87 / 392
番外編 番犬と十七夜
騎士の本分 5
しおりを挟む
2LDKの離れはそこだけで独立した普通の戸建て住宅のようになっていた。普段は貴志狼の住居として使っている。とは言っても、殆ど寝に帰るだけで、ここで寛ぐことは少ない。
掃除に入ってくれている家政婦以外は、一部の部下以外も殆どここには入らない。葉も貴志狼宅を訪れたことは何度もあるが、母屋の方にある住居スペースの方だけで、貴志狼が一人でこの部屋を使うようになってからここに入ったことはなかった。
だから、貴志狼が他人をここに客として自分の意志で招き入れるのは葉が初めてだった。
一応、気を利かせたのだろう。風呂を用意しておけと言っておいたが、部屋の方も暖房がつけられていて温かい。でも、それくらいでは葉の震えは止まらなくて、唇が紫に近い色にまでなっていた。
『とにかく、風呂入れ』
浴室に入ると、タオルどころか着替えまで用意してあって、これが翔悟の差し金でないことくらいは分かってしまう。なら誰が用意したのか。と、考えようとして辞めた。誰だったとしても、嫌すぎる。
『大丈夫か?』
そっ。っと、葉を床に下ろす。かたかた。と、小刻みに震える脚は、強張ったまま動かないが、一応は身体を支えてくれている。洗面台に掴まって立たせて、スツールを用意してやると、促されるまま、葉は素直にそこに座った。
『ありがと』
小さな声が震えている。
それから、ずぶ濡れになったダウンを脱ごうとファスナーに手をかけるけれど、手がかじかんで動かないのか、震えて力が入らないのか、どちらにせよ、うまくいかなくて、ちいさく、あれ? と、繰り返している。
『ほら。かしてみろ』
そう言ってファスナー開けてやる。手を添えて腕を抜かせると、中に着ていたニットの肩のあたりは水が沁みて色が変わっていた。
『脱げるか?』
問いかけると、葉は首を横に振る。濡れた長い髪から、雫が滴って、脱衣所の床に落ちた。
『シロが…やってくれる?』
椅子に座った葉の前に跪くように膝をついた貴志狼の顔を覗き込んでくる葉の目元は泣きはらしたからだけではなく、赤く染まっている。そこで、気付く。今の状況が自分たちにとってどんな状況なのか。
いや、気づいてはいた。気づかないはずがない。でも、考えないように抑え込んでいた。
『馬鹿野郎。そんながちがちにならなくても、なんもしない』
そう言って、軽く額を小突いてから、ニットのカーディガンのボタンを外す。
もちろん、何も感じないはずがない。こうしている今だって、心臓の音が、葉に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに高鳴っている。でも、何もしないという言葉も嘘ではない。
葉を奪うのに、急くつもりもない。葉のそばで10年以上耐えてきた。いまさら、それがほんの少し先に延びることくらい何でもない。
『…なんも…しないの?』
と。そんな貴志狼の思いをすべて吹き飛ばしてしまうほどの破壊力を、葉の表情は持っていた。
小首を傾げ、少しだけ驚いたような、子供のような表情の葉。それなのに、泣きはらして赤く重く腫れた目元や、濡れて額に一筋張り付いた髪や、ニットの下の透けた白いシャツや、何かを請うように貴志狼の腕に触れた細く震える指先が、昨日までの葉とは全く別人のように見える。
『し…しねえつってんだろ』
カーディガンを脱がせて床に落とす。中に着ている白いシャツの首ものとボタンに手をかけると、無様にも指先が震えていた。
葉は気づいただろうか、気づかれたくない。やせ我慢だと言われても、大切にしたい。すくなくとも、足も手も上手く動かせない上に、凍えて震えている人を風呂に入れるなんて、”介護”そのものの名目でそのまま手を出して、あとで後悔したくない。
『…しないんだ』
呟いて、葉は、拗ねたような、残念そうな、寂しいような、それでいてどこかほっとしたような顔になった。その肩から着ていたシャツを落とす。ふる。と、肩を震わせたのが寒かったからなのか、別の意味があったのかわからない。けれど、そんな僅かな仕草でも、さっきの決意が一瞬で吹き飛びそうになる。シャツの下の身体があまりに綺麗だったから。
『しない』
だから、言い切ったのは、自分で自分を戒めるためだ。理性はさっきからフル稼働しているが、いつ暴走するかわかったものではない。そのくらいに、思いが通じ合ったばかりの人は魅力的だった。
露になった上半身が病的なほど白いのは寒さのせいだけではなくて、もともと葉が色白だからだ。葉の母親の話によると、どこぞの異国の血が混じっているらしい。
もちろん、女性のような身体の丸みも胸のふくらみもない。けれど、その己とはあまりに違う華奢な身体から、目が離せない。離せないのだけれど、離さないと自分が何をしでかしてしまうか、貴志狼本人にもわからなかった。
掃除に入ってくれている家政婦以外は、一部の部下以外も殆どここには入らない。葉も貴志狼宅を訪れたことは何度もあるが、母屋の方にある住居スペースの方だけで、貴志狼が一人でこの部屋を使うようになってからここに入ったことはなかった。
だから、貴志狼が他人をここに客として自分の意志で招き入れるのは葉が初めてだった。
一応、気を利かせたのだろう。風呂を用意しておけと言っておいたが、部屋の方も暖房がつけられていて温かい。でも、それくらいでは葉の震えは止まらなくて、唇が紫に近い色にまでなっていた。
『とにかく、風呂入れ』
浴室に入ると、タオルどころか着替えまで用意してあって、これが翔悟の差し金でないことくらいは分かってしまう。なら誰が用意したのか。と、考えようとして辞めた。誰だったとしても、嫌すぎる。
『大丈夫か?』
そっ。っと、葉を床に下ろす。かたかた。と、小刻みに震える脚は、強張ったまま動かないが、一応は身体を支えてくれている。洗面台に掴まって立たせて、スツールを用意してやると、促されるまま、葉は素直にそこに座った。
『ありがと』
小さな声が震えている。
それから、ずぶ濡れになったダウンを脱ごうとファスナーに手をかけるけれど、手がかじかんで動かないのか、震えて力が入らないのか、どちらにせよ、うまくいかなくて、ちいさく、あれ? と、繰り返している。
『ほら。かしてみろ』
そう言ってファスナー開けてやる。手を添えて腕を抜かせると、中に着ていたニットの肩のあたりは水が沁みて色が変わっていた。
『脱げるか?』
問いかけると、葉は首を横に振る。濡れた長い髪から、雫が滴って、脱衣所の床に落ちた。
『シロが…やってくれる?』
椅子に座った葉の前に跪くように膝をついた貴志狼の顔を覗き込んでくる葉の目元は泣きはらしたからだけではなく、赤く染まっている。そこで、気付く。今の状況が自分たちにとってどんな状況なのか。
いや、気づいてはいた。気づかないはずがない。でも、考えないように抑え込んでいた。
『馬鹿野郎。そんながちがちにならなくても、なんもしない』
そう言って、軽く額を小突いてから、ニットのカーディガンのボタンを外す。
もちろん、何も感じないはずがない。こうしている今だって、心臓の音が、葉に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに高鳴っている。でも、何もしないという言葉も嘘ではない。
葉を奪うのに、急くつもりもない。葉のそばで10年以上耐えてきた。いまさら、それがほんの少し先に延びることくらい何でもない。
『…なんも…しないの?』
と。そんな貴志狼の思いをすべて吹き飛ばしてしまうほどの破壊力を、葉の表情は持っていた。
小首を傾げ、少しだけ驚いたような、子供のような表情の葉。それなのに、泣きはらして赤く重く腫れた目元や、濡れて額に一筋張り付いた髪や、ニットの下の透けた白いシャツや、何かを請うように貴志狼の腕に触れた細く震える指先が、昨日までの葉とは全く別人のように見える。
『し…しねえつってんだろ』
カーディガンを脱がせて床に落とす。中に着ている白いシャツの首ものとボタンに手をかけると、無様にも指先が震えていた。
葉は気づいただろうか、気づかれたくない。やせ我慢だと言われても、大切にしたい。すくなくとも、足も手も上手く動かせない上に、凍えて震えている人を風呂に入れるなんて、”介護”そのものの名目でそのまま手を出して、あとで後悔したくない。
『…しないんだ』
呟いて、葉は、拗ねたような、残念そうな、寂しいような、それでいてどこかほっとしたような顔になった。その肩から着ていたシャツを落とす。ふる。と、肩を震わせたのが寒かったからなのか、別の意味があったのかわからない。けれど、そんな僅かな仕草でも、さっきの決意が一瞬で吹き飛びそうになる。シャツの下の身体があまりに綺麗だったから。
『しない』
だから、言い切ったのは、自分で自分を戒めるためだ。理性はさっきからフル稼働しているが、いつ暴走するかわかったものではない。そのくらいに、思いが通じ合ったばかりの人は魅力的だった。
露になった上半身が病的なほど白いのは寒さのせいだけではなくて、もともと葉が色白だからだ。葉の母親の話によると、どこぞの異国の血が混じっているらしい。
もちろん、女性のような身体の丸みも胸のふくらみもない。けれど、その己とはあまりに違う華奢な身体から、目が離せない。離せないのだけれど、離さないと自分が何をしでかしてしまうか、貴志狼本人にもわからなかった。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
ヤンデレだらけの短編集
八
BL
ヤンデレだらけの1話(+おまけ)読切短編集です。
全8話。1日1話更新(20時)。
□ホオズキ:寡黙執着年上とノンケ平凡
□ゲッケイジュ:真面目サイコパスとただ可哀想な同級生
□アジサイ:不良の頭と臆病泣き虫
□ラベンダー:希死念慮不良とおバカ
□デルフィニウム:執着傲慢幼馴染と地味ぼっち
ムーンライトノベル様に別名義で投稿しています。
かなり昔に書いたもので、最近の作品と書き方やテーマが違うと思いますが、楽しんでいただければ嬉しいです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる