上 下
88 / 99
第四章 二つの卵と夢

80 ハインツ

しおりを挟む


 サガンでの観劇から三日が経っていた。

 新しい一週間が始まったけれど、デ・ロサ伯爵家の双子は登校して来ない。ピクシー・ベルーガの話では、彼らの父であるガイツは一命を取り留めたらしいが、二人が今後一緒に住むことを選択するのかどうかはまだ未定らしい。

 大女優オリアナ・デ・ロサの訃報はすぐに国中に広まって、いくつかの劇場や施設はその死を弔うために数週間の休業を発表した。それほどまでに、彼女の死は芸術の世界にとって痛ましいものだった。


「コレット~~、野菜のクズが溜まったんだけどアンタのとこのネズミにやるかい?」

 そう言って部屋に入って来たのはマダム・ミロワ。
 目が覚めるようなスカイブルーの布地に大きな白の水玉模様のワンピースを着こなせるのは、きっと彼女かベルーガぐらいだろう。

「ありがとう、マダム。だけどごめんなさい、オーリーは今のところ人間と同じものしか食べないの。前の飼い主さんがそうやって餌付けしたみたいで……」

「んまぁ~贅沢なネズミだね!こんなブクブクに太っちまって、あぁ~ブサかわいい!!」

 このこのっ、とマダムに突かれて、コレットの肩の上のハムスターはよろける。慌てて片手を差し出して手のひらの上に乗せながら、内心レオンへの恨み節を唱えていた。

(なーにが私の言うことは聞く、よ……!)

 レオンが変身した姿、つまりノエル・ブライスとしてプリンシパルに顔を出したのは月曜日のことで、アニアなんかは心底喜んだ。

 欠席を続けていたノエルの久しぶりの登校は、週末の事件のことで沈んでいた一年一組に少しだけ明るい雰囲気を運んだのは本当で、コレットも安堵したのだ。

 したのだけれど。


「しっかし災難だったねぇ~~急に教え子のペットを預かることになるって。アタシだったら突き返しちまうよ」

 うっかり尻に敷いても怖いし、とマダムは心底恐怖した顔で自分の身体を摩る。

「ね、本当にそうですよ。良い迷惑ですし、早めに引き取ってくれることを願ってます」

 そう言って手の中のハムスターを見遣ると、ずんぐりとした小さなオーランド・デボワは怯えたようにチュウッと鳴いた。

 何を隠そう、この愛くるしい生き物はかのデボワ伯爵なのだ。

 久しぶりに来たと思ったらレオンは「家庭の事情で飼えなくなった」とコレットの前にネズミの入ったケージを押し付けて来た。檻の中で懸命に滑車を回すのはどうやら魔法で姿を変えられたオーランド・デボワらしく、彼の魔力と言葉はレオンによって封じられているそうで。

 それじゃあ自分で飼えば良いのに、と何度訴えても王子は「アレルギーが出る」の一点張り。確かにレオンは話している間、終始目が赤く、痒そうにしていた。不思議とコレットに症状は無い。それならば他の生き物に変えてみては、と進言したけれど、どういうわけか昆虫や蛇にしてみたところでアレルギー反応が出てしまうとのことだった。

 隔離場所が決まる間までの暫定的な滞在らしいけど、自分の部屋に見知らぬ男が(ネズミの姿とはいえ)居座るのはあまり良い気がしない。


「そういえば、今からパンケーキを焼こうと思うんだよ。ハインツを呼んで来てもらえるかい?」

「本当?嬉しいわ!すぐ行く!」

「あいよ、キッチンで待ってるよ~」

 愛想の良い笑顔でその場を去るミロワを見送って、コレットは持ち歩き用のカゴの中にオーランドを移す。レオン曰く「居場所は常に管理している」らしいけれど、万が一脱走されたら大変だ。

 同じアパートメントの住人であるハインツ・ニードリヒの部屋はコレットの隣にある。思えばまだペットを飼うことになった報告をしていなかったので、カゴを片手に行ってみることにした。



「ハインツー!」

 トントンッとノックしても返答はない。
 鍵が掛かっていなかったのか、強めにノックした拍子にドアは奥へと開いた。コレットは前へとつんのめって玄関に無様に転がる。

「んだっ……!」

 なんとかオーランドの入ったカゴだけは死守したけれど、両膝を強く床に打ち付けて痛い。大人になると転ぶことなんて滅多にないから、尚更痛い。

 勝手ながら侵入してしまった部屋の中で、恐る恐るコレットは周囲を見渡してみる。自分やマダムの部屋と違って物の少ないハインツの部屋は新鮮だ。

「─────、」

 話し声が聞こえたので、思わず首を伸ばして部屋の奥を覗いた。

 見れば、白い机の向こうで耳に何かの装置を付けたハインツがモニターを前にして話している。薄いモニターはレイチェルの保健室にあるものに似ていた。

「ハインツ?」

「………!」

 名前を呼んだ瞬間、それまで表情のなかったハインツの顔に驚き、そして焦りの感情が浮かぶのが見えた。慌てて立ち上がった勢いで、耳から伸びていた小さな器械が外れて落下する。

