遠くて近い世界で

司書Y

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スイの気持ち

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 サンタクロースがいないと知ったのは、2歳だったか、3歳だったか。今はよくは覚えていない。けれど、多分他の人よりは早かったと思う。
 “来てくれない”と悟ったのではなく、“物理的に存在しない”と結論付けた年齢だ。
 絵本より物理学書。特撮ヒーローより因数分解。好きな女の子の話よりコンピューター言語。自分は他の人とは違うのだと、気付いたのは物心がつくのと同じころだった。

 不気味な子。

 母は自分を指してそう言った。
 今なら、そう言った母の心が理解できる。けれど、その頃の自分にはわからなかった。知識があっても、人の心を理解するのに、3歳という歳はあまりに幼すぎた。
 ただ、自分が他人と違うのがいけないのだ。と、劣等感ばかりが募っていった。

 両親が、自分を育てる事を諦めたのは、7歳になる前だった。

 “愛育会アカデミー”
 
 今聞くと、馬鹿じゃないのかと思う名前の研究施設が、自分の家になった。と、言っても、自分はただの研究動物で、日を追うごとに多くなっていく実験、投薬、検査、学習でいつの間にか身体はボロボロになっていた。

 自分の誕生日は、8月30日だ。

 その日はとても暑い日だった。気づけば、研究施設に預けられて6年が経っていた。
 その日は朝からPCに向かって、只管キーボードを叩いていた。何をしていたかは覚えていない。ただ、そうしろと言われるままにキーボードを叩いていたと思う。
 ふいに学園内が騒がしくなって、気付くと目の前に知らない人がいた。
 逃げようと、思っていたのかは今となっては分からない。ただ、手を引いてくれるその人に従うままにそこを出た。
 その日が自分の生まれた日だ。
 酸素を吸って、二酸化炭素を吐きだすだけの生命活動が始まった日ではない。生きるということを知った日だった。

 自分に命をくれた人は、少し怖いけれど、それよりもずっと優しい人だった。
 その人は誰かと一緒に食事をすると美味しいということを。手をつなぐと暖かいということを。寄り添うと安心するということを。褒められると嬉しいということを。人を殴ると自分の心が痛むということを。幸せというものがこの世にあるということを。教えてくれた。

 そして、そのすべてをその人は奪っていった。
 自分がいたから、その人が狂ってしまったのだと、また罪が降り積もる。

 もう、二度と、誰かと歩むことはないとその時に決めた。
 いつ死んでも構わないと、その時決めた。

 息を吸って、吐く。

 それだけの日々が、呼吸が止まるその日まで続くのだと思っていた。

 でも、違った。
 
 細い雨の降る路地で黒い髪の狼と出会った。それが、始まりだった。
 
 運命だったなんて思わない。
 奇跡だったなんて思わない。

 ただ、今まで歩んできたその足跡の先に、その人たちがいた。それで充分だった。

 黒髪の狼は、少年の様な笑顔をしていた。その真摯な瞳で、偏屈で有名な頑固爺をたった一日で陥落させて見せた。
 不器用で、甘ったれで、脳筋で、騒がしくて、優しくて、無邪気で、強くて、可愛くて、兄思いで、どこからどう見ても恰好よくて、彼から目をそらせる人なんていないと思った。

 思ったんだ。

 彼が本当に死神だったのなら、命を刈り取られることすら幸せではないかと。

 軽やかなチャイムの音を響かせて、赤い瞳の鷹はエントランスからやってきた。そして、もう一度命が刻まれ始めた。

 赤眼の鷹は、はっと振り返りたくなる美人だった。ほんの一瞬の隙に、切っ先からするりと抜けて、肩の上から見た景色は、いつもとは全然違っていた。
 口がうまくて、自信たっぷりで、悪戯好きで、物静かで、そのくせ派手好きで、優しくて、強くて、弟思いで、何もかも綺麗で、彼を拒める人なんていないと思った。

 思ったんだ。

 鼻歌でもいいんだ。彼の口ずさむその歌をいつまでも聞いていたい。

 願ってもいいのだろうか。

 酷く綱渡りなその作戦。あの酷い目にあわされた催眠療法の事件の後始末。きっと、もっと、うまくやる方法はいくらでもあった気がする。でも、もしもその作戦がうまくいったら、二人に聞いてみようと決めた。
 
 一緒にいてもいいですか? と。

 そうして始まった日々は、夢のようだった。
 自分の作った料理を笑いながら美味いと言ってくれることが。
 おはようと、言葉に帰って来る笑顔が。
 おやすみの後にまた明日と言えることが。
 誕生日のプレゼントを胸を高鳴らせながら選ぶことが。
 無防備な背中を預けられることが。
 遠慮のない言葉をぶつけられることが。
 遠慮のない言葉で傷ついた相手を思いやれることが。
 “幸せ”なんだ。

 隣に引っ越すのにはすごく勇気が必要だった。
 隠しておきたい恥ずかしいこととか、知られるのが怖いこととか沢山あったけれど、それはひとまず置いておいて、精一杯の勇気を出した日はとても綺麗な青空だった。
 この街が好きだけれど、その人たちがいてくれれば、どこでもいいと思った。

 毎朝、彼らを起こしに行くのは、一番に二人に会いたいから。
 毎日、彼らに食事を作るのは、二人の喜ぶ顔が見たいから。
 毎晩、お休みの後に寂しくなるのは、二人といつも一緒にいたいから。
 こんなことは絶対に言えない。言ったらきっと二人は笑うと思う。

 笑ってくれる?
 引かれなければいいな。
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