真鍮とアイオライト 1

司書Y

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仮説とするには単純な

1 遠い激情 2

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 目が覚めて、一番に目に入ったものに、菫は思わず声を上げそうになった。
 別に人外を見たわけでも、どこまでも続く森の中にいたわけでもない。ただ、目の前、比喩ではなく目と鼻の先、2・3センチのところに信じられないくらいに綺麗な顔があった。

 もちろん、何故そんな状況になっているかくらいは覚えている。
 昨夜、菫は家に帰らなかった。なんだかすごく鈴と離れがたかったし、鈴が離してくれそうになかったからだ。けれど、お互いに触りあったくらいで、鈴はそれ以上のことをしようともしなかった。ただ、鈴はずっと身体の一部が触れられるくらいにそばにいたし、トイレはともかく風呂まで一緒に入りたがった。
 もちろん、菫だって、それが嫌だなんて思ってはいない。鈴が望むなら、身体に触れるだけでなくて、その先だって許したと思う。いたしていたらきっと菫は今頃起き上がるのも無理だっただろうけれど、昨日の時点ではそれでも構わないと思っていた。ただ、今、少し落ち着いて思い返してみると、この先これっきりというわけでもないのに、何をそんなに焦っていたのだろうと恥ずかしくなった。
 何でそんなふうになってしまったのか、今では説明できない。昨夜は鈴と一緒にいなければいけないと思ったし、鈴が覚えていてくれるなら、何でもしたいと思ったのだ。
 しかし、その激情は今は遠い。

 気持ちが冷めたとか、そういう意味ではない。鈴が好きだという気持ちは変わっていない。ただ、自分ではどうすることもできない焦燥感は治まっている。それが全てなくなったかといえば、そうでもないのだけれど、その感情は心の奥に沈殿して、まるで、何年も前の古い記憶のように感じられる。

 例えばそれは、父と母が離婚したときの感覚に似ていた。
 母がいなくなった日のことを菫は鮮明に覚えてはいない。その日、菫は泣いていた。自分がとても小さくてくだらないものに思えたし、とても悲しかった。母を引き留めることはできない。と、菫は理解していた。ただただ、自分が疎ましくて、それでいて哀れで愛おしかった。
 自分をいらないと言った母の表情と、振り返らずに行ってしまう母の背中だけははっきりと覚えている。
 今、母がいなくなったことを思い出すことはあまりないけれど、その悲しみが心から消えることはない。ふと思い出した時には、まるで、ついさっきのことのように痛みを思い出すし、それが菫の人格に大きく影響しているのは間違いないと思う。

 昨夜感じた焦りのようなものは菫にとってそんな母の記憶に似て、心の底に沈んだ決して消すことのできない軛のように思えた。
 あの激情が感情の土台のどこかにあるからこそ、菫の鈴に対する思いは今の形であるような、切り離しては考えられない大切な一部のような、そんな感覚だった。

 ん。
 と、目の前に眠る人の唇から声にならない吐息が漏れる。
 信じられないくらいに綺麗な寝顔だ。
 その頬に触れたい衝動。けれど、起こしたくはなくて、触れられない。
 代わりに、声には出さずに口を動かすだけで名前を呼ぶ。

 すず。

 それだけで、好きだという気持ちが溢れた。それは、世界中の何よりも大切で、綺麗で、得難い感情だった。焦りではなく、ただただ、愛おしい。昨夜とは違う。なくしたくないのは同じだけれど、恐れるというよりは守りたいとか、なくさないように努力しようと思う。

 すず。
 すきだよ。
 ずっと、すきでいて。

 眠る恋人の顔に願う。願いは同じでも、やはり、昨夜の激情とは違っていた。意味不明な焦燥感や恐れが遠く霞むかわりに、なんだか、そんなことを考えている自分が恥ずかしいという気持ちが強くなる。これではまんま少女漫画の登場人物だ。
 そんなことを考えて一人で赤面して、鈴から離れようとした時だった。不意にその腕がぐい。と、菫を抱く。
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