「ごめんなさい、作業中だと思わなくって!ノックしたんだけど聞こえた?勝手に入っちゃって気を悪くしたなら謝るわ。マダムがパンケーキを、」

 その時、床に転がっていた小さな器械がジジッと音を発した。

『おい……聞いてるのか、司会?』

 コレットが何かを言う前にハインツはそれらを拾い上げて握り込む。何やらタイミング悪く部屋に入ったことを申し訳なく思いながら、とりあえず両手を合わせて玄関へと向かった。


「本当にごめんね、また時間が出来たら降りて来て。マダムがパンケーキ作ってくれるって!」

「わぁ、最高だね。おやつにちょうどいい。もう少しで片付くから、終わったら合流するよ」

 ひらひらと笑顔で手を振るハインツに見送られてコレットは階段を駆け降りる。目先の美味しいご馳走に高揚する気持ちで、さっきまでカゴの中で騒いでいたオーランドが奇妙なほど静かなことに気付かなかった。









◇おしらせ

ご愛読ありがとうございます。
明日から第五章に入ります。

9月、31日まであると思っていたらもう終わったんですね。ストックが薄くなってきたので、もしかすると更新のない日があるかもしれません。流行りのマイコプラズマ肺炎に罹った関係で、なかなかお話を書く余裕がなく……

なるべく更新したいのと早くまとめていきたいので、気長にお付き合いいただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

異世界転移したロボ娘が、バッテリーが尽きるまでの一ヶ月で世界を救っちゃう物語

京衛武百十
ファンタジー
<メイトギア>と呼ばれる人型ホームヘルパーロボット<タリアP55SI>は、旧式化したことでオーナーが最新の後継機に買い換えたため、データのすべてを新しい機体に引継ぎ、役目を終え、再資源化を迎えるだけになっていた。 なのに、彼女が次に起動した時にいたのは、まったく記憶にない中世ヨーロッパを思わせる世界だった。 要人警護にも使われるタリアP55SIは、その世界において、ありとあらゆるものを凌駕するスーパーパワーの持ち主。<魔法>と呼ばれる超常の力さえ、それが発動する前に動けて、生物には非常に強力な影響を与えるスタンすらロボットであるがゆえに効果がなく、彼女の前にはただ面倒臭いだけの大道芸に過ぎなかった。 <ロボット>というものを知らないその世界の人々は彼女を<救世主>を崇め、自分達を脅かす<魔物の王>の討伐を願うのであった。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

かの世界この世界

武者走走九郎or大橋むつお
ファンタジー
人生のミス、ちょっとしたミスや、とんでもないミス、でも、人類全体、あるいは、地球的規模で見ると、どうでもいい些細な事。それを修正しようとすると異世界にぶっ飛んで、宇宙的規模で世界をひっくり返すことになるかもしれない。

私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~

あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。 「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

妹に傷物と言いふらされ、父に勘当された伯爵令嬢は男子寮の寮母となる~そしたら上位貴族のイケメンに囲まれた!?~

サイコちゃん
恋愛
伯爵令嬢ヴィオレットは魔女の剣によって下腹部に傷を受けた。すると妹ルージュが“姉は子供を産めない体になった”と嘘を言いふらす。その所為でヴィオレットは婚約者から婚約破棄され、父からは娼館行きを言い渡される。あまりの仕打ちに父と妹の秘密を暴露すると、彼女は勘当されてしまう。そしてヴィオレットは母から託された古い屋敷へ行くのだが、そこで出会った美貌の双子からここを男子寮とするように頼まれる。寮母となったヴィオレットが上位貴族の令息達と暮らしていると、ルージュが現れてこう言った。「私のために家柄の良い美青年を集めて下さいましたのね、お姉様?」しかし令息達が性悪妹を歓迎するはずがなかった――

旦那の真実の愛の相手がやってきた。今まで邪魔をしてしまっていた妻はお祝いにリボンもおつけします

暖夢 由
恋愛
「キュリール様、私カダール様と心から愛し合っておりますの。 いつ子を身ごもってもおかしくはありません。いえ、お腹には既に育っているかもしれません。 子を身ごもってからでは遅いのです。 あんな素晴らしい男性、キュリール様が手放せないのも頷けますが、カダール様のことを想うならどうか潔く身を引いてカダール様の幸せを願ってあげてください」 伯爵家にいきなりやってきた女(ナリッタ)はそういった。 女は小説を読むかのように旦那とのなれそめから今までの話を話した。 妻であるキュリールは彼女の存在を今日まで知らなかった。 だから恥じた。 「こんなにもあの人のことを愛してくださる方がいるのにそれを阻んでいたなんて私はなんて野暮なのかしら。 本当に恥ずかしい… 私は潔く身を引くことにしますわ………」 そう言って女がサインした書類を神殿にもっていくことにする。 「私もあなたたちの真実の愛の前には敵いそうもないもの。 私は急ぎ神殿にこの書類を持っていくわ。 手続きが終わり次第、あの人にあなたの元へ向かうように伝えるわ。 そうだわ、私からお祝いとしていくつか宝石をプレゼントさせて頂きたいの。リボンもお付けしていいかしら。可愛らしいあなたととてもよく合うと思うの」 こうして一つの夫婦の姿が形を変えていく。 --------------------------------------------- ※架空のお話です。 ※設定が甘い部分があるかと思います。「仕方ないなぁ」とお赦しくださいませ。 ※現実世界とは異なりますのでご理解ください。

処理中です...