7 / 18
第二章 東常真心
3
しおりを挟む
虐待をうけているんじゃないかしら、心配でね。と通報を受け、児童相談所の新人である鈴木飛鳥は、ペアの男性の先輩とともに、現場である家を訪ねた。
飛鳥がチャイムを鳴らす。内部と会話ができるタイプのものではないので、家主が出てくるまでギュッと鞄を握り、緊張を紛らわす。
「来るぞ」
先輩のちいさい声も強ばっている。
足音が聞こえてきて、控えめに扉が開いた。隙間から迷惑そうな顔した婦人が半身だけ出てくる。
「······なんですか?」
「突然すみません。児童相談所です。お電話がありまして───」
「電話? なに、誰から? なんて言ってたの」
先輩はつとめて冷静に対応する。
「お電話をくれた方のことはお教えできません。こちらのお宅にお子様はいらっしゃいますか?」
「え? いないけど。───なんなら見ていってもいいよ」
飛鳥は思わず先輩を見る。家の中を見せてくれることはなかなかないので、一度目の訪問からこれは上々ではないか。
しかし先輩は、女性が中に入っていったのを確認し、飛鳥に忠告する。
「夫がいるかもしれない。暴行を受けたりする可能性もある、気をつけろ」
「は、はい」
飛鳥は生唾を無理やり飲み込む。先輩や他の職員が、訪問した先で住人に暴行された、軟禁されたということが実際に報告されている。
それが自分にも起きるかもしれないのだ。
先輩が先に入り、飛鳥も続く。玄関をあがり、すぐ右手にキッチンとリビングがある。薄暗くカビ臭いが、ゴミのようなものはなく、散らかってもいない。
飾り気のない、普通の家だ。
リビングの2人掛けソファーに、男性の後ろ姿があった。音の大きいテレビを見ている。
先輩と飛鳥の足音で、こちらを向いた。角度的に睨むような目つき。
二人が会釈すると男性もすこし頭を下げ、またテレビを見はじめる。
「こっちも見てく?」
先輩が女性の案内で廊下の奥へ進む。飛鳥は異常がないか、二人以外に誰もいないのか、見落としがないよう素早く視線を走らせる。
重なった食器、冷蔵庫、ゴミ箱、半分閉じられたカーテン。
「───ぁ」
ふと見た冷蔵庫と壁の隙間に、なにかある。透明で厚いプレートのようなもの。しかし確認する前に男性が側に来て、怪訝な顔をしたので、飛鳥はペコッと頭を下げ逃げるようにして先輩の後を追った。
(······さっきの、どこかで見た気がする───)
透明のプレートはごく身近なところにある。だがどこなのか思い出せない。
気になるが、住人の癪に障ってもいけないので、次の部屋に意識を向けた。
一番奥の部屋は、なにも置かれていなかった。
「ここ、むっとしますね······」
先に来ていた先輩の背中に話しかける。彼は肩越しに窓が閉まっているからだろうと教えてくれた。
窓はきっちり紺のカーテンで隠され、電飾のひとつも無いので、暗く空気がこもっている。
ぐるりと部屋を端から端まで確認するが、アラビアン柄の壁紙が四方にあるだけで、床のフローリングにもとくになにもなかった。
「全部見ていくの?」
部屋を出ていく女性と入れ違いで飛鳥は踏み込んだ。
隅をしゃがんで見ると、ホコリがたまっている。カーテンを開ける。締め切られた窓には見慣れない鍵があり、すこしいじると外側からも鍵が掛けられると分かった。
「変な部屋······」
飛鳥は住人が来る前に鞄からタップを取り出し、素早くコンセントに差し込む。出る前に一度振り返り、ちゃんと刺さっていることを見届けて部屋を出た。
ひと通り中をまわり、しかし子供の姿は確認できないまま、家を後にすることとなった。
仕事を終えた飛鳥は自車に乗り込み、昼間訪ねた家の近くまで走らせる。
道の脇に停車し、盗聴器を準備する。
───イヤホンからすぐに声が聞こえてきた。が、それはあの女性でも男性でもなく、か細い子供の声だった。
「やっぱりいたんだ」
誰かと話している。女性だろうか······。家主の女性の声はもっとしゃがれていたが、イヤホンから聞こえてくる声はずっと若い。
〚あなたは······だれ〛
子供の声はずいぶんかすれていて、いまにも息が止まってしまいそうなほど弱々しい。
〚······私は、レイイチといいます〛
〚れ······いち、さん〛
〚あなたの声を聞いて、ここへ来ました。───生きたいですか? 死にたいですか?〛
「な───!」
飛鳥は驚いた。そこにいるならなぜそんなことを訊くのか。助けて当然だろうに、こいつはなにを言っているんだ。
「変なこと言ってないで、助けてよ!」
飛鳥はイヤホンに懇願するが、こちらの声がむこうに届く機能はついていない。
〚レイイチさん······ころして〛
ノイズ混じりの子供の声が、そんなことを言った。
「ど、とうして」
飛鳥は通信機を握りしめる。
〚もう、しにたい······でも、くるしいのに、どうやってしねば、いいか······わからない〛
〚······───わかりました。殺します〛
「えっ」
なにか、カチリと音がした。
(なに、いまの音······まさか、本当に殺すつもり?!)
