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第十四話 インクのしみ

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 自室に戻り、さっそく持ち出してきた目録を開く。
 私が目星をつけていたあの絵が本当に名作なのかどうかはわからない。
 しかし、私の直観というより母の話を信じるだけだ。
 だってもしあの絵が複製画だったとしても、私じゃそうかどうかすらわからないもの。

 ノートはちゃんと管理しているらしく父の字で丁寧に色々と、買った時の状態や、どこで購入したかまで書き込まれている。
 その中から、あの絵と思しきものをページをめくって探す。
 最初からこのノートに値段が書かれていれば早いのに。そうしたら、その中から金額が高いものを選んで書き写せば早かった。
 もしかしたら、値打ちの高いものは違う場所に管理されているのだろうか。
 いや、この家の中で一番管理が厳重なのはあの部屋だ。
 そして、父の性格上、大事なものほど自分の身から離さないだろうから、他所で管理していることも想像がつかない。だから父の持っているコレクションの中で、価値が最も高い物はあの部屋の中にあるとみていいだろう。

 幸いキャンバスサイズと、画家のサインの最初の字が読み取れたから、これではないかと当たりをつけることができたのだが。しかし。

「あの絵のタイトルが、聖母の凋落? どういうモチーフなのかしら」

 なんか考えない方がいいような気がして、思考を停止した。
 しかし、余計なことを言ってる暇も考えている暇もない。必死になって書き写している間に、父が帰って来たようで家の外に馬が走る音とガチャガチャと重たい物が引っ張られるような音も聞こえた。

 これは困った。
 父が部屋に入っていってしまったら、もう自分はこのノートを返すことができなくなる。今のうちに、と慌ててノートを持って立ちあがり、父が自分の部屋に入る前に返してこようとするが。

「あ」

 どぼぼぼ……。
 立ち上がった拍子に、蓋を閉め忘れていたインクを倒して机の上が黒く染まり、勢いで零れたそれがドレスにもかかる。

「~~~~~~っ!!」

 悲鳴を上げたら人が来る! そう思うと上がりそうになってしまった声を必死に堪えて。
 とっさにノートにかからないように腕を高く上げてそれを守ったが……。見れば1滴、ノートにインクが飛んでいる。
 
 とりあえず、この汚れた状態になってしまった今、このタイミングでノートを返しになんてとてもじゃないが行けない。
 着替える時間もない。このまま行ってあちこちにインクの染みをつけて回るわけにもいかないし。

「このノートの滲み……どうしよう」

 ドレスの浸みはこの際どうでもいいが、ノートに飛んでしまった汚れはどうしたらいいのやら。
 このまま返すべきかすら自分でも判断できなくて、とりあえずはそのノートを自分の机の引き出しの奥に隠し、着替えることにした。




***



 翌日に書き写した紙と、盗んできた目録のノートを持って、こっそり訪れるのはロナードの家だ。ばれても一見してわからないように、ノートは厳重に梱包してバッグに2重に入れたのだけれど。
 父がこのノートが持ち出されていることに気づいているかどうかはわからない。様子をうかがうことすらできなかった。

 私の話を聞いたロナードは、ああ、と軽く頷いた。

「インクの浸み? 消せるよ」
「そうなの!?」
「漂白剤でたいていの染色料の色素は落とせるからね。どこ?」

 そういうと、布を裂いて細い棒に巻き付けたものと、洗濯用の漂白剤をメイドに指示して準備させるロナード。
 まず目立たないところで試してから、私が汚したところに、そっと浸した布で撫でていく。汚したのは表紙で、紙に漂白剤が多少浸みても裏移りして裏側の文字が消えたりしないのがわかっていたから安心できる。
 面白いように色が綺麗に消え、危惧したようにノートの表紙の色は消えたりしなくてほっとした。
 中の方は無事だろうか、と確認するためにノートの中身を見ていたロナードは、気まずそうな顔を隠そうとしなかった。

「……僕、君のお父さんのコレクションがなにか、わかっちゃった」
「……何も言わないで」
「うん……」

 こうなる予感はしていた。だって、露骨な名前の作品も結構あるのだもの。

「もしかしたら……、オークションのカタログの罠を仕掛けたら、思っていたのと違う人が釣れるかもしれないなぁ」

 中をぱらぱらめくりながら、ロナードが頷いている。

「え、どういうこと?」
「いや、実際にやってみた方がいいと思う。僕の考え違いかもしれないから」

 元々、ロナードは誰が釣れると思っていたのだろうか。
 オークションに出品依頼の手配はロナードがしてくれるということで、私はそのままノートだけ持って、家に帰る。
 幸い、父は帰宅した時にまだいない。隠し部屋は昨日、自分が入ったままのような気がする。
 こっそりとノートを元あった場所に戻し、離れることにした。


 ――しかし、私は気づいていなかった。

 小さな仕掛けが、その部屋の入口に仕掛けられていたということに。
 蝶番に挟まれた軽くて潰れやすいその球は、扉が開閉すると潰れ、侵入者がいたということだけを教えてくれる簡易なもの。

 なぜ忘れていたのだろうか。
 父はそのように細心なところもあったからこそ、その地位まで上がって来た男だったというのに。
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