンタジー
異世界に神の加護をもらって転生した。5歳で前世の記憶を取り戻して洗礼をしたら魔力が∞と記載されてた。異世界にはない記号のためか魔力0と判断され公爵家を追放される。
国2つ跨いだところで冒険者登録して成り上がっていくお話です
更新は1週間に1度くらいのペースになります。
何度か確認はしてますが誤字脱字があるかと思います。
自己満足作品ですので技量は全くありません。その辺り覚悟してお読みくださいm(*_ _)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる