月の砂漠のかぐや姫

くにん

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月の砂漠のかぐや姫 第148話

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 その背中が他人から声をかけられるのを強く拒んでいるように思われたので、自分の足が赤土を踏みしめて生じるザクザクという音で彼を煩わせることがないようにと、苑はできるだけゆっくりとその男に近づいていきました。
 それでも、彼の横に並ぶはるか前であるにもかかわらず、その男は苑の気配に気づいたようで、下を向いたままで言葉をよこしました。それは、激しい怒りを含んだものでもなく、冷たい哀しみを含んだものでもありませんでしたが、いつもの男の言葉の調子からは程遠い、とても静かな口調でした。
「よお、苑か。眠れなかったんだな。明日はまたしっかりと働いてもらわなきゃならねえんだが、まぁ、仕方ねぇよな」
 広場の縁に立って谷底を見下ろしている細身の男は、この交易隊と護衛隊を率いている冒頓でした。
 冒頓の邪魔をしたくなかったので足音を忍ばせてゆっくりと近づいていた苑でしたが、彼に気づかれてしまった以上、もうそのような気を使う必要はありません。苑はいつもの軽い足取りで冒頓の横に来ると、彼と同じように谷底を見下ろしました。
 もとより深夜のことですから、ここに太陽の光などはありません。それでも、広場のように空に向かって広く面しているところであれば、月の明かりの恩恵を受けることができるのですが、複雑に張り出した岩壁のさらに下を流れる川面までは、ほのかな月の明かりなどはとても届きません。
 何か手掛かりとなるものが見えやしないかと、祈るような気持ちで苑が見下ろした谷底は、まるで濃い黒雲で満たされているかのようで、どれだけ注意をして見ても、そこには何も見て取ることはできませんでした。
「冒頓殿・・・・・・。谷底に落ちてしまったという羽磋殿や王柔殿、それに理亜は・・・・・・、きっと無事っすよね。大丈夫っすよね」
 もちろん、冒頓にとっても谷底に何も見て取れないのは同じなのですから、答えが、それも、良い答えが返ってくるはずなどありません。それでも、苑は冒頓に尋ねずにはいられませんでした。自分の内側にとどめ続けるのが困難なほどに、羽磋たちに二度と会えないのではないかという不安が、大きくなってきていたからでした。
 冒頓は、自分の横に立つ小柄な少年にちらりと目を向けると、また谷底に視線を戻しました。
「冷たい言い方になるかもしれねぇが、わかんねぇ。普通に考えりゃ、この高さから下に落ちりゃ、命はないさ。だが、ありがたいことに、ここの下には川が流れているようだからな。うまく川に落ちて、うまく流れに巻き込まれず、どこかの岸に上がれていれば、あるいは・・・・・・」
 谷底に充満している暗闇のその向こう側を想像するかのような冒頓の言葉は、「そうであってくれればいいのだが」という思いを込めたものでした。
 彼自身が言うように、この高さから落下しているのですから、固い地面に激突したり、張り出した岩壁にぶつかったりすれば、とても命はないでしょう。運よく谷底を流れている川に落ちたとしても、その川の水が少なければ、落下の衝撃を十分に和らげてはくれません。一方で、川の水が多い場合はと言えば、川の流れに巻き込まれて溺れてしまう恐れがあります。つまり、幸運にも川に落ちたとしても、大怪我を負うか、それこそ命を失うことまでも、十分に考えられるのです。
 苑たちがなんども交易路や広場から行った呼びかけに、谷底からの返答がまったくなかったことを考えれば、羽磋たちがうまく川に落下した後に岸辺に這い上がって命を拾っているとはとても考えにくいというのが、冒頓の心の奥底の冷徹な部分がひとりでに下している判断でした。
 ただ、自分の中でそのような判断がなされていることを自覚しつつも、冒頓はそれを受け入れることに難しさを感じていました。その理由は、自分が気に入っていた羽磋という男へのこだわりなのかもしれません。あるいは、理屈ではない、カンとでもいうべき何かが、彼に囁いているのかもしれません。いずれにしても、これまでは「死んだら終わりだ」として、戦いで倒れた仲間のことを残念には思いつつも、それを割り切って前へ進んできた冒頓が、このような心の持ち様になるのは、とても珍しいことなのでした。
「そうっすよね。羽磋殿はとても身軽な方ですし、王柔殿も理亜のこととなると必死で頑張る方ですし、きっと、大丈夫っすよねっ」
 一抹の希望を示す冒頓の言葉に、すかさず苑は飛びつきました。苑も、この状況を考えると、羽磋たちが生きているとはとても考えにくいことはわかっていました。でも、彼は冒頓よりもずっと年若い成人前の少年でしたから、彼よりもずっと簡単に、そのような受け入れたくない考えよりも、自分の感情に沿った希望にすがることができるのでした。
「ああ、おそらく、な」
 冒頓は、苑の少年らしい素直な物言いに、どこか救われたような気がして口元を緩めました。自分一人では持ち得なかった希望を、この少年が手渡してくれたような気がしました。
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