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第十一話 噂

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 静かにローデリアの部屋に行こうと長い廊下の曲がり角で足を止めた。
 彼女の部屋の前に誰かいる。
 剣を持ち自分より背が高く、筋骨隆々の女性だ。自分が相手を分かる前に、先に相手が自分に気づいた。

「トーマス様、どうされました?」

 面倒なやつに会ってしまった。声を聴いてわかった。これはローデリアの護衛の女性だ。
 安全な屋内なのに、こんなところで何をしているんだ、こいつは。さっさと寝ればいいのに。

「どけ。妻に用がある」

 そう彼女の脇をすり抜けて扉に手を掛けようとした時だった。
 がしっと腕を掴まれる。とっさに手を振り払おうとしたが、びくとも動かない。

「奥様はもうお休みになっておられます。お客様も部屋にお戻りになりますよう」

 トーマス様という呼び方から、お客様、と格が下がった。
 他人行儀な呼び方がわざとらしい。ローデリアと俺は関係がないとでも言っているようで。

「なんでだ! 俺はローデリアの夫だぞ! 夫が妻の寝室を訪れて何がおかしい!」
「はて、夫というものは妻を奴隷のようにこき使い、上前をはねる存在だとは知りませんでしたね。お話なら、明日の朝食の席でもよろしいでしょう?」
「夫婦でしかできない特別な話をしに来たんだよ。伯爵家のことを思うのなら、放せ」

 彼女がローデリアの護衛だというのなら、伯爵家に仕えているはずだ。それならば、この女が騎士としてのプライドを持っているのなら、自分を主と思っているに違いない。
 そう見越して言ったのだが。

「それに二年間禁欲的な夫婦生活を送ってらしたのに、いまさら子供を作られるようなことをなさっても無駄でしょう?」

 ふっと鼻で嗤われた。

「家の中にまで護衛を置いて、夫を遠ざけようというのか! あの女は」
「いいえ? 奥様は夜は早く眠られて、朝早く起きられて仕事をされるのです。その習慣を破ることは何人たりも許されません」

 夫であるというのなら、奥様のこの規則正しい生活習慣はわかっていますよね? と嫌味を言われる。夜ほとんど一緒に寝てない人間が、彼女の生活習慣なんか知るはずもないだろうという当てこすりだ。

「奥様はお忙しいのですよ。この家の管理、そして領地の仕事もすれば、事業の方も監督なさる。暇な誰かさんとは違って分刻みで貴族としての義務を日々こなしておられます。生まれだけ貴族な男に使ってやる時間などないのです」

 音もなく彼女の剣が鞘から抜かれて、首筋にぴたりと刃が突きつけられた。
 暗い廊下の中で、光が一筋動いたのしか見えなかった。
 怒りに満ちた低い声で、静かに耳元でささやかれる。

「さっさと客用の部屋に戻るんだな。あくまでも奥様のご厚意でこの屋敷に泊まらせてやっているという己の立場を忘れるな」
「ぐ、ぐぅ……」
 恐怖でくぐもった声しか喉から出ない。そのまま膝から力が抜け、どさっと尻もちをついた。
 捨て台詞すらいうことができず、膝をつき這った状態で、客室に逃げ帰った。







 貴族社会は噂が広がるのが早い。
 三日も経たずにヴェノヴァ伯爵夫婦が離婚に向けて進んでいるという話が一気に広まった。
 誰が噂を流したのかと犯人捜しをしようにも、張本人であるローデリアが隠す気がないのだから仕方がないだろう。
 しかし、対外的には跡継ぎを作るための前向きな離婚の話をしているのに、深読みをしようとするやつは、どの世界でもいるもので。

「あそこの奥さんはまだ若いのに遊び歩いている亭主の代わりに領地を守っていたそうだ。傾いていた伯爵家を支え、自分でも事業を立ち上げてそれで伯爵家の斜陽産業を買い取って肩代わりしているそうだよ。優秀な実業家だな」
「離婚したら、ぜひうちのとこにもらい受けたいね。メイドの話からきくと、初夜以降は一度も夫婦生活なかったらしいぞ。身持ちも固い貞淑な妻で、外に男を作ることもなかったみたいだし」
「それって、本当なのか?」
「でも、旦那は娼館通いしてたんだろ?」
「もしかしたらあそこの伯爵、本当は男性機能が使い物にならなかったのを、隠すために……」
「若い子と結婚していたのもそれを悟られないようにかもな。男の経験がなかったらわからないものだし」
「娼館通いもそれを隠すためでさ」

 そんな下世話で不名誉な噂まで流れる始末だ。
 かといって下半身が現役だと証明して歩くわけにもいかないので、噂が立ち消えるまで待つしかない。

 しかもローデリアが実権を握っていることすら話が流れていて、なぜか彼女の株が上がっている。
 ローデリアがふらふらしている放蕩旦那に喝をいれるために、このようなことをしでかし、諫めたのだということになっているのだ。
 俺を諫めるだけというならまだよかった。
 ローデリアは俺の財産を一式持ったまま、頑固に離婚を強行しようとしている。



 そして、とうとう恐れていたことが起きた。


 テロドア侯爵こと、父にも噂が届いたようだ。
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