上 下
61 / 73
第一章 ロードライトの令嬢

61 わたしの帰る場所

しおりを挟む
 深い、深い水の中を、どこまでも落ちていくような感覚だった。
 冷たくもなければ、苦しくもない。どちらかというと夏の日のプールのような、あの弾けるキラキラとした感じ。銀の細かな泡が、上に向かって舞い上がって行く。揺蕩う身体が心地よくて、わたしはそっと目を閉じると息を吐いた。

 ……気持ち良すぎて、寝ちゃいそう。

 ダメだ、ダメだ、眠っちゃダメだとは思うけど、なんで眠っちゃダメなのかは思い出せない。瞼がぐぐぐっと落ちるので、頑張って抗おうとするものの、眠気に思わず負けてしまう。

 ……ま、いっか。眠っちゃえ……。

「よくなーーーーい!!!!」

 その時、スパーーーッン!! とほっぺを思いっきり叩かれた。眠気が一瞬でパチンッと消えて、「ひゃぁんっ!?」と慌てて身を起こす。

「なに、何、だれっ!?」

「私よ、わ・た・し!」

「……なぁんだ、雪の女王か……」

 雪の女王なら、いいや。わたしは眠たいのだ。今すぐコテンと寝入ってしまいたい。

「何が『なぁんだ』よ、もうっ! よくも、この私を怒らせてくれたわねっ!」

「いっ!? いひぁいっ、いひゃい!」

 むぅっと頬を膨らませた雪の女王は、わたしの鼻をぐいっと強く摘んだ。わたしは思わず悲鳴を上げてのたうち回る。……遠慮のカケラもない摘み方だったよ。わたしの鼻、ちゃんと真ん中に付いてる? なんだか心配になってきた。

 涙目になって鼻を覆ったところで、ふと「ここ、どこ?」と辺りを見渡した。
 見慣れない場所だ。ロードライト本家城に少し似ているけれど、雰囲気が少し違う気がする。ただっ広い空間に、真っ白の石が壁にも柱にも使われている様子から、一番イメージにしっくりくるのは……神殿、だろうか? 
 どこもかしこもピカピカで、上からは暖かな陽射しがさんさんと降り注いでいる。床に敷かれた絨毯の上に、わたしはちょこんと座っていた。
 ……さっきまでの水はどこに行ったんだろう? 夢? 何が、どれが夢??

「……わたし、どうしてこんなところに……?」

 最後に何してたっけ、と、思った瞬間思い出した。
 ……そうだ。手術道具にわたしの許可を宿すための魔法を掛けて、それから――

「でもそれが、どうしてこんな綺麗なところにいることになるの!? もしかして、ここって死後の世界っ!?」

 なんと、うっかり旅立っちゃった!?

「死んでないわよ」と雪の女王は、わたしのほっぺをむいんとつねりながら言う。痛い痛い、分かったってば。

「リッカの場合は『まだ』って感じだけどね」

「……ここは、どこ?」

「生と死の狭間にある世界、かな。普通はね、誰もがこの場所を素通りして行くのよ」

「素通り?」

幽霊ゴーストだけが、ここに留まるの。……どちらにも行けずにね」

 立ち上がった雪の女王が先を指し示してくれたが、ぼんやり霞んでいてよく見えない。ふぅんと相槌だけ打って、それよりも、と身を乗り出した。

「まずい、まずいよっ! わたし、前の世界にちゃんと帰れます? それともダメだった?」

「もうちょっとのーんびり寝てたらダメだったと思うわよ? 起こしてあげた私に感謝なさい! ……そう言えば、あなた、私がせっかくあげたネックレスを使ったわね!?」

「ひゃうっ、ごめんなさいっ!!」

 雪の女王がキッと眉を吊り上げたので、わたしは慌てて謝罪した。しかし雪の女王は、すぐに「冗談よぉ。怒ってないわ」と言って笑う。

「あなたのお兄様が、あなたに生命力を分け与えるときに、私のネックレスを使ったでしょう? その縁で、私も、ここへあなたを起こしに来ることが出来たのよ」

「おぉぅ……」

 ただの思いつきだったのだけど、あのネックレス、めちゃくちゃいい働きしてくれてる。絶対幸運値EXだったよ。装備しといて良かったぁ。

「……起こしてくれて、ありがとうございます。でも、どうやって帰ればいいんですか?」

 そう尋ねると、雪の女王は「帰り道は向こうにあるわ」と視線を向けた。そこには何段も続く階段があって、わたしは思わず泣きそうになる。
 ……ここを、上っていけと。無理無理、絶対途中で倒れるよ。