「うそ、待っておねが······っ!」
パンッ
車内に響く飛鳥の悲痛な叫びは、盗聴器から聞こえてきた乾いた音によって止められる。
その音が銃声だと分かるまで、ずいぶん時間が掛かった。
飛鳥は呼吸をするのも忘れ、イヤホンに集中する。
〚······来世で······しあわせになって······〛
それきり静かになる。もうあの部屋には誰もいない。いや、あの子が······あの子の体が、ある······。
助けられなかった───。
もうどうすることもできないのだと悟った瞬間、飛鳥は泣き出した。
* * *
はじめての現場で少年を助けられなかった飛鳥は、ショックで仕事を休みがちになっていた。
あの日ひそかにつけた盗聴器のことは、誰にも話していない。
飛鳥はとても正義感が強かった。ニュースで虐待死のことを知る度に、私なら何としてでも子供を助けるのに、と憤りを感じていた。
だから、禁止されている盗聴器まで用意したのだ。こうまでしなければ助けられない。むしろここまですれば助けられるだろう、そう思っていた。
だが、助けられなかった。
少年は部屋の扉にも窓にも鍵が掛けられた状態で死んでいた。頭を銃のようなもので撃ちぬかれ、即死だったという。ニュースではそれだけだった。
飛鳥が先輩と訪問したとき、少年は冷蔵庫の中に隠されていたと、後に気がついた。
冷蔵庫と壁の間にあったプレートは、冷蔵庫の間仕切りだったのだ。すべて外せば、子供ひとりは入れる。
なぜもっとはやく、それこそプレートを怪しんだ時点で気づくことができなかったのか。
子供を隠していたあの女と男への怒りよりも、助けられなかったという変えようのない事実が、時間を追うごとに絶望となって飛鳥の脳を支配していく。
上司から職場に来るよう言われ、一週間ぶりに出勤する。スーツを着て、適当に身形を整える。車を運転しているとき、あの子は死んだのに、どうして自分は生きているんだろうと思った。
職場について早々に、上司はスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、見覚えのあるタップが、袋に入っている画像だった。
「これから君の指紋が見つかった。あの家に盗聴器を仕掛けたのは鈴木さんだね。······何としても助けたい気持ちはわかるが、それはしてはいけないんだよ。だから、三ヶ月の謹慎処分とする───」
帰り際、あのとき一緒だった先輩が不思議な話をしてきた。
「鈴木が休んでる間に、ちょっとしたミステリーがあったんだよ」
───耳の聞こえない女の子が殺された。
その子の物と思われるノートには、死ぬ直前に書いたらしいメッセージが残されていた。
〚レイイチさん、ありがとう〛
飛鳥はその名前にはっとする。あの子が言っていた名前だ。
先輩は顎に手を当て、探偵のように目をつむって続ける。
「その子は頭を撃たれていた。誰かがいたのは確かなのに、女の子以外が部屋にいた形跡は無かったんだ。その家の住人以外の指紋は見つからなかったようだし。
なによりそこは、密室になっていたんだ───」
あの子を殺したやつと同一人物だ。“レイイチさん”はいる。存在する。
飛鳥は確信した。
飛鳥がチャイムを鳴らす。内部と会話ができるタイプのものではないので、家主が出てくるまでギュッと鞄を握り、緊張を紛らわす。
「来るぞ」
先輩のちいさい声も強ばっている。
足音が聞こえてきて、控えめに扉が開いた。隙間から迷惑そうな顔した婦人が半身だけ出てくる。
「······なんですか?」
「突然すみません。児童相談所です。お電話がありまして───」
「電話? なに、誰から? なんて言ってたの」
先輩はつとめて冷静に対応する。
「お電話をくれた方のことはお教えできません。こちらのお宅にお子様はいらっしゃいますか?」
「え? いないけど。───なんなら見ていってもいいよ」
飛鳥は思わず先輩を見る。家の中を見せてくれることはなかなかないので、一度目の訪問からこれは上々ではないか。
