真鍮とアイオライト 1

司書Y

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月夕に落ちる雨の名は

15 北島鈴 2

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 9回のコールのあと、留守電に切り替わる寸前で、鈴は受話器を取った。

「もしもし」

 鈴は低くそれだけを言った。普段からそうなのだが、鈴は電話口で自分の名前を名乗らない。もちろん、防犯上の対策だ。
 と。言うのは建前。本当は相手に名前を知られたくなかっただけだ。防犯上以外の、否、正しく犯行を防ぐ目的で。

「もしもし。鈴?」

 一瞬間を置いて聞こえてきた声は、しかし、聞き覚えのある声だった。警戒を必要としない人。

「僕だよ」

 名乗られなくても、声ですぐに葉だということは分かった。従兄弟の葉ならここの電話番号を知っていてもおかしくはない。

「葉さん?」

 その声が何故か切羽詰まった感じに聞こえて、名乗られる前に鈴は思わず聞き返した。

「よかった。スマホの方に電話したけど。出ないから」

 スマートフォンの電源は菫がメッセージを送ってきたあの日から切ったままだ。元々、鈴は殆どのLINEを既読スルーしているから、困ることはあまりない。鈴にとっては、スマートフォンが使えない不便よりも、菫から来るかもしれない別れのメッセージとか、菫からもうメッセージが来ないことを確認することの恐怖の方が勝っていたのだ。

「何?」

 葉の声色が焦っているように聞こえることには気付いていながら、鈴はわざとそんなふうにそっけなく聞いた。不安になっていることに気付かれたくない気がしたからだ。

「今、川西病院にいるんだけど……」

 ざわ。と、感情が波立つ。
 病院?
 二人の共通のどんな知り合いだとしても、そんな場所にいていい人はいない。
 いないのだけれど、その後、葉が告げる相手が、鈴にとって最も聞きたくない名前だと、何故かこの時もう鈴は確信していたように記憶している。

「例の社で。菫君が梁の下敷きになって……。すぐ来……」

 葉の言葉を途中に、鈴は叩きつけるように受話器を置いた。葉が告げた名前はやはり、鈴が予想していた、この内容で一番聞きたくない名前だった。

「……菫……さん」

 頭の中は真っ白になっていた。
 その空白の中に、菫の笑顔がふと、過る。悪意なんて一つもないただただ温かい笑顔。その笑顔に救われて、その笑顔に悩まされた。
 鈴でなくても誰にでも菫はそんな優しい笑顔を見せる。そんなことは知っていても、鈴はその笑顔が好きだった。菫が笑ってくれると、寒い日でも少し暖かく感じたし、嫌なことがあっても救われた気がしたし、鈴にとっては窮屈なこの世界で呼吸をすることが楽になった。

 もし。
 もしも。
 それが永久に失われるのだとしたら。

 そんなことを考えると、息ができなくなりそうだった。どんどん呼吸が浅くなって、指先が硬直して、冷たくなって、身動きが取れなくなりそうだった。鈴は菫の何一つ諦められはしない。それが、失われるかもしれないと思うだけで動けなくなってしまうのだと気付いた。

「……病院? だって?」

 ようやく絞り出した声は酷く掠れていた。まるで、聞いたことがない他人の声のようだ。
 すぐに行かないと。と、思うけれど、床に足が張り付いたように動かない。膝が震えているのが分かった。

「社で? は? 意味わかんねえ。なんで?」

 あの社に近付くなと、菫に言ったのは、ただの嫉妬からだ。菫と縁を持つあの狐に近付けたくないと思っただけだ。
 菫をあちら側のものに近付けたくないのも嘘ではないけれど、あの狐が菫に何かをするとはまったく考えていなかった。善良という名の無遠慮な悪意で他人を傷つける人間よりも、派手で自己主張が強い舞台装置のような嘘で笑いながら人を煙に巻くあの狐の方がよほど信じられると思っていた。あの狐は少なくとも菫を傷つけるようなことはしない。と。
 だからこそ、その潔い性質に菫の心が傾くのを恐れたのだ。

「……思い違い……?」

 しかし、全ては思い込みだったのだろうか。鈴は思う。

「菫……さん」

 いつだって、鈴の行動原理の根底にあるのは菫への想いだ。
 菫の方に鈴への思いがなくなったとしても、鈴からの想いが変わることはない。少なくとも、スマートフォンの伝言をオフにしたあの日から後でも、何も変わらない。たとえ、あのLINEのメッセージが別れを告げるものであったとしても、菫がどこかで存在しているなら、鈴の想いは変わらない。ただ、菫が好きだ。
 それが、一方的に途切れることなんて、想像もしていなかった。
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