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第二章 ローウェルの常連さん
02 家庭教師の先生
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「それじゃあお嬢様。お勉強、しましょうか!」
なんとも良い笑顔でそう言うセラに、わたしはひくりと頬を引き攣らせた。
退院して、その直後に第一分家に行って、それからすぐにまた寝込んで。やっと今朝方起き上がる許可が出たばかりなのだ。机に向かって勉強するより、正直なところ、遊びたい。そりゃもうぱぁっと遊びたい。
……まぁ、この世界で『遊ぶ』って何よ、ってところはあるんだけどね……。
六花の頃は、『遊ぶ』と言ったら友達と外出したり、日がな一日ゴロゴロだらだらゲームしたり……そんな感じで時間を使っていたものだ。
シリウス様が言うには、国外での電子機器類は、魔力を持つ者が使うと壊れてしまうらしい。……国外のゲームを輸入すれば遊べるじゃんと安易に思っていたのに、ざーんねん。
とにかく、自分の意志で自由に時間を使いたい。そう訴えると、セラは悩ましげな表情でゆるく目を伏せた。
「なるほど……お嬢様の言い分は理解しました。それでは、平日五日に加えて土曜の午前を勉強の時間に当てるとして、土曜の午後と日曜を、お嬢様の言う『自由時間』にいたしましょう。それでよろしいですね?」
「わぁい、ありが……」
ん? あれ?
六花の頃の学校よりも、勉強に当てられている時間が多くない?
セラはにっこり笑うと告げた。
「土日はオブシディアン坊っちゃまも帰ってくるので、丁度いいですね。あと、月に一回土曜に通院しなければならないので、その際は半日分の勉強時間が潰れてしまいますが、お嬢様の自由時間も半日潰れるのでおあいこですね」
「おあいこじゃないよ!?」
わたしの一人損って感じだよ! わたしの時間!
いやまぁ、確かに、勉強は大事だよね、うん。
しかもこのおうちは、この国随一の名門旧家。子供のわたしにだって、こうして侍女を付けられているのだ。ゆくゆくはわたしにも、上に立つ者らしさというか、上流階級な教養が求められるのだろう。
「……そういえばなんだけど、これからも、セラがわたしにお勉強を教えてくれるの?」
わたしはこてんと首を傾げた。
セラが優秀なのは知っている。わたしも、セラに教わる分には何も文句はない。
わたしの甘えを許さない厳しい先生になりそうだなぁと内心へこたれているものの、それでも気心知れた相手だから、わたしも安心できる。
でもそうすると、セラの仕事量が気になってきてしまう。
ただでさえわたしの身の回りのお世話で忙しいのに、加えて勉強の面倒を見てもらうのは、セラへの負担がかかりすぎてしまうのでは?
わたしの言葉に、セラは苦笑した。
「私の片手間で教えるのも良くないですからね。家庭教師の方をお呼びしています。第一分家のご出身で、才能ある優秀な方だと聞いていますよ。オブシディアン坊っちゃまの家庭教師も勤めていらっしゃったそうです」
「お兄様の!?」
わたしのやる気がぐんっと一気に上がる。
兄の家庭教師! ということは、幼い頃の兄にまつわる話を色々知っているかもしれないってことかな!?
途端に楽しみになってきたのだから、我ながら現金なものだ。
そういえば、ここは≪魔法使いだけの国≫『ラグナル』。教養と言うと、文学や美術や音楽が浮かぶけれど、この国ではそれに加えて『魔法』も入ってくるはず。
これからやるのが魔法の勉強だと思うと、ちょっとテンションも上がるってものよ。もう「生命エネルギー尽きて死ぬから魔法使っちゃダメ」とも言われないだろうし、わたし、頑張ろう。
「今日は、その家庭教師の方との顔合わせといたしましょうね。もうじき、来る頃だと思うんですけど」
「うん。……ちなみにセラは、その家庭教師さんがどんな人なのか知ってるの?」
これから知り合う人なのだ、少しでも情報が欲しい。
うーん、とセラは首を傾げた。
「実際のところ、私もお会いしたことは無いんですよ。第一分家当主のダリア様とは、お嬢様も先日お会いしましたよね? 家庭教師の方は、そのダリア様の弟君なんです。お名前は、ルートヴィヒ様と仰るらしいですよ」
うひ、と思わず頬を引き攣らせた。
ダリアと会ったのは記憶に新しい。華やかで艶っぽい人だったけど、押しがちょっと強くてビビってしまった。
……ルートヴィヒ先生も、彼女のようにぐいぐい来る人だったらどうしよう? わたし、上手くやっていけるかな?
「本を読みながらお待ちしましょう」と言いながら、セラはわたしの目の前にととんと本を積み上げた。
ここまで来たら、わたしも腹を括ろうじゃないか。前世では勉強より楽しいものがあったというだけで、決して勉強が嫌いなわけではないのだ。
薬草学の本(本というよりは図説がいっぱいあって図鑑のようだ)を読みながら、わたしたちはしばしの間、ルートヴィヒ先生の到着を待つ。しかし三十分が過ぎた頃合いで、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
セラが時計を見ながら眉を顰める。
「遅いですね……」
「迷子になっちゃったのかな?」
「まさか……第一分家と本家は、転移陣ですぐの筈です。お嬢様も先日お使いになったでしょう?」
「じゃあ、今日の予定を忘れてるとかかも。忘れてなくても、どこかで伝達ミスが起こってたりするかもしれないし」
うーんと首を傾げながらも、セラは立ち上がると「ちょっと行ってきますね」と言って部屋を出て行った。やがて帰ってきたセラは、困惑顔のままわたしを見る。
「おかしいですね……第一分家へ問い合わせてきたんですが、もう出たと言われてしまって」
「本家で迷子にでもなってるのかなぁ?」
ロードライト本家城は広い。本館と離れがあって、私が普段いるのは離れの方だ。本館側にある兄の部屋や『当主の間』からは少し距離がある。
兄の家庭教師だったのならば、恐らく行動範囲は本館側だ。離れには足を踏み入れたことがないかもしれない。
「ちょうどシギルと出会ったので、彼にルートヴィヒ先生の捜索を頼んで来ました。快諾してくれましたし、私たちはそのまま待っていましょう」
「なら、いっか」
本家当主の従者であるシギルなら、迷子も難なく見つけてくれるだろう。他の誰より信頼できる。
頷き合ったわたしたちは、そのまま読書を続けることにした。読んでいた本が読み終わったとセラに告げると、セラは次の本に何がいいかを選定してくれる。
「お嬢様は、算術や文法の成績はすこぶる良いですから、そちらは心配ないでしょう。正直予想以上です。ただ、魔法陣の読み書きは壊滅的ですね。魔法薬と薬草の知識もほぼ皆無。引き継ぎをしておくので、今はその辺りの知識を中心に身につけていくのがよろしいでしょう」
「セラって、上げて落とすよね」
褒められたことも忘れちゃうってば。
そんなやり取りをしていると、ふと廊下が騒がしくなってきた。普段この辺りはわたしの面倒を見る人しか来ないので、こんなに騒がしいのは珍しい。わたしとセラは思わず顔を見合わせる。
セラが様子を伺うようにそうっと扉を開けた。瞬間、開いた扉の隙間から、男の人の泣き言のような叫び声が聞こえてくる。
「無理です無理ですやっぱり無理です! リッカ様の家庭教師なんて、私には出来ません! 向いてないんですってばぁ!」
……なんか今、わたしの名前が呼ばれた気がした。
わたしも扉まで近付くと、開いた隙間を覗き込む。続いて、呆れたようなシギルの声も聞こえてきた。
「何を寝惚けたことを仰る。ダリア様は快諾してくださったと言うのに。次期当主様への教育の件に関しても、我が主人は貴方を大層高く評価しているんですよ」
「イヤマジで無理です、オブシディアン様の家庭教師ってプレッシャーと心労が半端なくて、私体重十キロ落ちましたからね。オブシディアン様は確かに優秀でしたが、その分厳しかったし怖かったし怖かったし! そんなオブシディアン様の妹君なんて、もう怖いの確定じゃないですか! 絶対嫌です! そもそもオブシディアン様の妹君に対し、私ごときが教えられることなどありませんので! ですので私は早々に失礼させて頂きます!!」
「リッカ様は怖くありません! とても麗しく可愛らしい幼女です!! 多少怖かろうが、それはそれでご褒美でしょうが!!」
シギル、熱意を入れるところが違う気がするよ。
セラは大きなため息をつくと、大きく扉を開け放った。
「全く、何の騒ぎです?」
セラの言葉に、二対の瞳がこちらを向いた。
シギルに取り押さえられているのは、濃いオレンジ色の髪をした男の人だ。歳は、シギルと同じくらいに見える。瞳はダリアやミラと同じ藍色なのに、思いっきり情けない顔をしているせいで、あまり二人と似ているようには見えなかった。
瞬間、シギルが笑顔でその男性を抑え込んだ。瞬きをした刹那の出来事に、わたしは思わず目を瞠る。勢いよく地面に引き倒された男性は、床にゴチンと頭をぶつけて涙目だ。
「お騒がせして申し訳ございません、リッカ様、セラ様。確かルートヴィヒ様をお探しでしたよね? こちらになります」
「あ、ありがとう、シギル……」
シギルは、床に転がる男性――ルートヴィヒ先生の首根っこを掴むと、わたしの目線ほどまで引っ張り上げた。
「ルートヴィヒ様、こちらの麗しく儚く可愛らしい利発なお嬢様が、我が主人のご息女であるリッカ様でございます。どうぞよろしくお願いしますね、ルートヴィヒ様」
シギルのその、何とも言えない優しい声音が怖いなぁ……。
「り、リッカです。よろしくお願いします、ルートヴィヒ先生」
「あぁ……そのぉ、こんな格好ですみませんね、リッカ様……」
そう言って、ルートヴィヒ先生はじっとわたしの顔を覗き込んだ。頭のてっぺんから爪先までをじっと見られているものだから、なんだか少々居心地は悪い。
「見過ぎです」とシギルに肘を入れられて、やっとルートヴィヒ先生はわたしを注視するのを止めた。
「……オブシディアン様とは、あまり似ていらっしゃらない? ……ですね?」
「だから、初めからそう言っているでしょうに」
……一体どんなトラウマを兄に負わされたの、この人?
シギルは大きなため息をつくと、突き放すようにルートヴィヒ先生から手を離す。よろけながらも、ルートヴィヒ先生は自分の足で立ち上がった。
「到着が遅れ申し訳ありません……少し迷っておりまして……ほら、本家は広いですから」
「あぁ……広いですからね。仕方……」
「リッカ様、絆されないでくださいませ。迷子が肘掛け椅子の中に隠れるものですか。ルートヴィヒ様はもっと心を込めて真摯に謝罪なさい」
シギルに睨まれ、ルートヴィヒ先生はもう一度「申し訳ありませんでした」とわたしとセラに謝罪した。
背丈はシギルと同じか、少し高いくらいなんだけど、ルートヴィヒ先生の方が華奢だ。というか、なんだか薄っぺらい。
顔立ちもよく見たら華やかなのに、気の弱そうな部分が顔と雰囲気に表れていて、少し猫背気味なのも相まり、ちょっともったいないなと思う。
ルートヴィヒ先生はコホンと咳払いをすると、わたしを見ては礼を執った。
「失礼しました、リッカ様。私、ロードライト第一分家のルートヴィヒと申します。オブシディアン様が学校に入学されるまでは、オブシディアン様の家庭教師を勤めさせて頂いておりました。本日、こうしてまたリッカ様の家庭教師としてお目見えでき、大変光栄でございます」
光栄だなんて絶対思ってないよね……? だったら失踪しないもんねぇ……。
ルートヴィヒ先生は、わたしを見てはおずおずとした笑みを浮かべてみせた。
「リッカ様。もし私にご不満などがありましたら、その、よろしければ婉曲にお伝えくださると幸いです……。ド直球ですと、私の心が折れてしまいますので……。あと、熱心なのは結構ですが、専門家レベルの質問を連発された挙句、私がしどろもどろになったら失望したみたいな顔をされるのも死にたくなります……。どうか、その、出来ればでいいんですけど、お手柔らかにお願いいたしますね……」
うぁぁ、なんか、ルートヴィヒ先生の心に大きな爪痕が残ってるよ。
お兄様、人を闇堕ちさせないでくださいませ!
なんとも良い笑顔でそう言うセラに、わたしはひくりと頬を引き攣らせた。
退院して、その直後に第一分家に行って、それからすぐにまた寝込んで。やっと今朝方起き上がる許可が出たばかりなのだ。机に向かって勉強するより、正直なところ、遊びたい。そりゃもうぱぁっと遊びたい。
……まぁ、この世界で『遊ぶ』って何よ、ってところはあるんだけどね……。
六花の頃は、『遊ぶ』と言ったら友達と外出したり、日がな一日ゴロゴロだらだらゲームしたり……そんな感じで時間を使っていたものだ。
シリウス様が言うには、国外での電子機器類は、魔力を持つ者が使うと壊れてしまうらしい。……国外のゲームを輸入すれば遊べるじゃんと安易に思っていたのに、ざーんねん。
とにかく、自分の意志で自由に時間を使いたい。そう訴えると、セラは悩ましげな表情でゆるく目を伏せた。
「なるほど……お嬢様の言い分は理解しました。それでは、平日五日に加えて土曜の午前を勉強の時間に当てるとして、土曜の午後と日曜を、お嬢様の言う『自由時間』にいたしましょう。それでよろしいですね?」
「わぁい、ありが……」
ん? あれ?
六花の頃の学校よりも、勉強に当てられている時間が多くない?
セラはにっこり笑うと告げた。
「土日はオブシディアン坊っちゃまも帰ってくるので、丁度いいですね。あと、月に一回土曜に通院しなければならないので、その際は半日分の勉強時間が潰れてしまいますが、お嬢様の自由時間も半日潰れるのでおあいこですね」
「おあいこじゃないよ!?」
わたしの一人損って感じだよ! わたしの時間!
いやまぁ、確かに、勉強は大事だよね、うん。
しかもこのおうちは、この国随一の名門旧家。子供のわたしにだって、こうして侍女を付けられているのだ。ゆくゆくはわたしにも、上に立つ者らしさというか、上流階級な教養が求められるのだろう。
「……そういえばなんだけど、これからも、セラがわたしにお勉強を教えてくれるの?」
わたしはこてんと首を傾げた。
セラが優秀なのは知っている。わたしも、セラに教わる分には何も文句はない。
わたしの甘えを許さない厳しい先生になりそうだなぁと内心へこたれているものの、それでも気心知れた相手だから、わたしも安心できる。
でもそうすると、セラの仕事量が気になってきてしまう。
ただでさえわたしの身の回りのお世話で忙しいのに、加えて勉強の面倒を見てもらうのは、セラへの負担がかかりすぎてしまうのでは?
わたしの言葉に、セラは苦笑した。
「私の片手間で教えるのも良くないですからね。家庭教師の方をお呼びしています。第一分家のご出身で、才能ある優秀な方だと聞いていますよ。オブシディアン坊っちゃまの家庭教師も勤めていらっしゃったそうです」
「お兄様の!?」
わたしのやる気がぐんっと一気に上がる。
兄の家庭教師! ということは、幼い頃の兄にまつわる話を色々知っているかもしれないってことかな!?
途端に楽しみになってきたのだから、我ながら現金なものだ。
そういえば、ここは≪魔法使いだけの国≫『ラグナル』。教養と言うと、文学や美術や音楽が浮かぶけれど、この国ではそれに加えて『魔法』も入ってくるはず。
これからやるのが魔法の勉強だと思うと、ちょっとテンションも上がるってものよ。もう「生命エネルギー尽きて死ぬから魔法使っちゃダメ」とも言われないだろうし、わたし、頑張ろう。
「今日は、その家庭教師の方との顔合わせといたしましょうね。もうじき、来る頃だと思うんですけど」
「うん。……ちなみにセラは、その家庭教師さんがどんな人なのか知ってるの?」
これから知り合う人なのだ、少しでも情報が欲しい。
うーん、とセラは首を傾げた。
「実際のところ、私もお会いしたことは無いんですよ。第一分家当主のダリア様とは、お嬢様も先日お会いしましたよね? 家庭教師の方は、そのダリア様の弟君なんです。お名前は、ルートヴィヒ様と仰るらしいですよ」
うひ、と思わず頬を引き攣らせた。
ダリアと会ったのは記憶に新しい。華やかで艶っぽい人だったけど、押しがちょっと強くてビビってしまった。
……ルートヴィヒ先生も、彼女のようにぐいぐい来る人だったらどうしよう? わたし、上手くやっていけるかな?