 恨みがましい目で見つめていると、雪の女王が軽く指を鳴らした。その途端、階段は、エスカレーターのようにいきなり勝手に動き始める。ぎょっと目を瞠って雪の女王を見上げたわたしに、雪の女王は片目を瞑ってみせた。

「さぁさ、早く帰りなさい。大事な人たちが、あなたの帰りを待っているんでしょ?」

「……うん」

 雪の女王が、わたしの背中をそっと押す。ちょっとよろけたけど、転びはしなかった。階段までの道を、歩いていく。

「……本当に、行っちゃうの?」

 小さな、小さな、声だった。
 聞き逃してしまいそうな、空耳かと思ってしまうような小さな声に、それでもわたしは振り返る。

「ずっとここにいても、いいのよ」

 雪の女王は、少し、寂しそうな顔をしていた。

「これから先、生きていても、いいことなんてあんまりないよ」

 ――なんで、そんなことを、そんな顔で言うんだろう。

 すっごい美人で、魔法が上手で、死後も『建国の英雄』として讃えられていて、五百年経った今も尚、その子孫であるロードライトは国内随一の家系として君臨していて――それなのに。

(……どうして、雪の女王は幽霊になって現世に留まっているんだろう)

 雪の女王にとっての大事な人、会いたい人は、みんなあの世にいるんじゃないの?

(会いたい人に会えないのは、どれだけ辛く、苦しいんだろう――)

 拳を、ぎゅっと握りしめた。

「……いいことがなくても、それでもわたしは、みんなといたいよ」

 ……ごめんね、雪の女王。
 それでも、わたしの大事な人たちは、今のこの世で生きている。

「幽霊になって、お兄様を見守るっていうのも、素敵で捨て難い案だけど……でも、幽霊になっちゃったら、お兄様と一緒にピクニックが出来なくなっちゃうから」

「……えぇ、そうね」

 雪の女王は、にっこりと笑った。
 涙のひとひらさえも伺えない、とても綺麗で、完璧な笑顔だった。

「ほぅら、リッカ! 早く行かないと、本当に幽霊になっちゃうわよ? もう、次は迎えに来てあげないんだからね! 勝手に迷子におなりなさい!」

「行くよ、行くって……あ、あの、雪の女王! 一つ、お願いがあるんです!」

 身を翻そうとした雪の女王に、慌てて声を掛けた。「なぁに?」ときょとんと目を瞬かせる雪の女王に、わたしは言う。

「良かったら、でいいんだけど……でも、お願いします。……わたしが元気になったら、その時に――」


 ◇ ◆ ◇


 ぼんやりとした意識が、辺りの物音でゆらり、ゆらりと覚醒する。
 まぶたを開けようと頑張るものの、思考はうまくまとまらない。なんでまぶたを開けたかったのかも分からなくなって、諦めて、ふっと意識がまた落ちる。
 耳元で、一定間隔で鳴り続けている機械音は、普段なら眠りを妨げられてだいぶ不快になりそうなものなのに、何故か今だけは、その音を聞いていると安心できた。

 ……なんだか、長い夢を見ていたみたい。

「リッカさん、リッカさん、聞こえますか?」

 それから数度、ふわふわと意識の合間を彷徨った頃には、頭の中もだいぶすっきりとしていた。誰かの呼び声に、わたしはゆっくりとまぶたを開ける。

 わたしの顔を覗き込んでいた看護師さんは、わたしと目が合うとニコッと笑った。

「手術は無事終わりましたよ」

「…………」

 ありがとうございます、と言おうとしたものの、口には酸素吸入のチューブのようなものが取り付けられていて、上手く話せない。恐らくは顔自体もがっちり固定されているのだろう、そんな感覚がある。
 まぶたをパチパチとさせることで意思表示をすると、看護師さんは優しくわたしの頭を撫でた。

「よく頑張りましたね」

 ……まぁ、わたしは寝てただけだけどね。
 頑張ったのはお医者さんたちだ。「無事終わった」ってことは、わたしの魔力が暴れ出すことは無かったってこと、かな。ひとまず、ほっと一安心。

 術後の経過は順調ということで、わたしは翌朝、ICUを出ことが許された。戻ってきた病室で、やっと会うことができた兄たちと再会の挨拶を交わす。

 兄たちの元にも『わたしの手術が無事終わった』という一報は届いていたようなのだが、それでもわたしの顔を見るまでは、不安でたまらないと言った表情をしていた。わたしを見て一瞬晴れたその顔は、やがてわたしが乗せられているストレッチャーと、わたしに繋がれている大量の器具を見てすぐさま曇る。

「大丈夫ですよ、お兄様」

「……今度の『大丈夫』は、本当に信じていいんだろうな?」

 未だ疑わしげの兄に、思わず苦笑した。相変わらず信用されていないようだ。わたしと共に病室へとやって来たアルファルドさんが、取りなすように口を開く。

「経過もすこぶる順調です。早速今日から起き上がる訓練も始めますよ」

「手術を終えた翌日なのに!?」

 ぎょっと目を向く皆に「だから、言ったでしょう? 大丈夫ですって」と胸を張った。途端、兄から軽くほっぺをつねられる。いひゃいいひゃい。

「様子を見ながらになりますが、合併症なども起きてはいないようですし、何よりリッカ嬢自身に意欲がある。こういう子は、早く元気になりますよ」

「ええ! わたし、元気になりたいですから!」

 手首には点滴の針が刺さって動かないものの、なんとかその場でぐっと手を握りしめて意欲を示す。
 せっかく問題が取り除かれたのだから、後は体力と筋肉を付けるだけだ。いい加減、この薄っぺらでへにゃへにゃな身体には飽きてきた。せめて声くらいはまともに出せるようになりたい。この腹筋じゃ、歌おうにも間違いなく息が続かないのだから。

「……それよりも」

 と、わたしはずずいっと周囲を見渡した。兄、セラ、シリウス様、それぞれとしっかり目を合わせると、あからさまにため息をついてみせる。

「皆さま方、帰ってきたわたしに、何か言うことはないんですか? 寂しいなぁ」

 三人は軽く目を瞠ると、それぞれクスッと微笑んだ。

「おかえり、リッカ。よく頑張ったな」
「おかえりなさい、お嬢様。心配しておりましたよ」
「おかえり! 早く元気になろうな、リッカ!」

「うふふっ! ただいま、みんな!」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

アイテムボックスだけで異世界生活

shinko
ファンタジー
いきなり異世界で目覚めた主人公、起きるとなぜか記憶が無い。 あるのはアイテムボックスだけ……。 なぜ、俺はここにいるのか。そして俺は誰なのか。 説明してくれる神も、女神もできてやしない。 よくあるファンタジーの世界の中で、 生きていくため、努力していく。 そしてついに気がつく主人公。 アイテムボックスってすごいんじゃね? お気楽に読めるハッピーファンタジーです。 よろしくお願いします。

令嬢に転生してよかった!〜婚約者を取られても強く生きます。〜

三月べに
ファンタジー
 令嬢に転生してよかった〜!!!  素朴な令嬢に婚約者である王子を取られたショックで学園を飛び出したが、前世の記憶を思い出す。  少女漫画や小説大好き人間だった前世。  転生先は、魔法溢れるファンタジーな世界だった。リディーは十分すぎるほど愛されて育ったことに喜ぶも、婚約破棄の事実を知った家族の反応と、貴族内の自分の立場の危うさを恐れる。  そして家出を決意。そのまま旅をしながら、冒険者になるリディーだったのだが? 【連載再開しました! 二章 冒険編。】

7個のチート能力は貰いますが、6個は別に必要ありません

ひむよ
ファンタジー
「お詫びとしてどんな力でも与えてやろう」 目が覚めると目の前のおっさんにいきなりそんな言葉をかけられた藤城 皐月。 この言葉の意味を説明され、結果皐月は7個の能力を手に入れた。 だが、皐月にとってはこの内6個はおまけに過ぎない。皐月にとって最も必要なのは自分で考えたスキルだけだ。 だが、皐月は貰えるものはもらうという精神一応7個貰った。 そんな皐月が異世界を安全に楽しむ物語。 人気ランキング2位に載っていました。 hotランキング1位に載っていました。 ありがとうございます。

虐げられて死んだ僕ですが、逆行転生したら神様の生まれ変わりで実は女の子でした!?

RINFAM
ファンタジー
無能力者として生まれてしまった僕は、虐げられて誰にも愛されないまま死んだ。と思ったら、何故か5歳児になっていて、人生をもう一度やり直すことに!?しかも男の子だと信じて疑わなかったのに、本当は女の子だったんだけど!!??

帝国に売られた伯爵令嬢、付加魔法士だと思ったら精霊士だった

紫宛
ファンタジー
代々、付加魔法士として、フラウゼル王国に使えてきたシルヴィアス家。 シルヴィアス家には4人の子供が居る。  長女シェイラ、4属性(炎、風、水、土)の攻撃魔法を魔法石に付加することが出来る。  長男マーシェル、身体強化の魔法を魔法石に付加することが出来る。  次女レイディア、聖属性の魔法を魔法石に付加すること出来る。 3人の子供は高い魔力で強力な魔法の付加が可能で家族達に大事にされていた。 だが、三女セシリアは魔力が低く魔法石に魔法を付加することが出来ない出来損ないと言われていた。 セシリアが10歳の誕生日を迎えた時、隣国セラフィム帝国から使者が訪れた。 自国に付加魔法士を1人派遣して欲しいという事だった。 隣国に恩を売りたいが出来の良い付加魔法士を送るのに躊躇していた王は、出来損ないの存在を思い出す。 そうして、売られるように隣国に渡されたセシリアは、自身の本当の能力に目覚める。 「必要だから戻れと言われても、もう戻りたくないです」 11月30日 2話目の矛盾してた箇所を訂正しました。 12月12日 夢々→努々に訂正。忠告を警告に訂正しました。 1月14日 10話以降レイナの名前がレイラになっていた為修正しました。 ※素人作品ですので、多目に見て頂けると幸いです※

【完結】討伐対象の魔王が可愛い幼子だったので魔界に残ってお世話します!〜力を搾取され続けた聖女は幼子魔王を溺愛し、やがて溺愛される〜

水都 ミナト
ファンタジー
不本意ながら聖女を務めていたアリエッタは、国王の勅命を受けて勇者と共に魔界に乗り込んだ。 そして対面した討伐対象である魔王は――とても可愛い幼子だった。 え?あの可愛い少年を倒せとおっしゃる? 無理無理!私には無理! 人間界では常人離れした力を利用され、搾取され続けてきたアリエッタは、魔王討伐の暁には国を出ることを考えていた。 え?じゃあ魔界に残っても一緒じゃない? 可愛い魔王様のお世話をして毎日幸せな日々を送るなんて最高では? というわけで、あっさり勇者一行を人間界に転移魔法で送り返し、厳重な結界を張ったアリエッタは、なんやかんやあって晴れて魔王ルイスの教育係を拝命する。 魔界を統べる王たるべく日々勉学に励み、幼いながらに威厳を保とうと頑張るルイスを愛でに愛でつつ、彼の家臣らと共にのんびり平和な魔界ライフを満喫するアリエッタ。 だがしかし、魔王は魔界の王。 人間とは比べ物にならない早さで成長し、成人を迎えるルイス。 徐々に少年から男の人へと成長するルイスに戸惑い、翻弄されつつも側で支え続けるアリエッタ。 確かな信頼関係を築きながらも変わりゆく二人の関係。 あれ、いつの間にか溺愛していたルイスから、溺愛され始めている…? ちょっと待って!この溺愛は想定外なのですが…! ぐんぐん成長するルイスに翻弄されたり、諦めの悪い勇者がアリエッタを取り戻すべく魔界に乗り込もうとしてきたり、アリエッタのウキウキ魔界生活は前途多難! ◇ほのぼの魔界生活となっております。 ◇創造神:作者によるファンタジー作品です。 ◇アリエッタの頭の中は割とうるさいです。一緒に騒いでください。 ◇小説家になろう様でも公開中 ◇第16回ファンタジー小説大賞で32位でした!ありがとうございました!

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

愛されない皇妃~最強の母になります!~

椿蛍
ファンタジー
愛されない皇妃『ユリアナ』 やがて、皇帝に愛される寵妃『クリスティナ』にすべてを奪われる運命にある。 夫も子どもも――そして、皇妃の地位。 最後は嫉妬に狂いクリスティナを殺そうとした罪によって処刑されてしまう。 けれど、そこからが問題だ。 皇帝一家は人々を虐げ、『悪逆皇帝一家』と呼ばれるようになる。 そして、最後は大魔女に悪い皇帝一家が討伐されて終わるのだけど…… 皇帝一家を倒した大魔女。 大魔女の私が、皇妃になるなんて、どういうこと!? ※表紙は作成者様からお借りしてます。 ※他サイト様に掲載しております。

処理中です...