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第三章 二人の冷戦編
64.王子は鎖を付ける
しおりを挟むバタバタと数週間が過ぎた。
夏はとうの昔にその気配を消し去って、真紅に染まった木々の葉は秋の到来を教えていた。私は一面に広がるコスモスの花に感動しつつ、息を吸い込む。少し冷たい空気がゆっくりと身体の中に流れ込んだ。
「ごめん、本当は自分で運転して来たかった」
ノアはバツが悪そうに俯きながら言う。久しぶりに予定が合った二人の休みに、遠出をしようと言い出したのは彼の方。しかし、グルグルに包帯が巻かれたその腕に運転など出来る筈もなく、私たちは運転を頼んでここまで送ってもらっていた。
彼の傷の治りは常人よりは早いものの、やはりまだ不自由なようで、いつぞやのデジャヴのようにまた私が衣食住の補助を行っていた。
昨日なんか、チーズがとろけたミルクスープを私がスプーンで口に運ぶ際に、滑って意図せず膝の上に溢してしまい、ノアは涙目で熱がった。思い出して吹き出しそうになっていると、気付かれて後ろから抱き竦められる。
「今、何か悪いこと考えてたでしょう?」
「昨日の貴方の泣き顔を少々…」
「……君がそんなに意地悪だとは知らなかった」
拗ねたように唇を尖らせるので、また笑ってしまう。彼には申し訳ないけれど、力の入っていない腕の中をするり抜け出して、再び花畑に足を踏み入れた。
「ねえ、ノア」
まだ立ち尽くしたままのノアに呼び掛ける。
「私が記憶を失ったらどうしますか?」
一瞬丸くなった赤い瞳を見つめた。ザッと大きな風が吹いて色鮮やかなコスモスの花たちが一斉に首を振る。私は舞い上がる髪を手で押さえた。
「……今まで行った場所を可能な限り全部回って、毎日自分の気持ちを伝え続ける」
「なるほど。それで効果があれば良いですね」
「どうだろうね…何年掛かっても良いから思い出してほしいと思うな」
「じゃあ、他の男性を連れて帰ったら?」
「………、」
端正な顔が曇る。私はその目から視線を外さずに、彼の答えを待った。
「……それは今後起こり得る可能性の話?」
「私の口からはなんとも言えません」
「嫉妬するだろうね…頭がおかしくなるぐらい」
「良いですね、ちょっと見てみたいわ」
「何をしても良いと言った手前、矛盾を指摘されても仕方ないけれど…たぶん君が見てないところで相手の男を殺してしまう」
困ったように眉を寄せて、ノアは目を閉じた。
正直な彼の回答に私はまた小さく笑う。
「貴方がやったことをやり返すだけですよ?」
「分かってる。でも俺の両手はたまに意思に反して動くことがあるから、手錠でも掛けた上で事に移してほしい」
「随分と勝手な主張ですね」
呆れて溜め息を吐きながら、花の間を縫うように進んだ。このまま、花の迷路に私が迷い込んで消えてしまったら、ノアは必死になって探すのだろうか。
何もかもがすぐに元通りというわけには行かず、相変わらず寝室は分けたままで、それに関してはノアも立場上何も文句は言って来ない。オリオン国王夫妻や使用人たちは、時に言い合いを交えつつ互いを支え合う私たちを、あたたかく見守るスタイルに徹しているようだった。
「私、貴方の鎖になりたいです」
「鎖?」
「これから先、何をする時も私のことを思い浮かべてほしい。そしてそれが貴方にとっての抑止力になれば嬉しい」
「……時と場合によっては起爆剤になるかも」
冗談半分でまた返すので、ズンズンと近寄って右腕の傷をグッと押すと痛そうに顔を歪めて身を屈めた。
「私は本気で話してるんです!」
「ごめん、リゼッタ。真面目な話、嬉しいよ…俺の首に君が鎖となって巻き付いてくれるなら、もう悪さも出来ない」
「……本当に?」
「この命に誓って、本当に」
ノアは小さく笑って、私の右手を取るとその甲に口付けた。どうしたものかと頭を捻るけれど、これ以上の話はもう必要ないと思えたので、黙って銀色の髪を撫でてみる。
鎖の先を私が握るとして、今まで奔放に生きて来たこの気儘な王子を飼い慣らすのに一体どれほどの時間が掛かるのだろう。手のひらに舌を這わすノアに注意を飛ばしながら、待てから教える必要性を強く感じていた。今度、図書館で犬用の教育書を借りてみるのも良いかも知れない。
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