真鍮とアイオライト 1

司書Y

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番外編 番犬と十七夜

騎士の本分 5

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 2LDKの離れはそこだけで独立した普通の戸建て住宅のようになっていた。普段は貴志狼の住居として使っている。とは言っても、殆ど寝に帰るだけで、ここで寛ぐことは少ない。
 掃除に入ってくれている家政婦以外は、一部の部下以外も殆どここには入らない。葉も貴志狼宅を訪れたことは何度もあるが、母屋の方にある住居スペースの方だけで、貴志狼が一人でこの部屋を使うようになってからここに入ったことはなかった。

 だから、貴志狼が他人をここに客として自分の意志で招き入れるのは葉が初めてだった。

 一応、気を利かせたのだろう。風呂を用意しておけと言っておいたが、部屋の方も暖房がつけられていて温かい。でも、それくらいでは葉の震えは止まらなくて、唇が紫に近い色にまでなっていた。

『とにかく、風呂入れ』

 浴室に入ると、タオルどころか着替えまで用意してあって、これが翔悟の差し金でないことくらいは分かってしまう。なら誰が用意したのか。と、考えようとして辞めた。誰だったとしても、嫌すぎる。

『大丈夫か?』

 そっ。っと、葉を床に下ろす。かたかた。と、小刻みに震える脚は、強張ったまま動かないが、一応は身体を支えてくれている。洗面台に掴まって立たせて、スツールを用意してやると、促されるまま、葉は素直にそこに座った。

『ありがと』

 小さな声が震えている。
 それから、ずぶ濡れになったダウンを脱ごうとファスナーに手をかけるけれど、手がかじかんで動かないのか、震えて力が入らないのか、どちらにせよ、うまくいかなくて、ちいさく、あれ? と、繰り返している。

『ほら。かしてみろ』

 そう言ってファスナー開けてやる。手を添えて腕を抜かせると、中に着ていたニットの肩のあたりは水が沁みて色が変わっていた。

『脱げるか?』

 問いかけると、葉は首を横に振る。濡れた長い髪から、雫が滴って、脱衣所の床に落ちた。

『シロが…やってくれる?』

 椅子に座った葉の前に跪くように膝をついた貴志狼の顔を覗き込んでくる葉の目元は泣きはらしたからだけではなく、赤く染まっている。そこで、気付く。今の状況が自分たちにとってどんな状況なのか。
 いや、気づいてはいた。気づかないはずがない。でも、考えないように抑え込んでいた。

『馬鹿野郎。そんながちがちにならなくても、なんもしない』

 そう言って、軽く額を小突いてから、ニットのカーディガンのボタンを外す。
 もちろん、何も感じないはずがない。こうしている今だって、心臓の音が、葉に聞こえてしまうのではないかと思うくらいに高鳴っている。でも、何もしないという言葉も嘘ではない。
 葉を奪うのに、急くつもりもない。葉のそばで10年以上耐えてきた。いまさら、それがほんの少し先に延びることくらい何でもない。

『…なんも…しないの?』

 と。そんな貴志狼の思いをすべて吹き飛ばしてしまうほどの破壊力を、葉の表情は持っていた。
 小首を傾げ、少しだけ驚いたような、子供のような表情の葉。それなのに、泣きはらして赤く重く腫れた目元や、濡れて額に一筋張り付いた髪や、ニットの下の透けた白いシャツや、何かを請うように貴志狼の腕に触れた細く震える指先が、昨日までの葉とは全く別人のように見える。

『し…しねえつってんだろ』

 カーディガンを脱がせて床に落とす。中に着ている白いシャツの首ものとボタンに手をかけると、無様にも指先が震えていた。
 葉は気づいただろうか、気づかれたくない。やせ我慢だと言われても、大切にしたい。すくなくとも、足も手も上手く動かせない上に、凍えて震えている人を風呂に入れるなんて、”介護”そのものの名目でそのまま手を出して、あとで後悔したくない。

『…しないんだ』

 呟いて、葉は、拗ねたような、残念そうな、寂しいような、それでいてどこかほっとしたような顔になった。その肩から着ていたシャツを落とす。ふる。と、肩を震わせたのが寒かったからなのか、別の意味があったのかわからない。けれど、そんな僅かな仕草でも、さっきの決意が一瞬で吹き飛びそうになる。シャツの下の身体があまりに綺麗だったから。

『しない』

 だから、言い切ったのは、自分で自分を戒めるためだ。理性はさっきからフル稼働しているが、いつ暴走するかわかったものではない。そのくらいに、思いが通じ合ったばかりの人は魅力的だった。
 露になった上半身が病的なほど白いのは寒さのせいだけではなくて、もともと葉が色白だからだ。葉の母親の話によると、どこぞの異国の血が混じっているらしい。
 もちろん、女性のような身体の丸みも胸のふくらみもない。けれど、その己とはあまりに違う華奢な身体から、目が離せない。離せないのだけれど、離さないと自分が何をしでかしてしまうか、貴志狼本人にもわからなかった。
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