遠くて近い世界で

司書Y

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幕間 夜想曲『告白前夜』 6

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「翡翠。愛してる。愛してるよ。ずっと、こうしたかった」

 うわごとのように、男の口が繰り返す。
 これはいったい何だ。
 翡翠は思う。
 愛してるって何?
 この痛み?
 この気持ちの悪い痛みが。本当に、愛なんだろうか。

「……や……め……っあ……い……たいよ。……たいと……さ……ん」

 限界に向かって、男の動きが早さと激しさを増していく。ソコは次第に熱くなっていくのに、酷く寒かった。
 痛い。
 苦しい。
 寒い。
 あの頃と同じだ。アカデミーにいたあの頃と。

「……ああっ翡翠……っ。イクよ。お前の中に……っ」

 ぶる。と男が身を震わせる。
 そこでようやく、意識が途切れてくれた。




「っ!!!!」

 叫んだ、自分の声でスイは目覚めた。
 そこは、見なれたはずの自分の部屋だった。

「……は……っ。は……っ」

 肩で息をする。身体が震えて歯の根が合わない。震える指先で自分の身体を確認する。
 パジャマ代わりにしている長そでのTシャツと、下はスエット。眠りにつく前と何も変わってはいない。

「……うっ」

 酷い嘔吐感に、スイは立ち上がりトイレに駆け込んだ。一人で食べる食事が嫌で殆ど何も食べてはいない上、アキから香ってきた女性用の香水の匂いが鼻について気分が悪くなって、寝る前に殆ど吐いてしまったから、もう、出るものは胃液くらいしかなかった。それでも、何かとても汚いものを飲み込んでしまったような感覚に、吐き気は治まってくれない。
 『あの夜』と、同じように、身体を丸めて、出せるものは全て吐いた。

 ひとしきりトイレで嘔吐すると、次に涙が込み上げてきた。トイレの床に座ったまま、嗚咽を漏らす。

 それも、『あの夜』と、同じだ。
 大切な人も、帰る場所も、信頼も、愛情も、プライドも、尊厳も。一夜にして、粉々になって泥に沈んだあの夜と。
 ぼろぼろになった身体が、もう壊れてしまっても構わないと引きずるようにしてトイレに駆け込んで、何度も嘔吐して、涙が枯れるまで泣いた。

 それが5年前。

「……くそ……っ」

 ここしばらくは、その夢を見ることがなかった。多分、精神的に安定していたのだと思う。
 この悪夢はいつも、スイが弱った時に襲いかかってくる。精神的に追い詰められたとき、性的な意味で嫌な思いをしたとき、そして、スイの全てを壊した男の記憶に触れてしまったとき。

 アキとユキに出会って、数か月。その夢を見る頻度が格段に少なくなっていた。以前には1・2週間に1度は見ていたそれを、彼らに出会ってからは殆ど見ることがなくなっていた。アキやユキがいることがいることが、スイに安心感を与えているのは間違いなかった。

 それなのに、また、悪夢が戻ってきてしまった。

 多分、理由は簡単だ。
 あの香水の匂い。
 ボディソープの香り。
 何があったかなんてすぐにわかる。アキはきっと、女性と会っている。
 別におかしいことではない。アキは健康的な成人男性だ。それ以上に、あんな魅力的な男性にそんな相手がいないなんておかしいくらいだ。
 最近よく出かけるのは、きっと、女性と会っているんだろうなと想像はしていた。
 ただ、その匂いが酷く不快で、アキの傍にいたくないと初めて思った。
 怖かった。
 アキが知らない人のように思えて。

 信じていた人が、まるで知らない人になってしまったあの日のように、アキも変わってしまうのではないかと思うことが。

 床に座ったまま、壁を背に自分の肩を抱く。震えが止まってくれない。こんな時に、独りだった自分がどうしていたのか。思い出せなかった。
 怖くて、怖くて、誰かに助けてほしかった。今すぐに、ここを飛び出して、二人の所に行きたかった。そうすればきっと安心できる。

 でも、それはできない。

 もし、そこに女性がいたら。多分、もう二度と、この悪夢から逃げる術を失ってしまう気がした。

「……たすけて……たすけてよ」

 小さく呟く。
 呟きは、独りきりの部屋の空気に溶けて消えた。
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