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第一章 ロードライトの令嬢

54 兄との対決

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 兄の部屋を自分から訪れたのは、実際のところ初めてだった。いつも、兄の方からわたしの部屋に来てくれるものだったから、なんだか緊張してしまう。

 今日は週末。兄の学校がお休みな日だ。
 どうやら今日は、兄とシギルとでヴァルヌス監獄島に向かい、ヨハンから直接話を聞くのだという。なんだわたしの話の伝聞じゃ物足りないかとちょっとムッとするものの、まぁ物足りないのは事実だろうし、兄については気が済むまでさせてあげた方がいいようにも思う。

「お兄様、おはようございます。リッカです」

 扉をノックし、出来る限り声を張り上げた。わたしの細くて弱い声も、なんとか部屋まで届いたらしい。すぐさま部屋の扉を開けた兄は、わたしの姿に目をまんまるにしていた。

「えへへ。おうちに帰ってきたのなら、一言くらいくださいよ」

 そう言って笑うと、兄はふっと肩の力を抜いて微笑む。

「……ヴァルヌス監獄島に向かう直前に、お前の顔を見に行こうと思ってたんだ。学校から戻ったばかりだから、まだ服も着替えていない」

 なるほど確かに、今の兄は見慣れないローブを羽織っていた。肩から足首までを覆う漆黒のローブで、袖口は広く開いており、裾には紫の糸で幾何学模様が織り込まれている。『ゼロナイ』でも見たことがある格好だ。
 すらっとした兄のスタイルを覆い隠してしまうデザインなのは少し頂けないものの、代わりに魔法使いっぽさというか、ミステリアスな雰囲気は強まった。兄は顔立ちに華があるから、顔周りに黒があっても全然負けてないし、むしろ引き立っている。
 うん、やっぱり顔がいい男は黒が似合う。

「今日は、シリウス様は? 監獄島へは一緒に行かれないのですか?」

「シリウスは、ヨハンと会うよりお前と過ごしていたいそうだ。まだ早い時間だからな、僕が出発する頃くらいに来るよ。と……早く入れ。廊下は寒いだろ」

 わたしが通れるように扉を大きく押し開けながら、兄は「結構散らかっているが」と付け加えた。

 部屋の中は、兄の言う通り散らかっていた。『散らかっている』といっても、ただ服や物が散乱しているわけじゃない。壁に据え付けられた大きな本棚に入り切れなかった本たちが、机や床のあらゆるところに積み上がっているのだ。

「悪いな、足の踏み場もなくて。アイザックやシリウスにもよく叱られるんだが、つい癖で」

 アイザックとは、兄がずっと幼いころから身の回りのことを見てくれている、わたしにとってのセラのような人。見た目は優しいお爺ちゃんで、その通り温厚でとっても優しいのだけど、叱る時はビシッと容赦なく叱る人だった。兄が学校へ行き出してからは、実家である第三分家アジュールと本家を気ままに行き来する生活を送っているらしい。

 わたしを抱き上げた兄は、そのまま大股で部屋を突っ切ると、わたしをベッドの端に腰掛けさせた。ベッドだけはまだ本に侵食されていないものの、それも時間の問題だろう。

「シリウス様にも叱られたんですか? いつの間に?」

「寄宿舎で見られたんだ。とんでもないため息をつかれたよ、『マジでありえねぇ』だってさ。これでも、部屋は魔法で清められているから埃も無いし綺麗なのにな」

「お兄様。国外から来られたシリウス様に、その理屈は通じませんよ」

 そう言うも、兄の意識は既に、わたしに熱がないかを確かめる方へと向いている。おでこ、頬、首と触れた後、「うん」と頷いて身を起こした。どうやら及第点だったらしい。

「着替えても構わないか?」

 ひらひらとローブを揺らしながら、兄は確認するようにわたしを見た。わたしが頷くと、兄は軽い足取りでクローゼットの方へと歩み寄って行く。
 こちらを振り返らぬまま、兄は尋ねた。

「何をしに来た?」

 兄の肩からローブが滑り落ち、グレーのベストとスラックスが露わになる。細身のパンツがここまで似合う人もそういない。やっぱりローブで隠してしまうのは勿体無いと思う。

「お兄様は、諦めないんですね」

「諦める? 何を」

「わたしの命を」

 誰しもが諦め、受け入れたわたしの死を、ただ一人だけ諦めずにもがいてもがいて手を伸ばす。
 兄が主人公だったら良かった。そんな努力家に、神は必ず微笑むから。

 物語は、ラスボスを兄に定めた。
 ラスボスは、ハッピーエンドの前に倒されるのが世の定め。
 どんなに悩んでいたとしても、どれだけの努力を重ねていたとしても、ラスボスの努力は決して報われない。
 主人公ヒーローという正義の前に、ラスボスの積み上げたものは、何もかも全て瓦解する。

 周囲に積まれている本たちを眺めた。
 わたしはまだ、魔法の知識体系をよくは知らないけれど……それでも、まだ十歳の少年にとっては非常に難易度が高いものばかりだろう。本のタイトルをざっと読むだけでも分かる。

 魔法癒術に偏ったこれらの本を、兄が一体どんな目的のために集めたのか。
 誰よりも分かるからこそ――わたしが言わねば、兄は決して止まるまい。

「お前は諦めるのか?」

 殺気すらも籠った言葉だった。
 淡々としている癖に、ぞくりとして、心の底を冷えつかせるような、そんな凄みも感じさせる声だった。
 空気の支配が、ぐっと強まる。兄の、凍てついた蒼の目を直接向けられていたら、きっともっと圧は強かっただろう。

 一度息を吐き切り、ゆっくりと息を吸う。
 背筋を伸ばし、兄の背中を見つめると、わたしはそっと頬笑んだ。

「……やっぱり。お兄様って、ヒーローにはなれないタイプですよね」

 ラスボスの方が、ずっとずっとお似合いだ。

「……現実を見ることは、大事ですよ。夢や希望を抱くのもいいけれど、現実の厳しさと容赦の無さも、ちゃんと頭に入れておかないといけません」

 人は、死ぬ生き物だ。
 どんなに注意していても、突発的な事故や災害で、呆気なく命を落としてしまう。
 そこに、個人の努力や思想や信仰や価値観は関係なくて。
 何を信じていようとも、何に縋っていようとも、どれだけの善人でも、どれだけの悪人でも。

「人は、死ぬ時は死にます。何をしようとも、どうしようもないことはあります。運命って、そういうものです」

 胸に手を当て、はっきりとそう告げた。
 羽織ったカッターシャツのボタンを留めながら、兄は呟く。

「随分と、悟ったことを言うんだな」

「えぇ。だってわたし、死んだことがありますから」

 濁流に押し流されたときの、あの感覚。
 驚愕と、恐怖と、絶望と、そして――絶え間ない後悔。

 どうして。
 どうして、わたしが。
 嫌だ。
 溺れてる子なんて助けなきゃ良かった。
 見殺しにすれば、わたしは死ななかった。
 死にたくない。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない。
 助けて。
 ――お父さん、お母さん。


『ごめんなさい』――って。


 まだやりたいことがいっぱいあった。
 やり残したことばかりだった。
 毎日だるい、しんどい、もう疲れた、死にたいなぁって、口ではいくらでも言いながら。
 明日本当に死んじゃうなんて、心のどこを探したところで、思ってなんていなかった。

「大事なのは『生きるか死ぬか』じゃなくて、『どう生きたか』ではないでしょうか。……わたしは、楽しかったですよ? お兄様の妹に生まれて、お父様とも和解できて。みんな、優しい人ばっかりで……すごくすごく、楽しかった」

 もう、ここで終わっても悔いはない。
 孫たちに囲まれて、微笑みながら逝くおばあちゃんの気分だ。
 ――だから、その後の心残りは、この兄のことだけなのだ。

 わたしの死で、世界と自分を呪わないで欲しい。
 シリウス様と敵対しないで欲しい。
 ラスボスとして友に殺される、なんて哀しい結末のまま、短い人生を終えないで欲しい。

「……呪いになんて負けないって、お前、そう言ったじゃないか」

 兄はぽつりとそう言った。

「僕のそばにずっといるって、そう言った。僕と生きるって」

「……お兄様……」

「一緒に生きたいって、一緒に未来を歩みたいって、そう言ったのは、他でもないリッカだ」

「……だから、あれは夢物語で、でも現実は……!」

「まだ死んでもいないのに、諦めなんか付くかよ!?」

 振り絞るような怒鳴り声だった。
 兄の、そんな大きな声を聞いたのは、初めてで――兄に怒鳴りつけられたことも、初めてで。
 わたしは思わず、竦んでしまう。

 こちらを振り返った兄は、その瞳に涙を浮かべたまま、ただ強く、強く、わたしを睨みつけていた。

「何が現実だ! 何が運命だ! そんなもん僕が知ったことか!! 人は必ず死ぬ、だから諦めろって……そんなこと、母上が死んだときにもうつくづく思い知ってる! バカにするのもいい加減にしろよ!?」

 兄の瞳には、ただ、怒りの感情が灯っていた。
 本気で、兄は、わたしに対して怒っていた。

「僕が好きなのはお前なんだ! 他の誰でもない、お前が、ただ僕の妹だから、好きなんだ! お前じゃないなら誰もいらない、お前が死なないといけない世界なんて、こっちから願い下げなんだよ! そんな世界も、お前にそんな運命を課した神様も、みんなみんな呪ってやる!!」

「…………っ」

『それは違うよ』って。
『そんなこと言わないで』って。
 言わないといけなかった。
 わたしが、言ってあげないと、いけなかった。

 でも、声が出なかった。

「リッカが死んだら、その時は僕も死ぬ。リッカがいない世界に、生きる意味なんて一つもない」

 その据わった目と極まった覚悟の前では、わたしの言葉など無力に等しい。

 声が、出なかった。
 ――だから、わたしは、態度で表現することにした。

 兄の元に駆け寄って、その腰の辺りにぎゅっと抱きつく。途中本の山を数個薙ぎ倒したが、ご愛嬌だ。
 ただ無我夢中で、兄の背中に手を回した。

 わたしの身体は冷たくて、兄の身体は暖かい。それでも兄は震えていて、とても寒そうで、わたしは泣きそうになりながら、兄を強く抱きしめた。

「ごめんなさい……」

 いろんなものが、心の中で崩れていく。
 あらかじめ張っていた防衛線も、塗り固めていた建前も、虚勢も、意地も、何もかも。
 
 一回死んだことあるから、怖くないとか。
 元々あってないような命だったとか。
 この身体じゃ永くは生きられないって、一番知っていたのはわたしだとか。
 それ以上に兄のことが心配だ、とか。

 そんなもの、全部、全部。

「ごめんなさい……っ!」

 兄のことが好きだ。父のことが好きだ。
 シリウス様も、セラも、シギルも、ナナリーも、みんなのことが、大好きなのに。

 手放したくない。
 まだ、みんなと一緒に生きていたい。

「死にたくないって……言っても、いいんですか……?」

 死にたくない。
 死にたくないよ、当たり前でしょう?

「でも、大丈夫って笑わないと、みんな、悲しむ、から……悲しませちゃうのは嫌だから、だから、せめて、わたしだけは……」

 大丈夫だよって、言わないと。
 こんなの平気だよって、笑っていないと。
 怖くないと、そう虚勢を張っていないと、震えて立てなくなってしまいそうだった。

 死ぬのは怖い。
 一瞬で押し流される、濁流のような死も怖かったけど、じわじわと迫り来て、身体の端から蝕まれるような死も同じくらい、いや、それ以上に怖い。

 ぱん、と兄は両手でわたしの頬を包み込んだ。わたしの顔を上向かせ、至近距離で目を合わせる。

「誰がそんなことをお前に言った! どこの誰が、お前にそんな気を遣えと頼んだよ!?」

 兄の怒鳴る声が、胸に刺さって痛い。
 わたしの前に片膝をついて、兄はわたしを抱きしめた。普段より、ずっと乱暴な仕草だった。

「怖いって言っても誰も怒らない。死にたくないって言っていい。誰もお前を弱いなんて思わない。僕が全部聞いてやる。……お前の嘘は、痛いんだ」

 だからもう、嘘はつくなと。

「大丈夫ってもう言うな。……バカ」

 そう言ってわたしを叱る兄の声が、すごく、すごく優しかったから。

「……っ、……死にたくない……」

 一度、口を開いたら、最後。
 弱音がポロポロと溢れ出る。
 あぁ、だから、嫌だったのに。

「死にたくない……痛いのは嫌……怖いのも嫌……怖い、怖いの、すごく、いたくて、こわいんです……」

 せめてもの悪足掻きにと、涙だけは零さないように、兄のシャツを強く掴んでグッと堪える。
 こんなの、ただの意地で、見栄でしかないんだけど。

「目を閉じて……そしたらもう、二度と目覚めないんじゃないかって……そう考えるのが何より怖い……。息をするのも痛くて、すごくすごく、苦しくて……『こんなに苦しいのなら、息を止めてしまおうかな』と、ふっと思ってしまうのが怖い……」

「うん」

「みんないなくなっちゃって、お部屋に一人取り残されるのも、本当はすごく、怖いの……寂しくて、でも、みんなお仕事もあるし、行かないでって言ったら、迷惑がかかっちゃうから……言えないの……」

 兄の手が、わたしの背中を優しく撫でた。宥めるような、甘やかすかのようなそんな手つきに、どこか安心してしまう。

 わたしの情けない弱音を聞いている間、ずっと兄は、わたしの背中を撫で続けてくれた。
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