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かの思想家が語るには
ストーカーと文字化け 1
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2月。朝、朝食の用意を始める時間は、まだ、真っ暗だ。
両親が離婚して、父に引き取られた俺たち兄弟は、研究室に籠ってばかりで留守がちな父の代わりに父方のばあちゃんに面倒を見てもらっていた。少しでもばあちゃんの負担を減らそうと、食事の用意を手伝うようになったのは、同居を始めてすぐの頃だ。
ばあちゃんが年を取って、俺が大学を出て、就職した頃からは食事の準備や片づけは全部、俺の担当になっている。だから、朝6時半には出勤する兄ちゃんを送りだすために、5時半には起きて食事と弁当の用意をする。それが日課だった。
お茶を作るためにやかんと、味噌汁用の鍋に水を入れて火にかけてから、朝刊を取りに行くのも、俺の朝のルーティンワークだ。
玄関の鍵を開けて、外付けのポストに突っ込まれた新聞を抜く。外に体を出すのはほんの一瞬だけど、濡れタオルを振り回すと凍るレベルの寒さが肌に突き刺さる。
「さぶ」
呟いて、家の中に体を引っ込めようとすると、ふと、視界の端に何かが映った。
それは、俺の家の塀の外側の陰から、こっちを見ていた。いや、正確に見ていたかどうかはわからない。そう思った。というだけだ。
というのも、それには目がなかったからだ。そんなヤツ。どこにでもいるわけじゃない。俺にとってはわりと珍しくもないけれど、同じ特徴を持ったやつにあったのを、忘れられるほど時間が経ってはいなかった。
壁に両手をついて、そっと、中を覗くように顔を半分出して、こちらを窺っている。その口元は前に見た時のまま、半月に割れて、顔の表面と違ってぬらぬら、気味が悪い質感の赤だ。また。いや、まだ、笑っている。
しかも、口は割れて開いたままなのに、何かを呟いているのが、10メートル以上あるはずなのに聞こえてきた。
みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。
そう、聞こえる。
ついてきてしまった。
背筋が寒くなる。家までついてこられたことが、ないわけではない。中には家の前で半年近く立っていたヤツもいた。殆どストーカーだ。その時も毎日びくびくして過ごしたけれど、結局は何もないまま薄くなって消えていった。
だから、こいつもそうなるかもしれない。
けれど、そうならないかもしれない。
怖いのは、俺についてきたならいいけれど、ここに居座られて、兄ちゃんやばあちゃんに何かがあった場合だ。何も見えていない二人には対処のしようがない。
これが、本当に俺の頭の病ならいいのに。今更ながらそんなことを思う。それなら、俺が治療を受ければ済む話だ。でも、そうでなかったら。というよりも、もう、認めなければいけない。きっと、そうじゃない。こいつらが何なのかは分からない。けれど、こいつらは見える見えないにかかわらず、物理法則とは別の場所に存在していて、中にはこちら側に影響を及ぼすものがいる。それは多分、勘違いじゃなく事実なんだろう。
そこまで考えてから、俺は、家の中に引っ込んで、玄関の引き戸を閉めた。
何も知らない兄ちゃんとばあちゃんは俺が守らないといけない。もし、あいつが俺に付いてこないようなら、挑発してでも家から引きはがさないと。俺の行動に反応しているんだから、きっと、俺が気付いていると示してやればついてくるはずだと思う。
そう、心に決めると、なんだか少し気持ちが落ち着いてきた。というより、開き直ってしまったのかもしれないけれど、そんなのどっちでもいい。
とにかく自分のやるべきことをやろう。と、キッチンに戻る。
両親が離婚して、父に引き取られた俺たち兄弟は、研究室に籠ってばかりで留守がちな父の代わりに父方のばあちゃんに面倒を見てもらっていた。少しでもばあちゃんの負担を減らそうと、食事の用意を手伝うようになったのは、同居を始めてすぐの頃だ。
ばあちゃんが年を取って、俺が大学を出て、就職した頃からは食事の準備や片づけは全部、俺の担当になっている。だから、朝6時半には出勤する兄ちゃんを送りだすために、5時半には起きて食事と弁当の用意をする。それが日課だった。
お茶を作るためにやかんと、味噌汁用の鍋に水を入れて火にかけてから、朝刊を取りに行くのも、俺の朝のルーティンワークだ。
玄関の鍵を開けて、外付けのポストに突っ込まれた新聞を抜く。外に体を出すのはほんの一瞬だけど、濡れタオルを振り回すと凍るレベルの寒さが肌に突き刺さる。
「さぶ」
呟いて、家の中に体を引っ込めようとすると、ふと、視界の端に何かが映った。
それは、俺の家の塀の外側の陰から、こっちを見ていた。いや、正確に見ていたかどうかはわからない。そう思った。というだけだ。
というのも、それには目がなかったからだ。そんなヤツ。どこにでもいるわけじゃない。俺にとってはわりと珍しくもないけれど、同じ特徴を持ったやつにあったのを、忘れられるほど時間が経ってはいなかった。
壁に両手をついて、そっと、中を覗くように顔を半分出して、こちらを窺っている。その口元は前に見た時のまま、半月に割れて、顔の表面と違ってぬらぬら、気味が悪い質感の赤だ。また。いや、まだ、笑っている。
しかも、口は割れて開いたままなのに、何かを呟いているのが、10メートル以上あるはずなのに聞こえてきた。
みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。みつけた。
そう、聞こえる。
ついてきてしまった。
背筋が寒くなる。家までついてこられたことが、ないわけではない。中には家の前で半年近く立っていたヤツもいた。殆どストーカーだ。その時も毎日びくびくして過ごしたけれど、結局は何もないまま薄くなって消えていった。
だから、こいつもそうなるかもしれない。
けれど、そうならないかもしれない。
怖いのは、俺についてきたならいいけれど、ここに居座られて、兄ちゃんやばあちゃんに何かがあった場合だ。何も見えていない二人には対処のしようがない。
これが、本当に俺の頭の病ならいいのに。今更ながらそんなことを思う。それなら、俺が治療を受ければ済む話だ。でも、そうでなかったら。というよりも、もう、認めなければいけない。きっと、そうじゃない。こいつらが何なのかは分からない。けれど、こいつらは見える見えないにかかわらず、物理法則とは別の場所に存在していて、中にはこちら側に影響を及ぼすものがいる。それは多分、勘違いじゃなく事実なんだろう。
そこまで考えてから、俺は、家の中に引っ込んで、玄関の引き戸を閉めた。
何も知らない兄ちゃんとばあちゃんは俺が守らないといけない。もし、あいつが俺に付いてこないようなら、挑発してでも家から引きはがさないと。俺の行動に反応しているんだから、きっと、俺が気付いていると示してやればついてくるはずだと思う。
そう、心に決めると、なんだか少し気持ちが落ち着いてきた。というより、開き直ってしまったのかもしれないけれど、そんなのどっちでもいい。
とにかく自分のやるべきことをやろう。と、キッチンに戻る。
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