352 / 392
月夕に落ちる雨の名は
17 キス 2
しおりを挟む
そこに立つと同時に、鈴は一息もつくことなく、ノックすらせずにドアを開けた。後から考えれば失礼この上ない。もし、間違って別の人が処置を受けていたなら、平謝りしていたところだ。と、鈴は思う。しかし、部屋が間違いということはなかった。
処置室の中には誰もいなかった。と、言っても、部屋は完全に区切られているわけではなくて、左右が壁で仕切られているだけで、奥側には扉も壁もなく隣の処置室と繋がっている。ただ、そこには白いカーテンがひかれていて、奥に誰かがいたとしても見えなくなっていた。隣の部屋と思しき場所から人の声。恐らくは医者が看護師に指示を出す声が聞こえた。何と言っているかは聞こえないが、少し切迫しているのが分かる。
「……っ」
けれど、そんな声は鈴の耳には入っていはいなかった。
処置用の小さなベッドの上に、菫がいた。眠るように閉じた瞳。頭には包帯が巻かれている。Tシャツの首周りに血のような染みが見えて、心臓が凍り付く。顔色が優れない。
まるで。
その先を考えないように、鈴は首を振った。
足元が覚束ない。
近づくのが怖い。
確認するのが怖い。
しかし、そうやって逃げて、鈴は菫を傷つけた。だから、怯える心を押さえつけるように、足を進めた。
「……菫。さん?」
頬に触れようと手を伸ばす。
名前を呼ぶ声は情けないくらいに震えていた。
「……ん? あれ?」
けれど、返事は呆気ないくらいに簡単に返ってきた。
「……すず?」
ぱちぱち。と、瞬きしてから、その瞳が鈴を見つける。
「あれ? まだ、夢。見てんの?」
そう言ってから、菫は身体を起こそうとして、僅かに顔を顰めた。
「菫」
気持ちよりも先に、身体が動いた。菫に駆け寄って、その身体を抱きしめる。
確かに感じる体温。柔らかな感触と、汗の匂い。腕の中の人が確かに生きているのだという証のようで、胸が詰まる。
「……鈴。ほんもの?」
されるがままに腕の中に納まって、菫が呟くように言った。
その声を聞くのが、酷く久しぶりのような気がして、懐かしさと安堵に喉の奥が熱くなる。
「ごめん。ごめん」
言わなければならないことはたくさんあったし、本当は菫を気遣うのが先だとわかっていたけれど、こみ上げてくるものが抑えきれなくて、鈴はそれしか言葉にできなかった。
「なんで鈴が謝るんだよ。約束。破ったの俺だろ?」
ようやく状況が飲み込めてきたのか、菫がそっと鈴の背中に手を回す。それから、あやすようにその手が背中を撫でてくれた。失うのが怖くて、我儘ばかり言っている子供のような自分を、全部包み込んでくれるような優しい声に余計に胸が痛くなる。
「ごめんな。嫌な思いさせて。ホント。ごめん。鈴に嘘を吐こうなんて思ってなかったんだ」
菫の声も震えているのが分かる。泣いているのだろうか。泣かせてしまったのだろうかと思うと、胸が痛む。
ずっと、好きでいるのは許して。と。あのLINEメッセージ。菫の思いの全てが詰まっていた。もう、菫の思いは全部。鈴に伝わっている。だから、菫は謝る必要なんてない。
「最初から、ちゃんと、放っておけないって言えばよかった。俺。あいつの嫁になるつもりなんてないけど、何か返したくて」
菫は悪くない。と、言いたかった。けれど、それは声にならなかった。腕の中にその人がいてくれることが、ありえないくらいの奇蹟に思えて、胸が詰まって言葉にならなかった。それ以上に声に出したら情けない姿を見せてしまうのが怖かった。
「でも。言えなかった……ごめん。鈴に、嫌われたくなかったんだ。ごめん。鈴が、望む、俺で。居られなくて、ごめん。でも。好きなんだ。鈴が……す」
優しくて柔らかい菫の声が、次第に震えるように、途切れ途切れになる。それを鈴は聞いていた。そんなことまで言わせてしまった自分が情けなかった。情けなくて、もう、それ以上聞いていられなくなって、鈴はその菫の唇を自分のそれで塞いだ。
驚いたように菫の瞳が見開く。それから、全部受け入れると言っているように、その瞼が閉じる。瞼が閉じるその瞬間、菫色に淡く光る雫が落ちたような気がした。
処置室の中には誰もいなかった。と、言っても、部屋は完全に区切られているわけではなくて、左右が壁で仕切られているだけで、奥側には扉も壁もなく隣の処置室と繋がっている。ただ、そこには白いカーテンがひかれていて、奥に誰かがいたとしても見えなくなっていた。隣の部屋と思しき場所から人の声。恐らくは医者が看護師に指示を出す声が聞こえた。何と言っているかは聞こえないが、少し切迫しているのが分かる。
「……っ」
けれど、そんな声は鈴の耳には入っていはいなかった。
処置用の小さなベッドの上に、菫がいた。眠るように閉じた瞳。頭には包帯が巻かれている。Tシャツの首周りに血のような染みが見えて、心臓が凍り付く。顔色が優れない。
まるで。
その先を考えないように、鈴は首を振った。
足元が覚束ない。
近づくのが怖い。
確認するのが怖い。
しかし、そうやって逃げて、鈴は菫を傷つけた。だから、怯える心を押さえつけるように、足を進めた。
「……菫。さん?」
頬に触れようと手を伸ばす。
名前を呼ぶ声は情けないくらいに震えていた。
「……ん? あれ?」
けれど、返事は呆気ないくらいに簡単に返ってきた。
「……すず?」
ぱちぱち。と、瞬きしてから、その瞳が鈴を見つける。
「あれ? まだ、夢。見てんの?」
そう言ってから、菫は身体を起こそうとして、僅かに顔を顰めた。
「菫」
気持ちよりも先に、身体が動いた。菫に駆け寄って、その身体を抱きしめる。
確かに感じる体温。柔らかな感触と、汗の匂い。腕の中の人が確かに生きているのだという証のようで、胸が詰まる。
「……鈴。ほんもの?」
されるがままに腕の中に納まって、菫が呟くように言った。
その声を聞くのが、酷く久しぶりのような気がして、懐かしさと安堵に喉の奥が熱くなる。
「ごめん。ごめん」
言わなければならないことはたくさんあったし、本当は菫を気遣うのが先だとわかっていたけれど、こみ上げてくるものが抑えきれなくて、鈴はそれしか言葉にできなかった。
「なんで鈴が謝るんだよ。約束。破ったの俺だろ?」
ようやく状況が飲み込めてきたのか、菫がそっと鈴の背中に手を回す。それから、あやすようにその手が背中を撫でてくれた。失うのが怖くて、我儘ばかり言っている子供のような自分を、全部包み込んでくれるような優しい声に余計に胸が痛くなる。
「ごめんな。嫌な思いさせて。ホント。ごめん。鈴に嘘を吐こうなんて思ってなかったんだ」
菫の声も震えているのが分かる。泣いているのだろうか。泣かせてしまったのだろうかと思うと、胸が痛む。
ずっと、好きでいるのは許して。と。あのLINEメッセージ。菫の思いの全てが詰まっていた。もう、菫の思いは全部。鈴に伝わっている。だから、菫は謝る必要なんてない。
「最初から、ちゃんと、放っておけないって言えばよかった。俺。あいつの嫁になるつもりなんてないけど、何か返したくて」
菫は悪くない。と、言いたかった。けれど、それは声にならなかった。腕の中にその人がいてくれることが、ありえないくらいの奇蹟に思えて、胸が詰まって言葉にならなかった。それ以上に声に出したら情けない姿を見せてしまうのが怖かった。
「でも。言えなかった……ごめん。鈴に、嫌われたくなかったんだ。ごめん。鈴が、望む、俺で。居られなくて、ごめん。でも。好きなんだ。鈴が……す」
優しくて柔らかい菫の声が、次第に震えるように、途切れ途切れになる。それを鈴は聞いていた。そんなことまで言わせてしまった自分が情けなかった。情けなくて、もう、それ以上聞いていられなくなって、鈴はその菫の唇を自分のそれで塞いだ。
驚いたように菫の瞳が見開く。それから、全部受け入れると言っているように、その瞼が閉じる。瞼が閉じるその瞬間、菫色に淡く光る雫が落ちたような気がした。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる