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司書Iの日常
司書Iの日常 5
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『救われない。考え方ですね』
彼の雰囲気が少し変わったことに気付いたのか、少し語勢を変えて小柏さんが言う。少ししんみりしたような口調になっていたから、やっぱり彼女も空気が読めない人なんじゃなくて、読んだ空気に歯向かう人なんだと気付く。
『え?』
しかし、小柏さんの言葉に、青年は少し驚いた顔をして、彼女に視線を移した。
『死んで残ってまで磨り減っていくのが救いですか?』
小柏さんの発言を責めているわけじゃない。バカにしているような口調でもない。
皮肉とか、諦観とか、強がりとか、虚勢とかそう言うのじゃなくて、まるで、空が青いこと、海の水がしょっぱいこと、太陽が東から上ること、そんな当たり前のことだというように彼は言う。
だから、小柏さんは言葉を失っていた。
『たとえば。 大切な人がいなくなって、その人を想い続けて。
自分も後を追ったのか、偶然悲しみが癒える前に亡くなったのか、それは分からないけど、死んでしまった女性が。
失った人のことを心が擦り切れて忘れてしまうまで、道路の片隅で立ち尽くして。
それでも、それがそうであるとも思い出せないのに、二人で見た流れ星だけを思って、いつか消える日を。生まれ変わる日を待っている。
それが救いですか?』
彼が言っている”たとえ”は、彼女のことなのだろうか。あの流星群の極大の夜。一緒に星を見た彼女のことが、彼にもやはり見えていたのだろうか。いや、彼の言葉が本当に見たもののことを言っているのだとしたら、俺よりもはっきりとあの女性のことが見えていたのだと思う。
『うん。まあ、それは辛いよね。でも…』
小柏さんの方は、やっぱり、青年のことを馬鹿にしているようでも、怖がらせようとしているようでも、間違いを正そうとしているようでもなかった。ただ、まるで、小さな子供に当たり前で、小さくて、けど、大切な世界の理を伝えるみたいに言う。
『たとえば。
田舎の町の小さな世界で、誰にも顧みられずに暮らしていた女の子がいたとして。彼女は彼女を図書館に置き去りにした母親をずっと待ってた。
自動ドアを開けて母親が来てくれるのを信じて。帰ってきたら絵本を読んでくれるって約束を信じて。
けど、彼女が生きている間に母親は来なかった。
理由は分からないけれど、亡くなっていたから。
結局彼女も亡くなって、それでも待ち続けて。誰にも知られずに待ち続けて。
ある日。その約束の絵本を読んでくれる人が現れて。その人は”お母さんが待ってる”って、教えてくれた。
その人についていったら、それまで待つだけで気づかなかったけれど、自動ドアの外には、お母さんがいた。
それは、彼女には救いではないのかな?』
小柏さんの言葉に、青年は少し驚いた顔をしてから、何かを考えるように目を伏せた。
それから、俺の方を見て、口を開いた。
『それでも、幽霊なんていない』
ゆっくりと低い声で彼は言った。
それは、やっぱり、自分自身ではなく、俺に言い聞かせるように聞こえた。そして、それがゆるぎない彼の決意のように思える。彼は全部見えていて、それでもなお、それを否定している。それは、やっぱり俺の錯覚なのだろうか。
『うん。そうか。そうだよね~。本当にいたら怖すぎるし』
彼の言葉に、小柏さんはいつもの表情に戻って、言った。納得したとか、妥協したとか、そういうふうではなくて、それも真実の一つだと言っているように見えた。
彼女もまた、全部知った上で、彼が全部知っていてもそれを否定するのが間違いではないと言っているように見えた。
でもそれも結局、全部俺の想像で、今の俺には、二人にその心の内で何を思っているのか聞く勇気はない。
ちら、と、俺の顔を見てから、小柏さんはそんな俺の意気地のなさを曖昧に流してくれようとしているかのように、営業用の笑顔になった。
『ところで』
ぺら。と、いつの間にか持っていた紙を小柏さんが青年に差し出す。
『ご利用登録はお済みですか?』
差し出されたのは図書館の利用者登録用の記入用紙だった。
『ぜひいかがですか? S市民の方ですよね? ほら。池井君からもお勧めして』
つんつんと小突かれて、俺もはっと気づく。そういえば、仕事中だった。開館時間中でした。
あまりに利用者さんが少なく、現実離れした会話だったから、すっかり忘れていた。
『あ。の。図書館。また、来るなら、利用登録しておいたほうかいいですよ』
いつもは、利用者さんにこちらから利用登録をしてほしいなんて言わない。利用者さんの意志に任せる。けれど、なんでだろうか、今日は言ってしまった。
この出会い。いや、関係。そうでなくて、繋がりをここで終わらせたくない気がした。
だから、小柏さんから用紙を受け取って、青年に差し出した。
『…池井さんは…ずっといますか?』
それをじっと眺めてから、また、俺の顔を見て、彼は言った。
『え? あ。はい。クビになったりしなければ』
俺が応えると、彼は用紙を受け取った。
『ここに、名前書けばいいんすか?』
節が高くて大きな手の、細くて長い指が、用紙を指さす。慌てて近くのペン立てに差してあったボールペンの芯を出して彼に渡す。
『そう。太枠の中。あ。それから、住所確認できるものお持ちですか?』
ボールペンを受け取った青年は、頷きながら名前を書く。
きたじますず。
北島鈴。
それが、彼の名前だった。
彼の雰囲気が少し変わったことに気付いたのか、少し語勢を変えて小柏さんが言う。少ししんみりしたような口調になっていたから、やっぱり彼女も空気が読めない人なんじゃなくて、読んだ空気に歯向かう人なんだと気付く。
『え?』
しかし、小柏さんの言葉に、青年は少し驚いた顔をして、彼女に視線を移した。
『死んで残ってまで磨り減っていくのが救いですか?』
小柏さんの発言を責めているわけじゃない。バカにしているような口調でもない。
皮肉とか、諦観とか、強がりとか、虚勢とかそう言うのじゃなくて、まるで、空が青いこと、海の水がしょっぱいこと、太陽が東から上ること、そんな当たり前のことだというように彼は言う。
だから、小柏さんは言葉を失っていた。
『たとえば。 大切な人がいなくなって、その人を想い続けて。
自分も後を追ったのか、偶然悲しみが癒える前に亡くなったのか、それは分からないけど、死んでしまった女性が。
失った人のことを心が擦り切れて忘れてしまうまで、道路の片隅で立ち尽くして。
それでも、それがそうであるとも思い出せないのに、二人で見た流れ星だけを思って、いつか消える日を。生まれ変わる日を待っている。
それが救いですか?』
彼が言っている”たとえ”は、彼女のことなのだろうか。あの流星群の極大の夜。一緒に星を見た彼女のことが、彼にもやはり見えていたのだろうか。いや、彼の言葉が本当に見たもののことを言っているのだとしたら、俺よりもはっきりとあの女性のことが見えていたのだと思う。
『うん。まあ、それは辛いよね。でも…』
小柏さんの方は、やっぱり、青年のことを馬鹿にしているようでも、怖がらせようとしているようでも、間違いを正そうとしているようでもなかった。ただ、まるで、小さな子供に当たり前で、小さくて、けど、大切な世界の理を伝えるみたいに言う。
『たとえば。
田舎の町の小さな世界で、誰にも顧みられずに暮らしていた女の子がいたとして。彼女は彼女を図書館に置き去りにした母親をずっと待ってた。
自動ドアを開けて母親が来てくれるのを信じて。帰ってきたら絵本を読んでくれるって約束を信じて。
けど、彼女が生きている間に母親は来なかった。
理由は分からないけれど、亡くなっていたから。
結局彼女も亡くなって、それでも待ち続けて。誰にも知られずに待ち続けて。
ある日。その約束の絵本を読んでくれる人が現れて。その人は”お母さんが待ってる”って、教えてくれた。
その人についていったら、それまで待つだけで気づかなかったけれど、自動ドアの外には、お母さんがいた。
それは、彼女には救いではないのかな?』
小柏さんの言葉に、青年は少し驚いた顔をしてから、何かを考えるように目を伏せた。
それから、俺の方を見て、口を開いた。
『それでも、幽霊なんていない』
ゆっくりと低い声で彼は言った。
それは、やっぱり、自分自身ではなく、俺に言い聞かせるように聞こえた。そして、それがゆるぎない彼の決意のように思える。彼は全部見えていて、それでもなお、それを否定している。それは、やっぱり俺の錯覚なのだろうか。
『うん。そうか。そうだよね~。本当にいたら怖すぎるし』
彼の言葉に、小柏さんはいつもの表情に戻って、言った。納得したとか、妥協したとか、そういうふうではなくて、それも真実の一つだと言っているように見えた。
彼女もまた、全部知った上で、彼が全部知っていてもそれを否定するのが間違いではないと言っているように見えた。
でもそれも結局、全部俺の想像で、今の俺には、二人にその心の内で何を思っているのか聞く勇気はない。
ちら、と、俺の顔を見てから、小柏さんはそんな俺の意気地のなさを曖昧に流してくれようとしているかのように、営業用の笑顔になった。
『ところで』
ぺら。と、いつの間にか持っていた紙を小柏さんが青年に差し出す。
『ご利用登録はお済みですか?』
差し出されたのは図書館の利用者登録用の記入用紙だった。
『ぜひいかがですか? S市民の方ですよね? ほら。池井君からもお勧めして』
つんつんと小突かれて、俺もはっと気づく。そういえば、仕事中だった。開館時間中でした。
あまりに利用者さんが少なく、現実離れした会話だったから、すっかり忘れていた。
『あ。の。図書館。また、来るなら、利用登録しておいたほうかいいですよ』
いつもは、利用者さんにこちらから利用登録をしてほしいなんて言わない。利用者さんの意志に任せる。けれど、なんでだろうか、今日は言ってしまった。
この出会い。いや、関係。そうでなくて、繋がりをここで終わらせたくない気がした。
だから、小柏さんから用紙を受け取って、青年に差し出した。
『…池井さんは…ずっといますか?』
それをじっと眺めてから、また、俺の顔を見て、彼は言った。
『え? あ。はい。クビになったりしなければ』
俺が応えると、彼は用紙を受け取った。
『ここに、名前書けばいいんすか?』
節が高くて大きな手の、細くて長い指が、用紙を指さす。慌てて近くのペン立てに差してあったボールペンの芯を出して彼に渡す。
『そう。太枠の中。あ。それから、住所確認できるものお持ちですか?』
ボールペンを受け取った青年は、頷きながら名前を書く。
きたじますず。
北島鈴。
それが、彼の名前だった。
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