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第二章 ジュディ・マックイーン
31.同僚、再び
しおりを挟むやけに冷え込む朝だった。
私は小さなブランケットに包まったままでキッチンまで歩いて行く。机の上には先月分より少し増えた札束が綺麗に封筒に納まって置かれていた。きっと彼なりの謝罪の気持ちなのだろう。
(そんなもの、必要ないのに……)
必要以上に突き放して距離を取ろうとしたのは私の方だ。ヴィンセントから向けられる気持ちを恐れて、一番威力のある言葉で捩じ伏せた。
夫を殺したという彼の供述よりも何よりも、私はただただ自分の快適な生活が壊れることが怖かった。娼館での仕事で疲れ果てて帰宅しても、家に帰ればヴィンセントが居たから。
何も求められない、だけど一人ではない。
そんな負担のない関係が楽だった。
朝は私が食べたいものを二人分作って出せば、彼は食べてくれる。よく分からないルーティンに付き合う必要もない。その日あった出来事を、ヴィンセントは何も否定することなく聞いてくれた。私が酔っ払ったら介抱してくれて、冷たい水まで差し出してくれたりした。
思い返せば、心地良いと思っていたそれらの行動にはすべて、彼の心があったのかもしれない。私が目を背けて、逃げ出した自分の心と、彼はきっとずっと前から向き合っていたのだ。
「………ヴィンセントくん、」
一人きりの家は寒い。
声がやけに反響して聞こえる。
彼はどこに行ったのだろう。行く宛には不自由しないと思うから、心配するだけ余計かも。街で見かけたあの短い髪の女の子の家に転がり込む可能性だって高い。
ヴィンセントがどういう経緯で私に好意を寄せていたのかは分からないけれど、彼の相手は私ではなくて良いと思えた。生徒が担任の教師を好きになるなんてよくある話で、一種の憧れに近いそれを恋心と勘違いするのは若者にはよくある現象だ。その勘違いを五年も続けられるのは、驚きだけど。
それにしても。
ベンシモンを殺害したという話は本当だろうか。私の気を引くための冗談にしては笑えない。実際、彼が持っていたネクタイはベンシモンの持ち物だった。
(警察に行くべきなのかしら……?)
行ってどうしたいのだろう、私は。
彼を容疑者にして慰謝料でも貰いたい?
それとも、心からの謝罪を受けて、遺体の場所でも聞き出せば良いのだろうか。もうべつに、その朽ちた身体に戻って来てほしいとも思えないけど。
ぼうっとする頭で寝室へ戻った。
姿見の前で被っていたブランケットを床に落とす。
露わになった胸元には花が咲いたような赤い痕が残っていた。片手で触れると見えなくなるくらい小さな痕。それは優秀な黒い犬が見せた反抗の印だった。
目の下のクマが気になって鏡へ寄ろうとした時に、リビングに置かれた電話が鳴った。慌てて私は走って行く。上がった息に気付かれないように、咳払いしてから電話に出た。
「もしもし、ヴィ……」
『マックイーンさんのお宅で間違いないですか?』
「あ、はい…そうです、間違いないですけど…?」
どうして開口一番でヴィンセントの名前を出したりしたのだろう。深い反省をしながら、受話器から繋がるコードに指を掛けて捻った。
「あの…どちら様ですか?」
『貴女に用事があるわけではないんです』
「えっと、もしかしてヴィンセントくんの同僚の方?」
『ヴィンセント……?』
先日訪ねてきた大男のことを思い出しながら私は話す。
ヴィンセントが居候中の連絡先として、この番号を会社の人たちに伝えていたのかもしれない。だとしたら、もう彼は居ないと教えてあげなければ。
「申し訳ないですが、ヴィンセントくんはもうこの家には居ません。彼がどこに行ったかも知りませんから」
『……貴女は、もう新しい男を作ったのですか?」
「はい?」
『お話出来て良かったです。良い一日を』
電話はそこでブツッと切れた。
ツーツーという電子音を聞きながら私は首を傾げる。
丁寧な物言いのわりにトゲのある話し方だった。言われた言葉の意味も分からないし、何だったのだろう。
せっかくの一日をこんなことを考えて無駄にしてはいけないので、私は回しっぱなしだった洗濯機から洗濯物を取り出す。目に沁みる青空の下で一つ一つを干し終わって、部屋へ帰ったところで再び電話が鳴った。
構えて出たけれど、それはブリリアからのお茶の誘いだった。義理の弟の結婚式に着て行くドレスを一緒に選んでほしいらしい。安堵して了承の返事をしつつ、クローゼットから長めのストールを引っ張り出した。
そのまま仕事へ向かうことになるから、日常用と仕事用の中間ぐらいの化粧を施して私はブーツに足を入れる。鍵を掛けずに出そうになって、慌てて締めた。
もう、この家には私以外の人間は居ないのだから。
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