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第三章 テオドルス・サリバン
67.満月
しおりを挟む空はどこまでも黒く澄んで、大きな月が出ていた。
いつもは眠る前に窓から外を眺めていたけれど、今日は身体がダルくてもうベッドに横になっている。側室に入って二週間が過ぎたけれど、思うほど生活の変化に動揺していない自分が居た。
諦めていれば、大抵のことは見過ごせる。
期待しなければ人生はそんなに苦しくない。
上体を起こすと、腰がズキズキと痛んだ。テオドルスとの行為は毎晩行われ、その疲労は着実に身体に溜まっていた。まるで自分の権威を刻み付けるかのような激しい抽挿を思い出して、私は自分の肩を抱える。
開けたまま放置していた窓からは、強い風が吹き込んでいる。もう就寝するのならば閉めておいた方が良いだろう。先ほど一瞬だけ姿を表せした皇子は、急な連絡が入ったと言って、すぐに部屋を出て行ってしまった。
(今日は戻って来ないのかしら……?)
心の内で考えながら窓に手を掛けた瞬間だった。
ズイッと下から伸びて来た片手が、窓枠を掴む。
悲鳴を上げるよりも先に、勢いよく部屋に転がり込んだ男は私の口を塞いだ。大きな手のひらに呼吸を邪魔されて、私はバタバタともがく。
薄暗い部屋の明かりに照らし出された顔を見て、私は驚愕した。切れ長の赤い瞳が私を捉える。
「お久しぶりです、ジュディ先生」
「ヴィンセントくん……!?」
場違いな笑顔に私は自分が夢でも見ているのかと思った。
どうして、なぜ、と次々と溢れ出す疑問の対処に追われる私を前に、ヴィンセントは距離を取って私の格好を眺めた。カッと顔が赤くなるのを感じる。夜な夜な繰り広げられるテオドルスとの性交の痕は、しっかりと私の身体に残っていたから。
しかし、彼は親切にもそんなことは指摘しなかった。
その代わりにふいに抱き寄せられ、腕の中に閉じ込められた。私は、久しぶりに感じるあたたかな体温と匂いに涙が出そうになる。
ずっと、心の奥で欲していたもの。
私の心を休ませてくれる存在。
だけど、どういうわけか身体はすぐに離された。
「先生……側妃になったんですか?」
「あ…うん。そうなの、やっぱり借金って大変だし、娼婦だってずっと出来る仕事じゃないから」
でも突然すぎる話よね、と笑い掛けようとしたところで、私は自分を見下ろす二つの瞳がひどく冷え切っていることに気付いた。
「………ヴィンセントくん?」
「それは、あの男が付けた痕ですか?」
それというのがキスマークで、あの男という言葉が皇子であるテオドロスを指していることは分かった。
どうしてか不機嫌になって他人のような冷たさを見せるヴィンセントに私は狼狽えた。側妃なんて実質愛人なのだから、そうした行為が行われているのは仕方ない。彼が何に怒っているのか分からないまま、私は言葉を選んで返事を返す。
「……あの…あのね、私は側妃だから…」
「分かってます。先生が自分で望んだ道だって。僕は貴女の借金をすべて返済する資金力もないし、貴女を囲えるような権力や地位もない」
「………、」
「十分に分かってるはずなのに…ごめんなさい」
距離を詰めたヴィンセントは、私の手首を握り締める。
そうして押されると私の身体は後ろにあったベッドの上に転がった。慌てて起きあがろうと試みても、覆い被さる大きな壁は退いてくれそうもない。
咄嗟に、今しがた出て行ったテオドルスのことが浮かぶ。
いつ帰って来るか分からない。加えて、この部屋の外には見張りのようにメイドや使用人たちが配置されているのだ。
「やめて…!外には人が居るのよ……!」
私はヴィンセントの肩を揺さぶった。
しかし、狂犬は気にする様子もなく私の足首を掴む。
「じゃあ、呼べば良い。貴女が本当に嫌なら大声でもなんでも出して、自分の危機を知らせてください」
「そんなこと、」
「僕は…結構今、気が立ってます。こんなこと言って最低だけど、先生が慰めてくれませんか?」
慰めるという言葉の意味を理解できないほど私は子供ではない。彼が望むこの先の行為を、私は分かっている。
だけど、もしも誰かに見つかった場合に、どのような結末を遂げるのかについてもよく理解していた。おそらく私たちがもう二度と会えなくなってしまうことを。
「ヴィンセントくん……お願い、帰って…」
「また、僕を突き放すんですね」
「違うわ!突き放したのは貴方の方よ、婚約者が居て、私は都合の良い相手だって…!」
ヴィンセントはハッとしたように顔を上げた。
「あんなの嘘ですよ。僕が抱える問題に、先生を巻き込みたくなかった。僕が愛しているのは、今までもこれからも…先生ただ一人です」
「………っ」
「信じてくれませんか?」
「あ、いいえ……」
「べつに良いです。信じてくれるまで、想い続けますから」
そう言って吸い込まれるように唇は重なった。
或いは、自分から重ねたのかもしれない。
私を包んでいた薄い布たちが床に落ちて行く。吐き出した息が水気を含んで、私は溢れそうになる声を抑えるために手の甲を押し当てた。
緊張と罪悪感で、どうにかなりそうだ。
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