しかし先輩は、女性が中に入っていったのを確認し、飛鳥に忠告する。
「夫がいるかもしれない。暴行を受けたりする可能性もある、気をつけろ」
「は、はい」
飛鳥は生唾を無理やり飲み込む。先輩や他の職員が、訪問した先で住人に暴行された、軟禁されたということが実際に報告されている。
それが自分にも起きるかもしれないのだ。
先輩が先に入り、飛鳥も続く。玄関をあがり、すぐ右手にキッチンとリビングがある。薄暗くカビ臭いが、ゴミのようなものはなく、散らかってもいない。
飾り気のない、普通の家だ。
リビングの2人掛けソファーに、男性の後ろ姿があった。音の大きいテレビを見ている。
先輩と飛鳥の足音で、こちらを向いた。角度的に睨むような目つき。
二人が会釈すると男性もすこし頭を下げ、またテレビを見はじめる。
「こっちも見てく?」
先輩が女性の案内で廊下の奥へ進む。飛鳥は異常がないか、二人以外に誰もいないのか、見落としがないよう素早く視線を走らせる。
重なった食器、冷蔵庫、ゴミ箱、半分閉じられたカーテン。
「───ぁ」
ふと見た冷蔵庫と壁の隙間に、なにかある。透明で厚いプレートのようなもの。しかし確認する前に男性が側に来て、怪訝な顔をしたので、飛鳥はペコッと頭を下げ逃げるようにして先輩の後を追った。
(······さっきの、どこかで見た気がする───)
透明のプレートはごく身近なところにある。だがどこなのか思い出せない。
気になるが、住人の癪に障ってもいけないので、次の部屋に意識を向けた。
一番奥の部屋は、なにも置かれていなかった。
「ここ、むっとしますね······」
先に来ていた先輩の背中に話しかける。彼は肩越しに窓が閉まっているからだろうと教えてくれた。
窓はきっちり紺のカーテンで隠され、電飾のひとつも無いので、暗く空気がこもっている。
ぐるりと部屋を端から端まで確認するが、アラビアン柄の壁紙が四方にあるだけで、床のフローリングにもとくになにもなかった。
「全部見ていくの?」
部屋を出ていく女性と入れ違いで飛鳥は踏み込んだ。
隅をしゃがんで見ると、ホコリがたまっている。カーテンを開ける。締め切られた窓には見慣れない鍵があり、すこしいじると外側からも鍵が掛けられると分かった。
「変な部屋······」
飛鳥は住人が来る前に鞄からタップを取り出し、素早くコンセントに差し込む。出る前に一度振り返り、ちゃんと刺さっていることを見届けて部屋を出た。
ひと通り中をまわり、しかし子供の姿は確認できないまま、家を後にすることとなった。
仕事を終えた飛鳥は自車に乗り込み、昼間訪ねた家の近くまで走らせる。
道の脇に停車し、盗聴器を準備する。
───イヤホンからすぐに声が聞こえてきた。が、それはあの女性でも男性でもなく、か細い子供の声だった。
「やっぱりいたんだ」
誰かと話している。女性だろうか······。家主の女性の声はもっとしゃがれていたが、イヤホンから聞こえてくる声はずっと若い。
〚あなたは······だれ〛
子供の声はずいぶんかすれていて、いまにも息が止まってしまいそうなほど弱々しい。
〚······私は、レイイチといいます〛
〚れ······いち、さん〛
〚あなたの声を聞いて、ここへ来ました。───生きたいですか? 死にたいですか?〛
「な───!」
飛鳥は驚いた。そこにいるならなぜそんなことを訊くのか。助けて当然だろうに、こいつはなにを言っているんだ。
「変なこと言ってないで、助けてよ!」
飛鳥はイヤホンに懇願するが、こちらの声がむこうに届く機能はついていない。
〚レイイチさん······ころして〛
ノイズ混じりの子供の声が、そんなことを言った。
「ど、とうして」
飛鳥は通信機を握りしめる。
〚もう、しにたい······でも、くるしいのに、どうやってしねば、いいか······わからない〛
〚······───わかりました。殺します〛
「えっ」
なにか、カチリと音がした。
(なに、いまの音······まさか、本当に殺すつもり?!)
「うそ、待っておねが······っ!」
パンッ
車内に響く飛鳥の悲痛な叫びは、盗聴器から聞こえてきた乾いた音によって止められる。
その音が銃声だと分かるまで、ずいぶん時間が掛かった。
飛鳥は呼吸をするのも忘れ、イヤホンに集中する。
〚······来世で······しあわせになって······〛
それきり静かになる。もうあの部屋には誰もいない。いや、あの子が······あの子の体が、ある······。
助けられなかった───。
もうどうすることもできないのだと悟った瞬間、飛鳥は泣き出した。
* * *
はじめての現場で少年を助けられなかった飛鳥は、ショックで仕事を休みがちになっていた。
あの日ひそかにつけた盗聴器のことは、誰にも話していない。
飛鳥はとても正義感が強かった。ニュースで虐待死のことを知る度に、私なら何としてでも子供を助けるのに、と憤りを感じていた。
だから、禁止されている盗聴器まで用意したのだ。こうまでしなければ助けられない。むしろここまですれば助けられるだろう、そう思っていた。
だが、助けられなかった。
少年は部屋の扉にも窓にも鍵が掛けられた状態で死んでいた。頭を銃のようなもので撃ちぬかれ、即死だったという。ニュースではそれだけだった。
飛鳥が先輩と訪問したとき、少年は冷蔵庫の中に隠されていたと、後に気がついた。
冷蔵庫と壁の間にあったプレートは、冷蔵庫の間仕切りだったのだ。すべて外せば、子供ひとりは入れる。
なぜもっとはやく、それこそプレートを怪しんだ時点で気づくことができなかったのか。
子供を隠していたあの女と男への怒りよりも、助けられなかったという変えようのない事実が、時間を追うごとに絶望となって飛鳥の脳を支配していく。
上司から職場に来るよう言われ、一週間ぶりに出勤する。スーツを着て、適当に身形を整える。車を運転しているとき、あの子は死んだのに、どうして自分は生きているんだろうと思った。
職場について早々に、上司はスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、見覚えのあるタップが、袋に入っている画像だった。
「これから君の指紋が見つかった。あの家に盗聴器を仕掛けたのは鈴木さんだね。······何としても助けたい気持ちはわかるが、それはしてはいけないんだよ。だから、三ヶ月の謹慎処分とする───」
帰り際、あのとき一緒だった先輩が不思議な話をしてきた。
「鈴木が休んでる間に、ちょっとしたミステリーがあったんだよ」
───耳の聞こえない女の子が殺された。
その子の物と思われるノートには、死ぬ直前に書いたらしいメッセージが残されていた。
〚レイイチさん、ありがとう〛
飛鳥はその名前にはっとする。あの子が言っていた名前だ。
先輩は顎に手を当て、探偵のように目をつむって続ける。
「その子は頭を撃たれていた。誰かがいたのは確かなのに、女の子以外が部屋にいた形跡は無かったんだ。その家の住人以外の指紋は見つからなかったようだし。
なによりそこは、密室になっていたんだ───」
あの子を殺したやつと同一人物だ。“レイイチさん”はいる。存在する。
飛鳥は確信した。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
お隣の犯罪
原口源太郎
ライト文芸
マンションの隣の部屋から言い争うような声が聞こえてきた。お隣は仲のいい夫婦のようだったが・・・ やがて言い争いはドスンドスンという音に代わり、すぐに静かになった。お隣で一体何があったのだろう。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
コント:通信販売
藍染 迅
ライト文芸
ステイホームあるある?
届いてみたら、思ってたのと違う。そんな時、あなたならどうする?
通販オペレーターとお客さんとの不毛な会話。
非日常的な日常をお楽しみください。
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる