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第一章 ロードライトの令嬢

03 夢の中/人生二周目

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 ――苦しいと、ただそれだけを、いつもいつも感じていた。

 息は浅くしか吸えなくて、熱に浮かされた頭はただただぼうっとして。
 息を吸うたびに、吐くたびに、涙が出るほど痛むのだ。

 苦しくて、苦しくて、苦しくて。
 熱でたまらなく息苦しいのに、それでも身体は凍えるほどに冷たくて、いくら毛布に包んでもらっても、どれだけ暖炉の火を起こしてもらっても、ただひたすらに寒かった。

 痛い、痛い、痛い。
 苦しさに、思わず涙が零れる。
 
 息を吸うのが苦しい。
 息を吐くのが苦しい。
 心臓が脈を打つのが苦しい。
 全身に血が巡ること、そんな当たり前のことですら、わたしにとっては痛くてつらくてたまらない。

 空想と現実の狭間で、わたしは何度も何度も夢を見た。
 幸せな夢を。
 九条六花くじょうりっかという女の子の夢を。

 痛みのない身体。
 いくらだって湧いてくる気力。
 大好きな父と母。
 仲良しなお友達。
 自らの足で自由に青空の下を駆け回る、そんな些細で、けれどもわたしには、決して手に入らないほど壮大な夢。

「たすけて……」

 いくら力を振り絞っても、弱く掠れた声しか出てこない。
 そんなわたしの手を、そっと誰かが握り締めた。

「リッカ、リッカ。お前の兄はここにいるよ」

 優しい声に、暖かい手のひら。
 大好きなその声に、思わずわたしは微笑んでいた。

 まなじりから溢れた涙を、兄はそっと拭ってくれる。

「苦しいよな……痛いよな……僕が、お前の痛みを肩代わりしてやることができたなら、どんなにいいだろう……」

 震えた声が耳に届いた。
 暖かい兄の手に包まれているはずなのに、わたしのこの手は、いつだって冷たいままだ。

 兄の手が、毛布越しにわたしの背中を優しく撫でる。
 仄かに感じる温もりのおかげか、少しだけ息ができるようになった。
 ちょっぴり余裕が出てきた途端、なんだか眠くなってしまう。

「おにい……さま……あのね、わたしね……夢を、見たんです……」

 わたしの小さな声を聞き取ろうと、兄はわたしに耳を寄せた。
 ケホンと咳込み、わたしは続ける。

「変な夢……元気な夢……痛くもなくて、苦しくもない、そんな、とっても幸せな夢……」

 兄はわたしの肩をそっと撫でると「大丈夫……お前もきっと、元気になれるよ」と、そんな気休めを言って、ぎこちなく笑った。
 兄の嘘は、分かりやすい。
 それでもわたしは、静かに微笑みを湛える。

「お兄様……わたしが眠るまで、手を握っててほしいです……」

 そう言うと、すぐさま兄はわたしの手をそっと握り締めた。
 空いた右手で、優しくわたしの髪を撫でる。

「うん。お前が眠るまで、ずっと傍にいるよ……」

 その言葉に安心して、わたしは長く息を吐いた。

 目を閉じると、眠気と共に『何か』の意識が這い寄ってくる。
 真っ黒な『何か』は、わたしを飲み込まんと引きずり込む。

 まもなくわたしの意識は『何か』と融合し、混ざり合って消えるだろう。
『何か』――九条六花という、わたしの前世の少女の記憶が、ちっぽけなわたしの意識を喰らい、飲み込もうと手を伸ばす。

 抵抗する気力も残ってはいない。
 生まれてからずっと募り続けた苦しみに、とうとう心は、耐えることを諦めてしまった。

 それでも、たった一つだけ、願うなら。

「ねぇ、六花わたし……お兄様を、救ってあげて……」

 わたしの代わりに、助けてあげて。
 そのために必要なものを、あなたは既にのだから。

 わたしの最愛の人を――どうか。

 何一つ、抵抗はしなかった。
 わたしの意識は、そのまま六花の意識に飲み込まれる。


 ――こうして、九条六花はリッカ・ロードライトとなった。


 ◇◆◇


 はっと意識が覚醒する。
 飛び起きようとしたのに、身体は異様に重かった。

「な……なに……?」

 なんとかかんとか、ベッドの上で身を起こす。それだけで何故だか、とってもぐったりしてしまう。
 ……何、この身体! 何一つとして思い通りになってくれない!

 腕は棒のように細くって、筋肉なんてどこにも見当たらない。手だって見慣れたものよりも、なんだか二回りくらい小さくて――
 
 ……ちい、さく、て?

 そういえば、なんだろう……座ってるからよく分からないものの、普段より目線が、随分と低いような気が……。

「……って、ぇえぇっ!?」

 零れた声も、聴き慣れた自分の声ではない。
 わたしの声は、同級生の女子の中でも少し低めで、どっちかというとハスキーな方だった。
 まかり間違っても、こんな鈴の鳴るような高くて甘い、可愛らしい声じゃない。

 ぽかんとしたまま、自分の顔に触れた。
 日焼けと思春期でちょっと荒れた肌とは違う、すべすべでぷにぷにで、まるで赤ちゃんみたいにもちもちしてる。
 うわすごい、ずっと触っていたいかも。

「というか、ここ、何処……?」

 わたしは頬をぷにる手を休め、部屋の中をそうっと見渡した。

 今まで住んでいたお家がすっぽり入ってしまうくらいの広い部屋に、高い天井。
 床にはふかふかの絨毯が敷き詰められていて、天井には大きなシャンデリアが。
 まるで、ホテルのスイートルームみたいだ。泊まったこと一度もないけど。

 よく見たら、このベッドだって身体のサイズに対してとっても大きい。
 キングサイズと言うのだっけ? 四本足の天蓋付きベッドなんて、漫画か映画以外でお目に掛かったのは初めてだ。

 なんでわたし、こんなところにいるんだろう?

「ぃっ……!」

 そんなことを考えた瞬間、心臓の辺りがぎゅっと痛んだ。その痛みに、はっと思い出す。
 そうだ、わたしは、九条六花は、川で溺れていた女の子を助けた挙句に死んだのだ。

 ――おぼえている。

 奈落へと引きずり込まれるような、あの感覚を。
 あれが『死』というものだったのだろうか。
 思い返して、思わず身震いをした。

「そっかぁ……死んじゃったのかぁ、わたし……」

 思っていたより淡々とした声が零れた。
 もちろん、家族や友人に申し訳ないな、という気持ちはある。
 自分が死んでしまったことで、家族や友人が悲しんでる姿を想像すると、きゅっと心が縮む思いがする。
 もう戻れないんだなぁという実感と、もう二度と会えないんだという寂しさと――それでもわたしは、思ってしまうのだ。
 いつかはこんな日が来る気がしていた、なんてことを。

「…………」

 心臓のあたりをそっと撫でた。俯いて、小さく息を零す。
 その時、身を動かした弾みで、肩から絹のような髪の束が滑り落ちた。
 白というより、これは銀色? 
 艶のある長い髪の毛は、光の当たり加減によってキラキラと影の色を変える。

 視界に映る髪を握り締めた。
 キュッと軽く引っ張ってみる。
 ……うん、痛い。
 正真正銘、この銀髪はわたしの頭皮と繋がっているみたい。

 恐る恐る横を向いた。
 窓ガラスに映った自分自身と目が合う。

 長い銀髪に、ぱっちりとした大きな赤い瞳。
 お人形のように整ったその顔を引き攣らせた深窓の令嬢は、隠しようのない驚きに満ち満ちた視線を真っ直ぐに向けていた。


 ――拝啓、お父さん、お母さん。
 先に逝ってしまうような、親不孝な娘でごめんなさい。もうちょい生きるつもりではいました。
 そんなどうしようもない娘は、どうやら天国にも地獄にも行くことが出来ず──何故だか、銀髪の超絶美少女に生まれ変わってしまったみたいです。

(人生二周目、スタートです)
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