「本を読みながらお待ちしましょう」と言いながら、セラはわたしの目の前にととんと本を積み上げた。
ここまで来たら、わたしも腹を括ろうじゃないか。前世では勉強より楽しいものがあったというだけで、決して勉強が嫌いなわけではないのだ。
薬草学の本(本というよりは図説がいっぱいあって図鑑のようだ)を読みながら、わたしたちはしばしの間、ルートヴィヒ先生の到着を待つ。しかし三十分が過ぎた頃合いで、なんだか雲行きが怪しくなってきた。
セラが時計を見ながら眉を顰める。
「遅いですね……」
「迷子になっちゃったのかな?」
「まさか……第一分家と本家は、転移陣ですぐの筈です。お嬢様も先日お使いになったでしょう?」
「じゃあ、今日の予定を忘れてるとかかも。忘れてなくても、どこかで伝達ミスが起こってたりするかもしれないし」
うーんと首を傾げながらも、セラは立ち上がると「ちょっと行ってきますね」と言って部屋を出て行った。やがて帰ってきたセラは、困惑顔のままわたしを見る。
「おかしいですね……第一分家へ問い合わせてきたんですが、もう出たと言われてしまって」
「本家で迷子にでもなってるのかなぁ?」
ロードライト本家城は広い。本館と離れがあって、私が普段いるのは離れの方だ。本館側にある兄の部屋や『当主の間』からは少し距離がある。
兄の家庭教師だったのならば、恐らく行動範囲は本館側だ。離れには足を踏み入れたことがないかもしれない。
「ちょうどシギルと出会ったので、彼にルートヴィヒ先生の捜索を頼んで来ました。快諾してくれましたし、私たちはそのまま待っていましょう」
「なら、いっか」
本家当主の従者であるシギルなら、迷子も難なく見つけてくれるだろう。他の誰より信頼できる。
頷き合ったわたしたちは、そのまま読書を続けることにした。読んでいた本が読み終わったとセラに告げると、セラは次の本に何がいいかを選定してくれる。
「お嬢様は、算術や文法の成績はすこぶる良いですから、そちらは心配ないでしょう。正直予想以上です。ただ、魔法陣の読み書きは壊滅的ですね。魔法薬と薬草の知識もほぼ皆無。引き継ぎをしておくので、今はその辺りの知識を中心に身につけていくのがよろしいでしょう」
「セラって、上げて落とすよね」
褒められたことも忘れちゃうってば。
そんなやり取りをしていると、ふと廊下が騒がしくなってきた。普段この辺りはわたしの面倒を見る人しか来ないので、こんなに騒がしいのは珍しい。わたしとセラは思わず顔を見合わせる。
セラが様子を伺うようにそうっと扉を開けた。瞬間、開いた扉の隙間から、男の人の泣き言のような叫び声が聞こえてくる。
「無理です無理ですやっぱり無理です! リッカ様の家庭教師なんて、私には出来ません! 向いてないんですってばぁ!」
……なんか今、わたしの名前が呼ばれた気がした。
わたしも扉まで近付くと、開いた隙間を覗き込む。続いて、呆れたようなシギルの声も聞こえてきた。
「何を寝惚けたことを仰る。ダリア様は快諾してくださったと言うのに。次期当主様への教育の件に関しても、我が主人は貴方を大層高く評価しているんですよ」
「イヤマジで無理です、オブシディアン様の家庭教師ってプレッシャーと心労が半端なくて、私体重十キロ落ちましたからね。オブシディアン様は確かに優秀でしたが、その分厳しかったし怖かったし怖かったし! そんなオブシディアン様の妹君なんて、もう怖いの確定じゃないですか! 絶対嫌です! そもそもオブシディアン様の妹君に対し、私ごときが教えられることなどありませんので! ですので私は早々に失礼させて頂きます!!」
「リッカ様は怖くありません! とても麗しく可愛らしい幼女です!! 多少怖かろうが、それはそれでご褒美でしょうが!!」
シギル、熱意を入れるところが違う気がするよ。
セラは大きなため息をつくと、大きく扉を開け放った。
「全く、何の騒ぎです?」
セラの言葉に、二対の瞳がこちらを向いた。
シギルに取り押さえられているのは、濃いオレンジ色の髪をした男の人だ。歳は、シギルと同じくらいに見える。瞳はダリアやミラと同じ藍色なのに、思いっきり情けない顔をしているせいで、あまり二人と似ているようには見えなかった。
瞬間、シギルが笑顔でその男性を抑え込んだ。瞬きをした刹那の出来事に、わたしは思わず目を瞠る。勢いよく地面に引き倒された男性は、床にゴチンと頭をぶつけて涙目だ。
「お騒がせして申し訳ございません、リッカ様、セラ様。確かルートヴィヒ様をお探しでしたよね? こちらになります」
「あ、ありがとう、シギル……」
シギルは、床に転がる男性――ルートヴィヒ先生の首根っこを掴むと、わたしの目線ほどまで引っ張り上げた。
「ルートヴィヒ様、こちらの麗しく儚く可愛らしい利発なお嬢様が、我が主人のご息女であるリッカ様でございます。どうぞよろしくお願いしますね、ルートヴィヒ様」
シギルのその、何とも言えない優しい声音が怖いなぁ……。
「り、リッカです。よろしくお願いします、ルートヴィヒ先生」
「あぁ……そのぉ、こんな格好ですみませんね、リッカ様……」
そう言って、ルートヴィヒ先生はじっとわたしの顔を覗き込んだ。頭のてっぺんから爪先までをじっと見られているものだから、なんだか少々居心地は悪い。
「見過ぎです」とシギルに肘を入れられて、やっとルートヴィヒ先生はわたしを注視するのを止めた。
「……オブシディアン様とは、あまり似ていらっしゃらない? ……ですね?」
「だから、初めからそう言っているでしょうに」
……一体どんなトラウマを兄に負わされたの、この人?
シギルは大きなため息をつくと、突き放すようにルートヴィヒ先生から手を離す。よろけながらも、ルートヴィヒ先生は自分の足で立ち上がった。
「到着が遅れ申し訳ありません……少し迷っておりまして……ほら、本家は広いですから」
「あぁ……広いですからね。仕方……」
「リッカ様、絆されないでくださいませ。迷子が肘掛け椅子の中に隠れるものですか。ルートヴィヒ様はもっと心を込めて真摯に謝罪なさい」
シギルに睨まれ、ルートヴィヒ先生はもう一度「申し訳ありませんでした」とわたしとセラに謝罪した。
背丈はシギルと同じか、少し高いくらいなんだけど、ルートヴィヒ先生の方が華奢だ。というか、なんだか薄っぺらい。
顔立ちもよく見たら華やかなのに、気の弱そうな部分が顔と雰囲気に表れていて、少し猫背気味なのも相まり、ちょっともったいないなと思う。
ルートヴィヒ先生はコホンと咳払いをすると、わたしを見ては礼を執った。
「失礼しました、リッカ様。私、ロードライト第一分家のルートヴィヒと申します。オブシディアン様が学校に入学されるまでは、オブシディアン様の家庭教師を勤めさせて頂いておりました。本日、こうしてまたリッカ様の家庭教師としてお目見えでき、大変光栄でございます」
光栄だなんて絶対思ってないよね……? だったら失踪しないもんねぇ……。
ルートヴィヒ先生は、わたしを見てはおずおずとした笑みを浮かべてみせた。
「リッカ様。もし私にご不満などがありましたら、その、よろしければ婉曲にお伝えくださると幸いです……。ド直球ですと、私の心が折れてしまいますので……。あと、熱心なのは結構ですが、専門家レベルの質問を連発された挙句、私がしどろもどろになったら失望したみたいな顔をされるのも死にたくなります……。どうか、その、出来ればでいいんですけど、お手柔らかにお願いいたしますね……」
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